親を避ける子

05-27,2017

2017_春(70)
あのう、世の中には、「親を避ける子」っていうの、
いるみたいで、考えてみれば、
実話をもとにしたテレビドラマ「洞窟おじさん」も、
親を嫌忌して家出した中学生の話ですけど、家出後、
彼は「人を避けて」、一人で生きたんでしたね。

そういう人に比べれば、どん兵衛のテレビCM、
「どんぎつね出てきません篇」なんかは、
「寄ってくる女性」にじゃれつかない青年ですから、
女性を「避ける」までは深刻にはなってませんね。

まあ、深刻なのは、「親を忌避する」子の存在で、
子どもがそうなっちゃうのは、
子ども自身の問題ではなく、
「社会的な問題」、特に、
親子関係から生じた問題だと思いますね、私は。

それで、昨日は、子どもが嫌いだし、
子どもを愛することができない親の話を書きました。
そうなんですね、そういう親を持った子どもは、
「親に対する子どもの愛情」が、
「報われない」というか何というか、
子どもからの親に対する愛情が、
「親に届かない」し、
「受けとめてもらえない」んですよね。

だから、そういう子の悲惨さっていうのは、私は、
とてつもなく大きいものだと思います。

そしてそして、親たちにどれほど愛をささげ続け、
子どもがですね、自分を犠牲にして親に尽くしても、
親から冷徹な仕打ちを受けるばかりだったとしたら、
子どもはどんなふうになっていくでしょうね。

さて、次は、「気分」のことなんですけど、
そういう子って、日々を「気分良く」過ごすなんて、
絶対不可能でしょうね。

それで、「気分良く」いられるっていうのは、
とっても幸福なことで、ですから、
「気分良くいられない」状況に子どもを追い込む親、
そういう親は最悪の親で、もう、親というより、
魔物の部類じゃないかとさえ思います。

そんなわけで、子どもを不幸に陥れる親に対しては、
子どもは自然と忌避感情を抱くわけでして、
やっぱりねえ、子どもの幸福のためには、
そういう親と絶縁することが必須だと思います。

そして、心優しく、温かい人々との交流によって、
親たちから得られなかった、
幸福な人間関係を持つことができるようになるなら、
それ、一番いいことじゃないかなと思います。


「気分良くなれる」って、幸福のためにはすごく大切。

赤ちゃんは愛を表現

05-26,2017

2017_春(69)
昨日のブログに、こんなことを書きました。
「好きな人に、
 素直に好意を示すことができるのは幸福。」

さて、赤ちゃんですけど、養育者に対してですね、
私の推測では、もう、自然と、
「好意を持っちゃう」し、「愛情を示す」だろうと、
いやあ、ほんとにそう思います、母はもちろん、
父とか、祖父母とか、そうじゃなくても、
自分を養育する人に対してですね、
赤ちゃんの気持ちって、そんなふうだろうと・・・
(乳児のときの記憶がありませんから、想像ですが。)

それで、社会一般に、親とか養育者というものは、
赤ちゃんを愛してるし、大切にするものだと、まあ、
それが世の中の人の見方じゃないかと思いますけど、
今の時代は、「子どもの虐待」ってことが、
昔より「あからさまに」顕われる機会が多くなって、
それで、ひどい世の中になったようにも見えますけど、
いやいや、昔だって、子どもの虐待はたくさんあって、
でも、「覆い隠されてた」面が多かったと、
私は思っています。

ところで、子どもが嫌いだし、愛することができない、
いや、ほんとにそういう親とか養育者っていうのは、
世間にいっぱいいるものなんですね、事実として。

そこで、赤ちゃんが・・・ですね、
自分の中にある好意と愛情を、全身全霊でもって、
親とか養育者に表現したとしても・・・ですね、
それを「受け取ろうとしない」親や養育者って、
世の中にたくさんいるわけでして、現実問題として。

あの、ひどい話になっちゃいましたから、
今日はこのへんでやめます。
まあ、「事実を直視」しますから、このブログでは、
それで、お許し下さい、こういうことを書きますの。

まあ、言いたかったことは、
「大好きなママやパパ」あるいは養育者に対して、
命の全部をかけて愛を表現しても、その表現が、
「むなしいばっかり」という境遇の赤ちゃんが、
実際にいるってことなんですけど、そうなりますと、
その赤ちゃんは、どういう態度や人間観の人に育つか、
・・・ということに関心が向きましたということで、
あの、「人になじめない子」とか、
「人を避ける子」っていうのが、
世の中には、ある程度の数、いるようですし、
そしたら、たいへん不幸なことだと思いましたから。


好意や愛情を、相手の人に受けいれてもらえたら幸福。

好き避け

05-25,2017

2017_春(68)
いやあ、世の中のことって、やっぱりねえ、
「知らないこと」っていっぱいあると思いました。

Yahoo Japan のトップページですが、下のほうに、
「みんなのアンテナ」っていうのがありました、
今日、そこに、「なぜ避けるのでしょうか?」、
という見出しを見つけ、ざっと読んでみました。

詳しくは読まなかったのですが、文中に、
「好き避け」という言葉が出てきまして、
社会的な人間関係のいろんなことって、なかなかねえ、
自分では「わかってない」ことも、この広い世間には、
いろいろあるんだなあ・・・と思いました。

あの、その文は、男性がですね、
女性から「好き避け」されてるんじゃないか? 
・・・っていうようなことみたいですけど、
そこから私は、どん兵衛CMの、
「どんぎつね出てきません篇」を連想しまして、
そのCMは、男のほうから、女性を「好き避け」する、
その様子が描かれてるんじゃないかと気づきました。
・・・気づくのが遅いですね。

あのう、それで、好きだったら近づきたいのが、
人情というものかと思いますけどね、その反対に、
「好きなのに避ける」というのでは、不幸、不幸、
とっても不幸だと思いまして、どん兵衛CMでも、
せっかく、かわゆい女性が出現したのに、彼は、
「避けちゃう」んですよね、・・・なぜか。

まあ、この話題、明日続けて書きたいです。


好きな人に、素直に好意を示すことができるのは幸福。

欠け、反り、ゆがみ

05-24,2017

2017_春(67)
どん兵衛CMの話を毎日書きますと、あきちゃうので、
今日は別の話題ですが、品物の一部分が欠けたり、
たとえば木製品が反ったり、ゆがんだりということで、
そうですね、茶道具などでは、陶磁器のヒビとか欠け、
木製の茶道具は、年月を経て反りやゆがみが出ること、
あるんですけどね、「使えない」ほどでない場合は、
それでも「使用する」ってことがありまして、そこが、
「傷物はダメ」って価値観とは、違いがあるんですね。

また、社会一般の感覚で言いますと、
「傷」だとか「欠点」だと見られるような面を、
おもしろいとして、かえって「珍重」するような、
世間の人には、あんまり受けいれられないみたいな、
そんな価値観も、茶の湯の人にはあるかと思います。

それで、私、何日か前なんですけど、ある経緯で、
長い長い年数、使われてなかった風炉と釜を譲り受け、
その風炉・釜にですね、久しぶりに炭を熾し、
湯が沸かしたってことなんですけど、最初の数回は、
「湯を沸かす」だけにして、茶は点てませんでしたが、
今日始めて、その釜の湯で薄茶をいただいてみました。

でもまあ、その風炉と釜ですが、肌が「荒肌」なので、
茶道具に関して全く「知らない人」が見た場合ですね、
「朽ち果てた」汚い風炉と釜に見えるんじゃないか?
なんて思ったことでした。

あのう、「世間一般」というものは、
いわゆる「常識的」な見方をするというのが普通で、
だからこそ茶人は、
「風変わりな人」と、社会的には見られるのかなあ?
・・・なんて思いますけど、風炉や茶釜の「荒肌」、
それは、「わざと」ですね、
そういうふうに「つくっている」のであって、
いやあ、そのへん、やっぱり茶人というのは、
世間の常識みたいのを超えていると思いますけど、
そのことには深入りせずにですね、
今日、言いたかったことは、
「傷が皆無の玉」が良いんだという価値観、
あの、そう書きますのは、
「玉に瑕」ってことわざがあるからでして、
でも、私は、「傷があってそれでいい」という、
そういう価値観について書きたかったわけでして、
あの、欠点、至らない点、まずい点、ダメなところ、
そういうものがあってもですね、それは、
自分の価値と幸福感には影響を及ぼさないってこと、
それを書きたかったわけですが、
もっと詳細に書く必要があるかなあと思いまして、
機会をみましてそのうちまた・・・


欠点とかダメなところなど、気にする必要がない幸福。

再びどん兵衛CM

05-23,2017

2017_春(66)
20日に掲載したブログの続きなんですけど、
「孤独な男の幻です」のことをもう一度書きます。

あの、「孤独な男の幻」というんですから、
孤独な男がですね、心から女性を「求めてる」という、
その「求める気持ち」、
あるいはさらに、「渇望」とか、もっと言えば、
心が「飢餓状態」だったり、うずいていたりとか、
極大な表現をすれば、「おどろおどろしい情念」、
まあ、そこまで言うと極端すぎますけど、でもねえ、
「あるかも?」って思うんですね、心の底には。
・・・なにしろ、「孤独な男」が、思い余って、
「幻」まで見ちゃうというんですから。

まあ、そのへんのこと、わかりませんけど、人って、
自分の強い思いでも、なぜかなぜか、
そんな気持ちに気づけないとか、あるいはまた、
無意識のうちに「押さえつけちゃって」るので、
自分のことなのに自分で気がついてないとか、
そういうことって、あるようですね。

さて、「孤独な男の幻です」の踊りの後、
青年は言います、「ですよね!」

ああ、あの子は「現実じゃないんだ!」って、
「現実じゃない」ことに「決め付けて」ますよね。
自分でも気づいてない心の奥底では、
女性を求めて、求めて、
狂おしく求めてるのが「本心」かも知れないのに。


「自分の気持ちに素直になれる」って、ほんとに幸せ。

どなたですか?

05-22,2017

2017_春(65)
20日のブログに、私はこんなふうに書きました。
__________

部屋に、いきなりかわいい乙女が現れたので、
青年(男性)が尋ねます、「どなたですか?」
すると、乙女は答えます、「狐です。」
__________

上記の件に関して、私は、その青年に疑問があります。
部屋にかわいい乙女が出現したら、その反応は、
「こんにちは」・・・とか、そういうんじゃないの?

あの、別に「こんにちは」じゃなくてもいいんですが、
でも、「どなたですか?」っていう反応は、
彼女を「喜び迎える」んじゃなくって、
「誰何」する態度ですからね、そこには、
彼女の出現に対して、バリアを張ってるみたいな感じ、
しちゃうんですけどね、私は。

それで思います、
「どうしてバリアを張らなくちゃいけないの?」
・・・って。

ではまた、続きは明日ということにしますけど、
バリアを張られてもですね、その乙女、
「狐です。」って答えるところ、かわいいと思います。
悪気がないし、好印象だと思います。


相手の「悪気」を推測しないでいられたら、幸せだと。

孤独な男って

05-21,2017

2017_春(64)
昨日の続きを書こうと思っていたのですが、
その前に、「孤独な男」っていう言葉が、
CMの歌詞にありましたので、
「孤独な男」ってどういうのかなあ?
・・・と思いました。

あの、「孤独な男」だったら、
不幸だろうと思いますし、じゃあ、どういうのが、
「孤独な男」なのかなあと思ったからです。

ちょっと想像できなかったので、
「孤独な男」を、インターネットで検索してみました。

そしたら、「なぜ孤独な男は女にモテるのか?」、
・・・という見出しを見つけまして、
意外な言葉でしたから、読んでみました。

それで、「彼女たちは、孤独に泣いている男に惚れる。
正確に言うと泣いてはいないのだが、
孤独なまま仕事を続けている男である。
仲間とワイワイやっている男には寄り付かない。
孤独と闘っている男には、孤高のオーラがあり、
しかし傷ついてもいる。」という言葉があり、
私には、「意味不明」でした。

この世の中、人はさまざまですし、
社会的に「何に価値があるか」っていう感覚も、
人それぞれだと思いますけど、まあ、上記の考え、
私には、「孤独と闘っている男」とか、
「孤高のオーラ」っていうとらえ方や感覚が、
わかりませんでした・・・というか、
私とは違う世界に住む人の感覚だと思いました。

・・・で、「孤独が男を変える」という本があって、
著者は、里中李生という男性だということが、
初めてわかった私ですけど、その男性がですね、
「彼女たちは、孤独に泣いている男に惚れる。」って、
そんなふうに考えてるんでしょうかね?

まあ、わかりませんけど、でも、
「孤独に泣いている男に惚れる」って言葉は、
女性から愛を受けたいって気持ちがあるからでは?
・・・と思いました、「孤独」を脱してですね。

どうも、話が、
「わけのわからないもの」になってしまいました。
それで、私の考えなんですが、男であれ女であれ、
「孤独」って「望ましいもの」ものじゃないし、
「孤独でないこと」を、人は心から望むんだって、
だからもう、誰だって、世間の人はみんな、
「孤独なんて望まない」と、私は思うんですけど。


人と心がつながっていることの幸福を思いますね。

どん兵衛のCM

05-20,2017

2017_春(63)
いやあ、今日は、当地は急に暑くなりました。
こんなふうに気温が激変しますと、
体調が絶好調とはいきませんが、まあそれでも、
「居るだけ」でも幸せ・・・っていうこと、
それは変わりませんけどね。

さて、どん兵衛のテレビCMに、
「どんぎつね出てきません篇」というのがあって、
そのうちでも、以下のURLのものが、
私としては、たいへんおもしろかったです。
https://youtu.be/xqseQmWuAEA

さて、そのCMは、だいたい次のようなんです。
まずはお歌で、
「どん兵衛のきつね、食べてても」と歌われる中、
狐が登場するんですけど、
その狐がまた、とってもかわゆい乙女なんですよね。

部屋に、いきなりかわいい乙女が現れたので、
青年(男性)が尋ねます、「どなたですか?」
すると、乙女は答えます、「狐です。」

次に、お歌の続きになりまして、
「こんな狐は出てきません」と歌われます。

そこで、若い男が言うんです、
「ですよね~」
・・・あの、あの、「ですよね~」って、
狐が出てこないと「決め付ける」態度であって、それ、
事実を無視し、「狐なんか出てくるはずない」という、
先入観に固執する言葉じゃない?

何でしょう、実際には「出てきてる」んですけどね。
私としては、歯がゆいですね、そういう青年の態度。
つまりそれ、「現実否定」なんですよね!

そこで乙女は、「居ます、居ます」と、自分の存在を、
青年にアピールするんですけどね、その青年、
「いや、いや」って、あのねえ、何、その、
「煮え切らない」態度、・・・もどかしい男ですね!

そこで、現実に姿を現した、かわいらしい乙女の狐は、
「じゃあ、私は何?」って聞くんですよね。
すると、青年の答えが・・・ですね、「何だろう。」

まあ、私の感想は省きまして、コマーシャルでは、
愛くるしい乙女の狐が、次のような歌詞で踊ります。
「孤独な男の幻です。」

そのシーン、踊りと共に、
「孤独」、「男」、「まぼろし」という文字が、
いっしょに映し出されてるのが印象的ですね。

ああ、それで、この続きは次回にしましょう、
このCMを見て、「書きたいこと」があるんですけど、
今日、一挙には書けない内容ってこともありまして。


気持ちを「表現できない」ってのは不幸な状況です。

くすぶる人生の不幸

05-19,2017

2017_春(62)
鬼龍院翔さんと笑福亭鶴瓶さんの対談ですが、
鬼龍院翔さんは、
「キレイな女性を見ると悲しくなる」そうでして、
どうしてかな?・・・って思いましたら、
「根本的に、やっぱ、ネガティブで」と言ってまして、
その後の鬼龍院翔さんの言葉は、
「完全にもう、別の世界の人だなって、
 実感するんですよ。」

その話を聞いて、私は、ああ、そういうわけか!
・・・と分かりました。

この世の中、幸福に光り輝いて見えるような人って、
実際にいますからね、そして今ここに、
自分の不幸に打ちひしがれ、
嘆いているような人がいたとしましたら、その人は、
「幸福な人」のことが「まぶしくて」ですね、
「自分とは違う世界を生きてる人だ」って意識で、
「引いちゃう」ってこと、あると思いますね。
あの、それ、鬼龍院翔さんのことじゃなくって、
別の人、「一般に」そういう傾向の人の話なんですが、
この人間社会、元気にキラキラ輝いてる人もいれば、
落ち込んで暗く、くすぶってる人もいるわけですね。

・・・で、それ以上の、
心理的なことには深入りしたくないんですけど、
ちょっと書きますと、過去の体験で心に痛みを感じ、
しかし、その痛みを「意識しないように」していて、
でも、そういう体験が積み重なって「怒り」が鬱積し、
さらにまた、そういう「怒り」の感情も、
「自分で意識しないように」無理に押さえつけると、
何か、人生がくすぶっちゃうのかも知れませんし、
そのため、世間には、何か「不気味さ」すら感じる、
不思議な人もいることになるのかなあと思います。

まあ、とにかく、「くすぶる」なんてのは、
自分の思いが社会的に「発揮できない」でいて、
自分の心の中で、
情念が波打ち、泡立ってるような印象を受けまして、
そういうの、ちょっと地獄的だなあと思いました。


あのう、心がすっきり、晴れ晴れって、ほんとに幸福。

好きで愛せる

05-18,2017

2017_春(61)
あのう、この世の中、いろんな人がいますけど、
「好ましいなあ」って思える人(他人)がいて、また、
その人を愛することができる・・・なんてのは、
一番幸せなことだと思います。

あの、自分が誰かから「好ましいなあ」と思われて、
「愛される」っていうのが幸せなのかと言いますと、
私の考えでは、実はそうでもなくって・・・ですね、
もっと幸福なのは、
他の人を「好ましいなあ」と思えて、
また、その人を愛することができるっていうような人、
そういう人こそ、「幸せな人」だと思います。

それで、次は、全く別の話を書きます。
今日、私はある団体の用件で、
地方公共団体の事務所に行き、
担当者の方と対面し、用事を済ませましたけど、
担当者はずっと以前から、好感を持ってた人でして、
「用事」とは言いながら、
好意を持ってる人と関われたのがうれしかったと、
まあ、たったそれだけの話なんですけど、
あのう、ほんのちょっと、そんなことだけでも、
人と人との交流って、深まる・・・って言いますか、
以前は、「顔見知り」くらいの関係だった人でも、
今回、言葉を交わす程度の交流をとおしてであっても、
何か、「窓口来訪者」と「担当者」の関係を超えて、
友好的な人間関係のきっかけが造成された、
・・・っていうような気がしたことでした。

そこから飛躍しまして、ダンスの話なんですけど、
ダンスでは、
互いに「手をとりあう」っていう場面もありまして、
そうしますと、「手をとりあう」という、
たったそれだけのことなんですけどね、それって、
人と人との交流、親密さを深めるためには、
ものすごく絶大な効果があると思う私でして、でも、
話が飛躍しましたので、まあ、今日はこのへんで。


愛されるより、愛することができるのが、もっと幸福。

楽しい人間関係

05-17,2017

2017_春(60)
今日もまた、人との出会いで楽しかった私で、
ですから、昨日までの「暗い話」を続けるのは、
嫌になっちゃいましたからね、
話題を転換して、幸福な話を書きたいと思いますけど、
今まで知らなかった人との出会いがあり、
今日、いっしょに楽しくひと時をすごくことができた、
・・・っていうの、私にとっては、それ、
すごく楽しいし、うれしいんことなんですよね。

ああ、いいですねえ、「知らなかった人」だけど、
気持ちが通じ合える人と出会えて、そしてまた、
「次に会える機会もある」って予想ができるなんて、
喜びですよ・・・って思います。

この世の中、そういう出会いもありますからね、
幸せな社会って、やっぱり、基本的・・・というか、
根底には、「人と人との交流の喜び」っていうの、
そういうのがなければ、
「抽象的に」ですね、「幸せな社会」なんてのは、
思い描けないんじゃないかなあ・・・と思う私で、
要するに、「他の人との幸せな交流関係」があって、
それで初めて、この社会が「いいなあ」って、
思えるんじゃないかということですね。

つまり、人が、「良い社会」だなあって、
自分が生きてる社会を評価できるようになる条件は、
その社会の中で、
「他の人との交流関係に喜びを得られる」ってこと、
それは、必要不可欠じゃないかなあと思ったことです。

あの、「人との関係」に苦しんでる人がですね、
自分が生きてる社会を、
「良い社会」だと評価できるはずはないだろうと、
想像するからです。


楽しい人間関係って、やはり、幸福の源だと思います。

悪くないのに

05-16,2017

2017_春(59)
昨日紹介しました記事について、その続きを、
今日も少しだけ抜書きいたします。
まず、次のように書いてありました。
_______

ひとり自宅にこもり、会社にあてて、遺書を書いた。
「会社は何も悪くありません」

大手マスコミに勤めるAさん(25)は当時の心境を、
こう振り返る。

「自分は正しいのに会社が悪いと思っていたら、
転職できるはずなんです。でも、逆の気持ちでした。
他の人ならきっとうまくやるのに、
私に欠陥があってダメになったんだから、
こんな私はどの会社に行ってもダメだ。
そう思っていました」
_________

あの、文章の引用は、今日は、以上で止めます。
上記の一文の中に、「すごい問題」が含まれていて、
世の中、「会社」だけではなくて、「家庭内」にも、
同類の問題がありまして、それが、
子どもを不幸にしていると、私は思うからです。

まあ、似たようなことですけど、
この「社会」が悪いんじゃなくって、
社会の仕組みに「適応できない」私が悪いんだって、
そう思っちゃう人も、世間には多いと思います。

それで、「すごい問題」と書きましたのは、
会社や家庭、あるいは社会に問題がある場合でも、
会社が悪いんじゃなく、
ちゃんと働くことができない自分が悪いとか、
親とか養育者が悪いんじゃなくって、
期待に添ってすばらしい子になれない自分が悪い、
あるいは、社会が悪いんじゃなくて、
世間から批判を受ける自分が悪い・・・みたいに、
「自分を責める」という方向に向きがちだという、
まさに、そのことなんですね。

それで、「きんさんぎんさん」で昔有名だった、
成田きんさんと、蟹江ぎんさんの話を思い出しました。

何と、蟹江ぎんさんと4人の娘さんは、戦時中、
歩くだけで“非国民”と言われたんだそうです。

どういうわけかと言いましたら、きんさんのほうは、
長男と次男が戦争にいきましたけど、
ぎんさんには男の子がいなかったのです。

それで、ぎんさんの四女百合子さんは、
次にように語ったそうです。
「私らが結婚する前は、そりゃひどい目におうた。
 男はお国のためにと兵隊に出せるが、
 うちは女の子ばっかりだったでな。
 世間からはそりゃ白い眼で見られた」

また、五女の美根代さんは、次のように言ってます。
「道を歩くだけで、非国民といわれたがね。
 おっかさんも、“お前さんとこは女ばかりだで、
 人手が余っとるやろ”と、 
 皆が嫌がる消防団の仕事や婦人会の仕事などを
 次から次へと押しつけられた。
 畑で細々と野菜を作っとったが、
 当時は供出というて、国に出さないかんかった。
 それもうちは、
 よそより余計に出せぇっていわれただが」

また、長女の年子さんは、
次のように言ってるそうです。
「そりゃあ、
 おっかさんも悔しい思いでいっぱいだった。
 地団駄踏みたい気持ちだったが、
 “悪いのはあの人たちでにゃあ。
 戦争だがね”といって黙って耐えてござったよ」

そうですねえ、「悪い社会」では、生きていく為に、
世の中の人は皆、「悪くなるしかない」面って、
あると思う私です。

それで、「社会が悪い」ってことは、現実にあるし、
「悪い人間」っていうのも実際にいるし、
また、会社の雰囲気ややり方が非人間的だとか、
家族間で、家族を痛めつけるという家庭だって、
「いっぱい」あるんですよね。

まあ、そんなわけで、悪い社会、悪い会社、
悪い家庭とか悪い親、悪い養育者なんてのは、
「実際にいる」わけで、ですから、
「自分が悪い」ってばかり判断することが、
不幸をさらに深めることになるということは、
たくさん例があると思います。


他人から吹き込まれた誤った考えは、不幸の原因にも。

幸せじゃない世の中

05-15,2017

2017_春(58)
今日の Yahoo Japan 、トップページに、
次のような見出しがありました。

【会社に行きたくないあなたへ】
死ぬまで頑張らなくていい。
産業医が語る「あの政策」の裏側
BuzzFeed Japan 5/15(月) 6:01配信

そうですねえ、現代の日本って、
そういう事情が「見出しになる」し、また、
「読む人が多い」ような社会になってきた・・・と、
私は思いました。

そして、それ、不幸な傾向だと思いますし、
世の中全体が、「幸せから遠い面がある」という、
そんな気もすることです。

さて、その記事なんですけど、
最初に、次のようなことが書いてありました。
___________

「ハイスペック」な女性たちが、
追い詰められている 」

有名大学を出て大手企業に就職し、
管理職候補として期待される女性たちが、
泣きながら働いている。
できないというのはイヤだった。
できるかもしれない、と思いたかった。
【BuzzFeed Japan / 小林明子】
___________

あのう、「ハイスペックな女性」には、
ほんとに気の毒な話で、次回はですね、
その後に書かれている記事を紹介しますが、
「不幸な世の中」になった面もあると思う私でして、
「どこが不幸なのか」を考えてみたいんです。

あのう、その反対を行うことが、
幸福への道じゃないかと思いますから。


「必死の思い」でがんばり続けるのには、不幸な面も。

好意とテレパシー

05-14,2017

2017_春(57)
昨日は「空想」の話を書きましたけど、今日は、
「テレパシー」です。

あのう、相手の人に「好意を抱いて」接した場合、
そういう自分の気持ちが、なぜか不思議に、
その相手に感知されちゃう・・・って、ほんとに私、
そういうことは「ある」と感じています。

ですから、世の中、
「自分がどんな人間か」・・・ということは、実は、
「ごまかしようが無い」部分もあると、私は思います。

あの、確かに、「言葉や態度で自分を偽る」ことも、
社会生活では普通に、日常的に見られるわけですが、
でも、「自分のことが相手にバレちゃってる」面も、
実際は、あるんだと思います。

でも、この話、すごく微妙ですから、また別の機会に、
書くことができればと思います。


今日も幸せを享受して生きましょう・・・

空想の力?

05-13,2017

2017_春(56)
今日はまあ、雨というより、
ひどい荒天になってしまいましたが、ひょんなことで、
「茶室を作る」という空想を楽しんでしまいました。

あのう、あるガーデン業者なんですが、
毎月パンフレットを送ってくれまして、その中に、
「庭に作るハウス」が紹介されてました。

それは、「ガーデニングの作業小屋」とか、
「趣味の部屋」などをイメージしてるようですけど、
私がすぐ思っちゃうのは草庵茶室ってことでして、
あの待庵というのは、秀吉が山崎に陣を敷いた時、
陣中に作らせた茶室と言いますね。

さて、世の中には、いろんな茶室がありまして、
伝統的な茶室もありますけど、独創的な茶室とか、
さらに「変わった茶室」なんてのもいっぱいあって、
別にねえ、「個人が趣味で作る」ものには、
何の規制も及ばないわけですから、「好き勝手」でも、
一向にかまわないわけで、そうなりますと、
社会規範・・・みたいのとはまるで関係なく、
自由に空想を飛翔させることができますし、さらに、
「伝統的な草庵茶室」をいろいろ研究してみますと、
さまざまな発見があって楽しいもので、
「歴史的に価値ある有名草庵」というのは、
どれをとっても独創的でユニークで、
「決まりきった陳腐な茶室」など「無い」んだって、
ほんとに気づかされますね。

ああ、でも、今日書きたかったことは・・・ですね、
「空想」って、世の中の現実を離れた絵空事で、
泡沫、うたかたのようなものだと思ってたのですが、
いやいや、そうではなく、「空想」というものは、
「何と力があることか!」って、
すごく気づかされました。
(空想から発した夢の現実化って、多いと思います。)


今日は楽しい空想でしたが、「夢見る幸せ」でしたね。

05-12,2017

2017_春(55)
昨日も書きました皮膚科の開業医ですけど、
長男に対して、
有名大学への進学を求めていたということのようで、
それ、要するに、三流大学なんかへの進学なんて、
「認めない」ってことですよね。

関連して、私が知ってる人の実例ですけど、その人、
晴れて医者になったのはいいんですけど、
結婚相手にですね、
勤務していた病院の看護師さんを選びましたら、
父親との間に騒動が起きてしまったんです。

その人の父親は、婚約者の看護師さんが来訪しても、
「家に入れなかった」と言います。
父親としては、
「看護師」というのが気に入らなかったわけで、
要するに、「どういう女性(人)か」ということには、
全く興味も関心もありませんで、ただひたすら、
職業とか社会的地位にこだわったということですね。

まあ、結局、
その人は看護師さんと結婚したんですけどね、
父親が反対する気持ちというのは変わりませんで、
いやいや、息子さんとしてはですね、
心理的にたいへんだっただろうと思いますことで、
世間には、同類の話って、いっぱいあると推測します。

また、世の中には、
「○○を許さない」っていうような態度をとる人が、
たくさんいると思う私ですが、それが「親」で、
自分の子に対して「○○を許さない」という禁令を、
数限りなく発する親っていうのが、実際にいましてね、
いや、ほんと、そういう人の子として生まれたら、
不幸の限りがないと思います・・・けど、あのう、
社会的に「立派な人」と見られている人の中には、
「○○は許さない」の禁令連発っていう人もまた、
多いように感じる私です。

そんなわけで、経済的に裕福で、また、
社会的にもですね、「立派な家」、「立派な人」、
・・・みたいに「見られている」家庭でも、
その家庭内に立ち入ってみれば、
「○○は許さない」の「息詰まる家」というのが、
ずいぶんあるのかもしれないと思いますし、
そういう家では「安らぎ」なんて無いだろうし、
ですから、幸福からほど遠いなあ・・・と思いました。


自分のことも他人のことも、許容できるゆとりの幸福。

親につぶされた子

05-11,2017

2017_春(54)
8日と9日のブログに、皮膚科の開業医の息子で、
ひきこもりの上、両親を奴隷化したという、
20代の長男のニュースを書きましたけど、
彼は高校を中退後、
高校卒業程度認定試験に合格したものの、
大学受験に失敗したと言いますが、
「三流大学に行っても意味がない」というわけで、
難関私大の医学部を目指したといいますから、まあ、
受験の失敗は当然、予想されたことだと思います。

・・・ならば、そんな無謀な受験を、
なぜ敢行したのかということですけど、もちろんそれ、
「親の意向」に配慮してのことだと、私は推測します。

それで、親がですね、一流の難関私大医学部に、
息子を入学させようという野望を持っていなければ、
そういう結果にはならなかっただろうと思う私です。

でも、世の中には、同類のことがいっぱいありまして、
自分の子を、社会的に羨望される人間にしたいと、
それはもう「必死になっちゃってる」親って、
いると思いますね。

そこで、私の感想なんですが、問題は、
「そういう野望を持つ親」のほうにあるのであって、
子どもは、「親の願いを叶えたい」という、まあ実に、
けなげで、ほんとにいじらしい心を持っていると、
それは確実だろうと思います。

それで、今日の標題を、
「親につぶされた子」としましたが、世間には、
そういう図式で親につぶされてしまった子が、実は、
たくさんいるだろうと思うことでして、そしてまた、
そういう子が、
不幸から逃れられなくなってしまったという事例も、
多いだろうと思います。


ひどい現実も直視して、幸福への道を探りたいです。

親の呪縛

05-10,2017

2017_春(53)
昨日は、いわゆる「滑り止め」の大学に合格して、
入学までしたんですけど、親の意向により、
1年生として在学しながら「受験勉強」に専念し、
翌年、旧帝大系の国立大学入試に合格し、
在籍していた国立大学は1年で退学して、
旧帝大系国立大学に進学した人の話を書きました。

まあ、社会的に、大学のランク付けなんてのがあり、
世間にはですね、学歴や大学名、さらには、
企業名や肩書きをことさら「気にする」人ってのは、
実際に、たくさん、たくさんいるようでして、でも、
世の中はほんとに「さまざま」ですから、
そういう人ばっかりではないってのも事実ですね。

ところで、
その旧帝大系国立大学に進学した人ですけど、
念願達成というか、親の期待に沿えたというか、
だから良かった・・・ということにはならないと、
私は思います。

なぜなら、その人が達成したものは、
「自分の思い」ではなく、
「親の思い」だと思うからです。

確かにその人は、旧帝大系国立大学進学が、
「自分の希望」と思っていたかもしれませんけど、
でも、それは錯覚で、私の考えでは、
「親の意向」を「自らの念願」と錯覚していた、
・・・と思うんですね。

そうなんです、世の中にはそういうことが多くて、
実は実は、「自分の心」を、
「親に操作されている」子どもってのがいまして、
しかも、「大人になっても」ですね、
そういう親の呪縛から解放されてない人って、
その人自身には「自覚が無い」んですけどね、
私の推測では、そういう人は「非常に多い」と、
いやあ、ほんとにですけど、思っています。

そして、それは、実に不幸なことでして、
でも、この問題、大問題であると共に底が深くて、
少しの文章で書けるようなことではありませんから、
今日はこのへんで。


「自分自身」を生きることができる幸せを思います。

刻苦の人生

05-09,2017

2017_春(52)
昨日の続きを書きますけど、
その「20代長男」の親について、
こんなことが書いてあったんですね。
___________

両親にも問題がありました。
高学歴の父親はクリニックを継いでほしいと期待し、
有名大学への進学を
暗に長男に求めていたようでした。
長男は「三流大学に行っても意味がない」と
難関私大の医学部を目指し、そして失敗しました。
___________

さて、多いんですよね、世の中には、
自分の子が大学などに進む場合、
「一流大学」とか、ある特定の大学でなければ、
もう、絶対ダメだっていう親たちがです。

それで、子どものほうも、
いわゆる三流大学なんてのは、
たとえ入試に合格しても「行かない」し、
それより、最初から受験しないってことが、
あったりするようです。

実際、世間には、「滑り止め」大学に合格しても、
入学しない人もいますし、私が知ってる人ですけど、
滑り止めの某国立大学に合格して入学したんですが、
親の意向を受けて、旧帝大系の大学進学を目指し、
実際には大学で学ぶよりも「受験勉強」に専念し、
翌年、在籍していた国立大学を1年で退学して、
親が同窓生でもある旧帝大系国立大学に、
1年生として入学した・・・って人がいました。

まあ、この世の中、「学歴社会」なんて言葉も、
以前は良く聞いてましたし、それとは無関係ですが、
「五月病」なんて言葉もあったと思いますけど、
「人によっては」ですね、幸福に生きられる世の中を、
わざわざ「苦しみのうちに」生きるという、
刻苦の人生を選択する人もいまして、
人それぞれですからね、
私があれこれ言うことでありませんけど。


「五流大学」と嘆く人あり、中高卒で輝いてる人あり。

ひどく扱われた体験

05-08,2017

2017_春(51)
昨日、Yahoo Japan のトップページで、
「<ひきこもり>
 自宅を占拠し両親を奴隷化した20代長男
 毎日新聞 5/7(日) 9:30配信」
という見出しを見ました。

これはすごい不幸なことと思い、読んでみました。

それで、書いてあったことの一部だけ、
以下、紹介します。
_________________

父親は皮膚科の開業医で、
母親もクリニックで事務として働いていました。
長男(当時25歳)は高校を中退後、
高校卒業程度認定試験に合格したものの、
大学受験に失敗。
受験勉強をしなくなってからも
「俺は浪人生だ」と言い張って
自宅にひきこもるようになりました。
その後、両親を包丁で脅して自宅から追い出し、
母親には暴力もふるっていました。

母親には
「自宅を取り戻したい」という思いが強い割に、
長男や、虐待を受けた妹を
救いたいという親心が感じられませんでした。
弟と妹は、親元を離れることで
こうした都合のよい親の価値観から
逃げ出すことができましたが、長男だけは
両親の影響を強く受けてしまったと言えます。

◇親が子供を支配すると子供は反撃する

子供が親を奴隷のように扱う家庭に共通するのは、
親自身が
子供を支配するような子育てをしてきたことです。
虐待や暴力などの目に見えやすいことばかりでなく、
このケースのように、学歴信仰や肩書、
見栄えのいい生き方など、
親の価値観を
子供に無理に押しつけることも同様です。

必要なのは、「早期介入」です。
例えば、幼少期から家庭の風通しをよくしたり、
子供が
親以外の大人と接する機会を持ったりすることです。

全く考えの異なる親の友人などと接すれば、
親とは違う価値観があることを学べます。
身内や親族は親と価値観が似ていることも多いので、
それ以外の第三者です。

親の価値観を押しつけず、さまざまなことに挑戦させ、

柔軟に生きる力を身に着けさせることが
親の役目ではないでしょうか。
______________________

まあ、世の中には、そういういう親子関係もまた、
少なからず、あるのかもしれませんね。

私の感想ですけど、親が子どもを「囲い込んで」、
自分の家庭外の「外の社会」を子どもが体験したり、
家族以外の人々と接触することを「させない」親が、
実際、いると思います。

それで、なぜそんなふうにしちゃうのか、
親の気持ちは不明ですが、あえて想像しますと、
社会一般の、多くの人々のやり方や考え方に対して、
疑念や不満、あるいは怒りなどが心の底にあったり、
あるいは、反発心、敵対心みたいのが渦巻いていて、
だから、「自分流のやり方」に固執し、
その自分流のやり方を子どもにも押し付ける、
・・・んじゃないかなあとも考えられますけど、
ほんとにそうなのかどうかは分かりません。

ただ、言えることは、世の中とか社会に対して、
「良くない気持ちを抱いている」ということだけは、
確実じゃないかと思います。

まあ、そうしますと、
世間に「同調できない」わけですから、
生きていくのがたいへんじゃないかと思いますけど。

あのう、私は、
「世間に同調しろ」と言ってるのではありませんで、
今までその人が生きてきた中で、
ひどいめにあわされ続けたっていうような人は、
世の中に対する悪いイメージを持つようになるかも、
・・・っていうのが私の想像で、
人や社会に対する悪いイメージっていうのは、
その人を不幸にする原因になることもあると、
そういうことを言いたかったのです。


ひどく扱われた過去の体験が、人を不幸にすることも。

日々に新たに

05-07,2017

2017_春(50)
このブログでは、心の優しさとか温かさの価値を、
折に触れて書いてまして、また、人と仲良くすること、
人を好きになること、愛することの幸福についても、
繰り返し書いてますけどね、でも、この世の中、
「いつも、常に」融和円満の心境でいられるという、
幸福状態が毎日続くなんてことは無いことでして、
折に触れて、人との対立とか、人に迷惑をかけること、
考え方の行き違いや、相手を害するようなこともまた、
日常的に起こってくるというのが、
社会生活を送る上では避けられないことでして、
でも、それはそれでいいのであって、
そういうことが「無いように」っていう考えは、
私には微塵もありません。

また、この社会も、
「良いことばっかり」でなければならないなんて、
極端で現実離れした考えもまた、私は持ってませんで、
争いとか対立抗争っていうようなことも、
世間では毎日毎日いっぱいあることでして、
そしてまた、自分も人との間で、
まずいことが起こるってのも日常的なことで、
それはそれでかまわないわけで、
たとえば人と気まずいことになった、争いになった、
・・・なんて場合は、その人との関係を修復すれば、
何の問題も無いことでしてね、
ですから、日々に日々に、
相手とまずいことになった場合は、すぐにまた、
相手に対する好意や愛情を復活すればよいことで、
好意や愛情の気持ちが「自分の側」にあればですね、
相手もまた、
私に対する好意や愛情をとりもどしてくれることは、
疑いも無いことで、まあ、そんなわけで、
「悪い気持ち」が起こった場合は、
すぐに「良い気持ち」に切り替えること、
そういうことで、日々の幸福は維持できると思います。

まあ、良くない気持ちが起こった場合、
「良い方向に切り替える」ということが大切で、
自分の気持ちを・・・ですね、
「日々に新たに」、幸福な方向に向かって持つこと、
・・・それですね。


では今日も、幸福を享受して過ごしましょう・・・

幸せの条件

05-06,2017

2017_春(49)
昨日の続きを書きますけど、世の中、
他の人といっしょに生きていくとき、
相手の人の思いや自主性を尊重すること、
そういうことができるからこそ、
相手を好きになることもできるし、
愛することもできるんだと思いました。

反対から言えば、
相手を思いどおりに動かしたいとか、
相手を支配しちゃうような人は、
その相手を好きになることもできないし、
愛することもできないってことなんですね。

この社会は、お互い様ってことがあり、また、
相手に対する好意や愛情っていうものは、
不思議に相手に「伝わっちゃう」ものなんですね。

それで、相手に好意を持ち、
相手を大切にするっていう気持ちを持つだけで、
なぜか、
相手の人に自分の気持ちが伝わっちゃうってこと、
よく経験することです。

まあ、今日は、
幸せな状態でいるときの気持ちを書くことができて、
よかったです。


今、幸せにいるってことを「信じられる」心境が大切。

自分の部屋

05-05,2017

2017_春(48)
あの、私って、今住んでる家で、
「自分の部屋」・・・と言っていいような場所が、
無かったと言ったらウソになりますけど、でも、
家の東端部分の「仕切られていない空間」を、
ほぼ自分用に使ってました。

でも、そこは、「いる場所」ではありませんで、
日常は、使っていない空間でした。

ところが今、「部屋の交換」ということになりまして、
私は「自分の部屋」を確保することができました。

それで、荷物の引越しをしてるんですけど、
茶の湯関係の本や茶道具を並べてますと、なんですか、
うれしくなってきまして、
「いいなあ」という感じです。

それで思いましたけど、
「自分の占有空間」みたいなものを持てることは、
ほんとに幸福で、すばらしいことだということです。

そして、自分自身の占有領域を保持しながら、
同時に、他の人と交流するってことが、まあほんとに、
幸福な日々ということになるだろうと思う私です。

つまりそれ、他人に踏み込まれ、侵されることなく、
自分自身が主体的に生きられる空間を持ちながら、
人との関係においては、相手の自主性を尊重しつつ、
でも、親密にできる・・・ってことなんですね。

今日はそういう幸福の形を書くことができて、
良かったと思います。
ではまた明日・・・


自主・自立でありながら、人と親密にできる幸せ・・・

良くしてもらえて

05-04,2017

2017_春(47)
今日の標題は「良くしてもらえて」にしましたけど、
ほんとは「ダメなのに良くしてもらえて」って、
したかったんですね。

でも、「長すぎる」標題ではいけないので、
結果としてそうしたわけですが、私の気持ちとしては、
自分は「ダメなのに」・・・っていう、
そこのところを強調したかったので、つまり、
今日書きたかったことはですね、
自分は「ダメだった」、他人の「迷惑になった」のに、
それでも、ほんとに「それでも」ですね、
他の人から「良くしてもらえた」ってことでして、
この人間社会、他の人から「理由無く」と言いますか、
必然性が認められないのにもかかわらず、
とっても親切にしてもらえたとか、
優しくしてもらえた、
温かい心で接してもらえた・・・なんてこと、
あると思いますけど、どうでしょうか?

そして、そういうの、
感謝、感謝だし、うれしいし、喜びだし・・・

あの、突然ですが、今までの流れを中断しまして、
全く別の話に飛躍するんですけど、世の中には、
「親から否定される子」って、いるんですよね。

ああ、「親から否定される子」って書きましたけど、
どういうのが「親から否定される」ってことなのか、
そのことを、まずは、書かなければならないかも?
・・・って思いましたから、そうですねえ、
このブログは、話題もですけど、書いてる内容も、
遅々として話が進行しない・・・って原因は、
やっぱり、複雑にして深い内容を扱ってると、
そういうことでしょうかね。

それでね、「心からの幸せ」っていうのは、
「心が晴れ晴れ」した上で、
初めて得られるわけですけど、そのためには、
「心の曇りを晴らす」、その、
「曇り」を除去する道の探求がまた、
困難にして「暗い話」になっちゃいますからね、
そんなわけで、このブログでは陰惨な話題も・・・


書くのは、明るく清澄な、極楽世界への幸福の道です。

現実直視で幸福の道へ

05-03,2017

2017_春(46)
インターネット上で、
次のような言葉を見つけました。
「私の意思で、
 我慢や自己犠牲で幸せを作る世界から
 本心で生きることで
 幸せを生きる世界へと切り替えた。」

・・・いやあ、とっても感動しましたし、
すばらしいですね、その言葉。

それで、以下書きますことは、
上記のこととは「全く無関係」の、
私個人の感想なんですけどね、
この世の中、「我慢や自己犠牲」というのは、
社会的に、関わりあってる他の人から、
「我慢」するように、また、
「自己犠牲」を生きるように「強要された」、
その結果だと思うんですね。

そして、相手の人に、
「我慢や自己犠牲」を強いる人間というのは、
世間に多い例として、
「親」とか「夫」があげられるんじゃないかって、
私は思いますけど、
客観的な根拠があってそう言うわけではありません。

でもねえ、やっぱり、子どもがですね、
世に言う「厳しいしつけ」の親から、
我慢を強いられたり、
自己犠牲を強いられたりする例って、
ほんと、多いと思いますし、もっと悲劇なのは、
そんなふうに子どもを「虐待する」親がですね、
「立派な親」と、世間から見られてるし、
評価されてる例って、多いと思う私でして、ですから、
このブログでは、表面は「すばらしい親」に見えて、
実は子どもを虐待している親のことをですね、
「書かなければ」なんて思うことです。

そうですねえ、このブログは、
「幸福」の為には「不幸の原因や実態」もまた、
客観的に見なければならないという方針ですから、
世間の目からは「すばらしい親」に見えて、でも、
実際は子どもをひどいめにあわせてる親のこと、
気が重いですけど、書かなければならないかなあ・・・


世の中の実態やひどい現実を見るのも、幸福に至る為。

出直し

05-02,2017

2017_春(45)
ここ数日なんですが、いろんな用事や、
「しなければならないこと」が重なりあいまして、
ブログを書くどころではありませんでしたから、
今日もまたお休み・・・と思いましたけど、
以前に書きました「書きかけ」の文が、
パソコンに残ってましたので、
今日ももう、あと少しで終わりの時間なんですけど、
「今日も書いた」ということで、
とりあえず、お茶を濁すことにしようと思います。

あの、カラオケで細雪を歌うのが好きな人がいまして、
歌の中に、
「春になったら出直したい」みたいな歌詞があって、
私ったら、歌はそっちのけでですね、
「出直したい」という気持ちのことを、
ちょっと考えてしまいました。

歌詞の中に、
「不幸つづきのおんな」っていうのがありますから、
やっぱりねえ、ヒロインは「不幸な女」で、
まあ、世の中、いっぱいいますけどね、そんな女性は。

そしてまた、「出直したい」という気持ちも、
理解できますけど・・・

それで、出直したくなるほど不幸続きだったの、
それは、その女性の責任だろうか? ・ ・ ・ って、
私、そんなことを考えちゃいました。

あの、そうではなく、この人間社会が、
そして、「世間」というものが、
彼女に不幸をもたらしたんじゃないか?
・・・なんて想像しましてね。

だいたい、歌詞の中に、
「おとこの嘘」っていうのがありまして、
そういう「おとこの嘘」であっても、そしてそして、
「背中合わせのぬくもり」であろうとも、
求めずには生きていけない・・・という、
もう、そこまで書きましたら、
後は気の毒で書けない気分ですね。

それでは、また明日・・・


「出直す」必要なく、現状を喜べるのはほんとに幸せ。

現状肯定

04-30,2017

2017_春(44)
朝夕は、やっぱり冷える感じの今の時期で、
外の様子、「体感」は、朝露がいっぱい・・・です。

・・・その感覚、出入り口を開けて外に出ますと、
地面にも草にも、ビットリと朝露ですからね、
草履で庭に出ると、ぐっしょり濡れちゃうその感覚。

さて、「理想」ということなんですが、
その欠点について、こんなことを思いました。

「理想」を求めるというのは、別の視点から見ますと、
「現状の否定」なんですね。

それで、今のこの現状を嫌って、
別の、「幻想」を求める・・・という面もありまして、
でも、私は、今、このままの状況が好きになれる、
現状が愛せるというのは幸福なことだと思いまして、
そういう意味では、「理想」が是認できない面もまた、
あるということなんです。

あのう、理想を持つのが「悪い」んじゃなくって、
理想を求めることが現状否定になっちゃうとすれば、
いろんな弊害もあるということを思うわけです。


好きになれる、愛せるというのは、現状肯定の一つで。

無意識の否定

04-29,2017

2017_春(43)
昨日のブログに、
子どもが「思いどおりに」ならないと、
激昂する親なんてことを書きましたけど、世の中には、
「他人が自分の思いどおりにならない」ことを、
苦にする人がいるみたいですね。

でも、人間社会、人は誰もが、
「思い思いに」生きているのであって、しかもですね、
それで幸福に生きることも実現できているわけで、
ですから、
「他人を思いどおりにしたい」って気持ちの人を、
理解することができませんけど、まあ、何か、
理由があるんでしょうね。

それで、おそらくですね、
「他人を思いどおりにしたい」っていう人は、
不幸の中にいる人なんじゃないかと思うことです。

あのう、自分は「自分の思いどおりに」生きて、
当然他人も「その人の思いどおりに」生きて、
それでいながら「幸せな自分」でいられる現状なら、
他人が思いどおりに生きることを憤る・・・なんて、
とても考えられませんよね。

もちろん、そういう人は、
「他人を思いどおりにしたい」なんて、
考えもしないと思いますし、そういう発想自体、
起こってこないと思います。

それで、今日、もう一つ書きたいことは、
「他人を思いどおりにしたい」人っていうのは、
相手のありのままの姿、そのままの姿に対して、
否定的・・・というより、「否定そのもの」だと、
私は思います。

つまり、「相手を否定」して・・・ですね、
「自分の思いどおりの相手」に変えたいと、
そんなふうに思ってる人が、世間には、
実際にいる・・・ってことで、
そういう人とまともに交際したら、
自分が不幸に引きずり込まれるだろうと思います。

まあ、それで、「相手を否定する人」もですね、
「無意識のうちに」そうしちゃってるのだろう、
・・・と、私は思いまして、
自分の幸福を維持する為には、
そういう人との関りは避けるべきだと思います。


「自分が肯定できる」ってことだけでも、すごく幸福。

他人から受けた影響

04-28,2017

2017_春(42)
あのう、広い世間ですから、
「いろんな人」がいまして、たとえばですね、
子どもが「思いどおりに」ならないとようだと、
激昂する親なんてのがいまして、当然ですね、
子どもが自分の言うことを聞かない「そぶり」が、
ほんのわずかに見られると「感じた」だけでも、
それは、親の自分に対する「反逆」行為であると、
逆上する「見境の無い」ような親がいますけど、
もう、冷静さを失うほどにですね、そういう親は、
人間に対する警戒心を、常時、持っているのかなあと、
私は思うことです。(自分の子に対してだけでなく。)

そして、そうなっちゃったのは、過去の人生において、
その人が「社会的に」身につけてきたものであって、
決して、「生まれながらの性質」じゃあないんだと、
私は考えます。

まあ、世の中、
人と人とは「関連しあって」ますからね、
「他人からの影響」で、
自分がかたちづくられるってことは、
大いにあると思う私でして、この話、
次回以降も続けて書きたいと思います。


心が健全で温かい人と交流する必要性、そして幸福を。

そういう毒母ですか

04-27,2017

2017_春(41)
昨日の Yahoo! JAPAN トップページに、
「毒母 夫の年金目当てで
『寝たきりでも生かしておけば』
 NEWS ポストセブン  4/26(水) 16:00配信
・・・という見出しがありましたから、
クリックして読んでみました。

書いてある内容を紹介することは省略しまして、
その中から、一文だけを抜き出して紹介します。

「夫や孫が自分の思うような対応をしないと
怒り出すのは昔と同じ。」
・・・と書いてあったんですね。

ああ、ほんとにそうですねえ、世の中には、
「自分の思いどおり」に家族が行動しないと、
怒り狂ってパニック状態になる人っていうのが、
まあ、ほんとにいますねえ。

昨日のブログで、私は、
「不幸な人」は、
「他人にも影響を及ぼしている」というようなこと、
書きましたけど、この人間社会、
「不幸な人」が多くの人々に与える悪い影響って、
大きなものがあると思っています。

また、昨日のブログに、幸福な人というものは、
自分の幸せを実現する為に、
「他人の手を借りなくてもいい」というようなこと、
書きましたが、それはつまり、昨日書きましたように、
「自分を幸せにしてくれ」と、
他人を頼る必要が無いってことなんですね。

ところが、不幸な人というのは、
自分の力で幸福を実現することができないため、
「自分を幸せにしてくれ」と、
他人を頼るってことを昨日書きましたけど、
今日の毒母のことで言いますと、
その人(毒母)の、夫や孫、そして、
その文章を書いているのは、
その人の息子の「妻」でしょうから、
要するにその人(毒母)は、
自分の夫、自分の息子と嫁、自分の孫がですね、
その人の「思いどおりの行動をしないと」、
心が破綻してしまう・・・ってことなんでしょう。

つまり、その人の心が「壊れないで」生きる為には、
夫、子ども、孫などがですね、
その人の「思いどおりに行動する」という、
条件が必要だってことでして、要するに、
夫と子どもと孫は、
その人が精神的に破綻しないで生きる為に、
自分が犠牲になってその人をケアする係を行うと、
そういうことなんですね。

まあ、関連する話は明日にしたいと思いますが、
世間には、「他人を犠牲にして」、
その犠牲よって、どうにか生きられる自分なのに、
その当人は、相手がダメだと思っている例って、
多いんですよね。


世の中の実相や真実を見る目が必要です、幸福のため。

晴れやかで幸福

04-26,2017

2017_春(40)
地下鉄に乗った時のことなんですけど、
相向かいの座席に、
「晴れやかで幸福」な人がいまして、
とっても印象的だったってこと、昨日、書きました。

あのう、「晴れやかで幸福」っていうのは、
私が「感じたこと」ですから、その女性がほんとうに、
「晴れやかで幸福」なのかどうかは分かりませんが、
ちっちゃな女の子を連れていたそのママは、
心が晴れ晴れと、喜びの日々を生きているってことが、
私には「しっかりと」感じとられました。

あのう、地下鉄車両内の人々がみんな、
「曇天」のようだと表現した場合ですね、
幼女を連れたそのママのところだけは、
雲が無くって、「清澄な青空」が輝いてるように、
私には感じられましたこと、昨日も書きましたが、
今日は、「幸せな人」の特色ということについて、
私が思ってることを書いてみたいと思います。

それで、「幸せな人」っていうのは、
「自足している」・・・とでも言いましょうか、
つまり、自分の幸せを実現する為に、
「他人の手を借りなくてもいい」、
・・・という特色があると、私は思っています。

それを反対から言えばですね、
不幸な人っていうのは、
自分の力で幸福を実現することができないでいて、
そのために、「自分を幸せにしてくれ」と、
他人を頼っちゃうってことになるのだと、
世の中の不幸な人の実例を見るごとに、
思っちゃうことなんですが、そういうことはまた、
おいおいと書いていきたいと思います。

人間社会、「不幸な人」というものは、
単に「不幸な人」として、
他の人と「関りなく」存在するというだけではなく、
いろんな形で、「他人にも影響を及ぼしている」、
・・・と思う私でして、
そういうことは、また、明日以降に。


幸福で毒気の無い人というのは、宝物だと思います。

幸せな人

04-25,2017

2017_春(39)
23日のことなんですけど、地下鉄に乗った私は、
相向かいの座席に、お母さんと幼い女の子を見ました。

そして、そのお母さんが、とってもすてきでした。
あのう、たとえて言いましたら、曇り空の日に、
そのお母さんのところだけは清澄で爽快、そして、
輝く青空だったんです。

そうですねえ、そのお女性は、
「幸せの輝き」を発してるって、私には見えました。
・・・あの、ほんとにそうです、「輝いて」ました。

それで気づきましたけど、
平穏無事に見えるこの社会、そして多くの人々も、
困った事態に陥ってるわけではないんですけどね、
実は、濃い雲に覆われた曇天の日・・・みたいでして、
あのう、「晴れやかな喜び」に生きてるようには、
「見えない」ことも多いんですよね。

ああ、そうですねえ、確かに「穏やかな日々」、
・・・みたいに思われますけど、でも、
それにしては、
「晴れやかで弾むような」喜びなんて、
かけらも無くってですね、その反対に、
「重圧」みたいな、「のしかかってくるもの」を、
「耐えて生きてる」っていうようなのが、
今の日本社会に生きる人々に、
たくさん見られる姿なのかなあ?
・・・なんて思っちゃったことでした。

ですからよけいに、
地下鉄の座席で向かい合ったその方がですね、
「すばらしく輝いて見えた」のかも知れませんけど、
私には・・・ですね、テレパシーと言うか何と言うか、
とにかく、その女性の「幸福」が、直観できました。

それで、世の中には、こんなにも幸せの中にあって、
輝いている人がいるんだってことを知ることができ、
すばらしい体験が得られた日になりましたけど、私も、
そのお母さん・・・というか、女性を見習って、
「自分もまた」、晴れやかで爽快な心を保持し、
世間という「清濁共にある」世の中に生きながらも、
幸福を体現することの重要性に心から気づきまして、
「そうしよう」というか、「そうするんだ」って、
その気持ちになれましたことがとっても幸せで、
明日は、「幸せな人」の特色について、
書いてみたいなあ・・・と思っています。


現実社会での幸せを求める私ですが、「可能」だから。

明日かあさってに

04-24,2017

2017_春(38)
昨日は一日中出かけてまして、
とても良かったことがありました。
それは、「幸せな人」を何人も見かけたことでした。

それで、「幸せな人」について、
いろいろと「思うこと」があったんですけど、
今日は近隣の方の通夜、明日は葬儀ということになり、
ブログを書く時間がとれませんので、
また明日、あるいはあさってということにいたします。

生きる喜び

04-22,2017

s-DSC00320.jpg
今日の標題を「生きる喜び」としましたけど、
別に、その標題でいいというか、
ダメだと言われる筋合いは無いと思います。

あの、なぜそんなことを問題にしますか・・・って、
世の中には悲惨な現実がいっぱいありまして、
日々の社会面のニュースもですね、まあ、
地獄的傾向が強いものも多いと思いますけど、
そういう現状であっても、「幸せである」ことや、
「生きる喜び」について書くこと、そして、
実際に幸せに生きる、また、喜びに生きることは、
非難されるべきことではないと思います。

ところが世間には、他人の幸せを激しく憎み、
他人が喜ばしく生きる姿を見ると、
その人を破壊してやりたくなる人もまた、いましてね、
そうしますと、自己を防衛するという意味もあり、
また、憎まれないよう、攻撃されないように・・・と、
「気を回して生きる」人もまた、いると思います。

でも、このブログをお読み下さる方が、実際に、
私に悪意を込めた攻撃を仕掛けてくる可能性は、
低く見積もってもいいだろうと思いまして、
「幸せ」や「喜び」も話題にさせていただきます。

それで、人を好きになることができるとか、愛せる、
仲良くできるなんていうのは、一番の喜びだと、
私は思うんですけど、そういう意味で、
性別というのがあって、
女性なら、男性に好意を寄せることができる、
男性なら、女性に好意を寄せることができるなんて、
とっても幸せなことだと思います。

それでこの世の中、元来別々の人間二人が、
夫婦として「長い年月を共に暮らせる」なんてのは、
人間に「性別」あるからかなあ?
・・・なんて、想像しちゃうことです。

まあ、夫婦なんてのは、仲が悪ければ、
人生の不幸も極大化する可能性がありますけど、
お互いに「問題を抱える」人間同士であっても、
「いっしょに」暮らしていけるというのは、
男女が互いに惹かれるということがあるからで、でも、
結婚している男女は、
夫や妻以外の異性と交際していけないなんてことは、
あるはずも無いのでありまして、
家庭では楽しい夫婦関係、親子関係を保ちながら、
社会の場では男女とも、異性との交流を楽しみ、
喜ばしく活動する・・・っていう中に、
すごく幸福感が感じられると思いますけど。
(そういうことを言うと、すぐ「不倫」だとか、
 あらぬ方向で捉えちゃう人もいるかと危惧します。
 でも、そういうことではありませんから念のため。)

最後に、明日は用事で出かけますから、
ブログを書く時間の余裕がなくって、
お休みになっちゃうかなあ・・・と思います。

 
男女関係無く、人との交流が楽しめるのは幸福ですね。

自分のことが好き

04-21,2017

2017_春(37)
昨日のブログでは、
「人を信頼できる」ということを書きましたけど、
私は、「自分を信頼することができる」人が、
「他人をも信頼できる」んじゃないかと思います。

関連して、今日は、
自分で自分のことが好きっていうことについて、
ちょっと書いてみたいと思いますけど、
そのことは、ものすごく大切なことだと思います。

それ、単に自分ひとりだけのことじゃなくって、実は、
社会的にもたいへん価値があることだと考えます。

なぜなら・・・ですね、
今、ここに、自分のことが嫌いだと思ってる人が、
仮に、いたとしまして、その人は、果たして、
他の人を好きになることができるだろうか?
・・・ということを考えてみますと、
自分自身のことでさえ嫌っているのに、どうして、
他人のことを好きになることができるだろうかと、
私は考えちゃいます。

ですから、世の中が楽しいものになって、
みんなが仲良く、
喜びを享受して生きることができるようになる、
そのためには、「他の人が好き」ってことが必要だし、
それ以前にですね、
「自分のことが好き」っていうことが、
絶対に必要だと思いました。


自分のことが好き、他の人も好きなんて、幸せですね。

信頼と不信

04-20,2017

曇った日の太陽
今日の添付写真も、
曇った日に太陽を撮影したものです。
やっぱり、月を撮影したものとは、
雰囲気に違いがありますね。

そうですねえ、たとえすごく曇った日だとしても、
雲の向こうには太陽があるんだって思えば、
心に元気が出ると思います。

まあ、同じように、社会生活上、
世の中の人々から自分が「認められない」とか、
「否定される」、あるいは、
「ひどいめにあわされる」なんてことが、
仮に、一時的にあったとしてもですね、基本的に、
「人は信頼できるものだ」という気持ちがある人は、
つらい状況であっても、健全な心を保持しつつ、
耐えていけるかなあ・・・と思います。

でも、「人に対する信頼」というものを、
心の奥に持つことができない境遇で生きてきた人は、
そんなふうにはいかないかなあと想像することです。

そんなわけで、世間には、
「人に対する信頼」が心の中に形成されずに、
今までの人生を生きてきた人もいるようで、
そういう人は基本的に不幸だと思いますし、
これから幸福に向かって前進しようと思っても、
人間に対する不信が、
幸福への転換をじゃまするだろうと思いますから、
そんなこともこれから、考えてみたいと思います。


「人を信頼できる」という心の状態は、幸福ですね。

慈愛を持ち続ける

04-19,2017

たらの芽と太陽
昨日のブログに、
たらの芽天ぷらのことを書きましたが、
今日の添付写真は、そのたらの芽を、
数日前のすごく曇った日に撮影した写真でして、
太陽がですね、まるで月みたいに薄明るく写ってます。

その写真の「たらの芽」を、後日、
天ぷらにしたんですけど、太陽だって、曇天の日には、
この写真のように「輝きが無い」んですよね。

それで私は、この世の中、
輝いている慈愛の光も・・・ですね、
「厚い雲」のような存在に妨げられると、
慈しみが「発揮できない」状況に置かれるんだって、
思っちゃいました。

今日の私は、行事から帰宅後、
すぐ近所の人が亡くなりました知らせを受け、
そのこともあって、ブログどころではなく、
今ようやく、パソコンに向かうことができましたけど、
「慈しみの人」が、
充分にその輝きを発揮できる社会体制ってのが、
絶対に必要だと思いました。

それは、ちょっとテレビをつけましたら、
戦争とか、そういう話題がありましたので、
たとえば「戦争」なんて状況になりましたら、
特にですけど、敵国の人なんかに対しては、
内心、「慈しみ」の心を持っていたとしてもですね、
「身内」から非難される・・・みたいな状況って、
起こりかねないなあと思いましたからで、
そう言えば昔、戦時中でしょうか、
「鬼畜米英」って言葉があったとか聞きますけど、
私はその内容を良く知らないんですけどね、とにかく、
相手国の人間が「全部ダメ」っていうような宣伝は、
不幸を極大化する悪魔のたくらみって感じがします。

どうも今日は、話が支離滅裂になりましたんですが、
人を大切にすることとか、人に好意を持つこと、
人を愛することというのは、ほんとに大切でしてね、
それでこそ、幸せな社会が実現できるんですけど、
でも、たとえばですね、
何かの理由で「敵対関係」になった場合、
「敵対」するんですから、当然、自分の勝利を求め、
だからこそ、敵を倒そうとするわけなので、ですから、
敵の「仲間の人」までも憎悪しろ言いたくなる、
その気持ちは分かりますけどね、でもそれでは、
地獄への道を突き進むことになるわけなんですけど、
「たらの芽」天ぷらのことから、
話が全く違う方向にそれて、飛んでっちゃいました。


憎悪の反対、人に対する好意や融和が幸せの元ですね。

たらの芽天ぷら

04-18,2017

たらの芽天ぷら
今日の添付写真は、たらの芽のてんぷらですけど、
「芽」というよりは、若葉もたくさん入ってまして、
私としては、若葉のてんぷらもおいしかったです。

あの、今日、急に、拙宅の庭にあるタラの木から、
芽と若葉を採って天ぷらにしたことでした。

それで、自然界の恵みってことを思いましたけど、
大自然には、人に好都合なこともあれば、反対に、
災害をもたらして、人を不幸に陥れることもまた、
あるんですよね。

そう考えますと、この人間社会、「人の世」もですね、
個人に恵みをもたらすこともあれば、その反対に、
人に災厄をもたらすこともあるなあ・・・って、
思っちゃいました。

そうですねえ、世の中、
「幸せなこと」ばっかりじゃなくって、
不幸なことを「強要されること」だって、
あると思いますけど、でも、
自然界のことと人間社会のことでは、
大きな違いもありまして、その最大の違いは、
自然界のことの多くは、
人間にとってはどうしようもないことも多いですが、
人間社会のことは、「人の意思」によってですね、
「幸福への方向」に向かうこともできるという、
そのことだと思います。

ですから、ですから、「人を大切に」って思いで、
また、「人を慈しみ、愛する」って姿勢で、
・・・っていうことを、ほんとにほんとに望みます、
みんなの幸福のために。


まず自分の幸福を実現すること、それは大切ですね。

否定せずには

04-17,2017

2017_春(36)
世の中には、他人のことを、
「否定せずにはいられない」という人が、
実際にいるんだと思います、体験的にですね、私は。

そしてまた、
「人を愛することができない」という、
心の問題を抱えている人もいまして、
それでもまあ、社会的には、
それなりに人間関係が維持できてるんですけどね、
でも、「幸せ」ということにはならないと思います。

それでやっぱり、
他の人を否定せずに仲良くできるとか、
愛情を持って人に接することができるということが、
幸せの為には必要だと思うことです。

でも、一つ条件がありまして、世間には、
「兇悪な人」もまた、いるというのが現実でして、
その兇悪な人間からは、
「離れる」ことが大切ですから、当然のことに、
兇悪な人と仲良くするとか、
兇悪な人に対して、愛情を持って接するということは、
「常人」には「できない」と思います。
(仏様やイエス様みたいな人には、
 可能なのかも知れませんけどね。)


人を大切にする心と愛情を持って、日々を幸福に・・・

否定される不幸

04-16,2017

2017_春(35)
昨日は「愛されてる自分」について書きましたけど、
その反対の状態で、「愛されてない」という自覚は、
つらいものだと思います。

でも、世の中、「愛されてない」なんてことより、
もっと苦しいのは、
自分が「否定される」ことじゃないかと思いました。

まあ、今日は晴れて暑くなってしまい、
「急に暑くなる」と体の調子が狂っちゃいますが、
苦しい話題っていうのも嫌なことでありまして、でも、
そのことで、社会生活では、
「人を大切にする」ということの重要性が、
より際立ったかなあと思います。

そんなわけで、相手とか周囲の人を否定するのは、
互いに不幸の道と思いますが、
続きはまた、明日以降にしたいと思います。


「慈しみ」を持って人に接するのが重要であり、幸福。

愛されてる確信

04-15,2017

2017_春(33)
あの、「自分は愛されてるんだ」って確信できること、
それは、ものすごく、非常に、きわめて、
超「重要」なことなんだって、今朝、思いました。

「愛されてる」って確信があるからこそ、
社会生活で人を信頼することもできるし、
感謝もできるし、人にやさしくできるし、何よりも、
自分が幸福でいられるんだって、そういうことを、
「言葉にして」意識できたというか、
認識することができました。

それで、思いを「言語表現する」というのは、
とっても大切なことで、
なんとなく「思っていた」としてもですね、
その思いがあいまいで漠然としているのと、
言語化されているのとでは、
認識の明瞭さに大きな違いがあるんですよね。

そんなわけで、この世の中、人々がですね、
「愛されてる自分」ってことを明確に認識できれば、
人と人との関係がたいへんうまくいくし、
みんなが幸せになれると思うんですけど。


人を愛し、人を大切にすることの幸福を思いました。

愛情が無い不幸

04-14,2017

2017_春(32)
昨日のブログを書いた後、
ちょっと私は思った・・・というか、
気づいたんですけど、
あのう、子どもって、大人にとってはですね、
「うるさい」場面っていうの、ありますよね。

それで、保育所や幼稚園が近隣にできる場合でも、
反対する住民がいるっていうの、まあ、世の中、
そういう例は少なくないわけで、確かにですね、
「うるさい」面もあろうかとは思いますけど、でも、
そのことでですね、反対住民を非難するわけじゃなく、
・・・私が思いますのは、子育てって、
「子どもに対する愛情」が必須なんだって、
ほんとにそう思うということなんですね。

それで、子どもに愛情が無い場合、
たとえ父親だって、さらに母親だってですね、
子どもがうるさいし、じゃまだってことはあるわけで、
社会は広いですから、そういう母親とか父親なんて、
いっぱいいるだろうというのが私の認識です。

まあ、今日は、つまんない話題になっちゃいましたが、
「愛情が無い」ってことは、いろんな不幸に関して、
その根本原因になってることが多いかなあ?
・・・って思ったことでした。


あの、愛情があるのとガマンするのとは違うんですね。

花見ができて

04-13,2017

2017_春(31)
昨日は、思いがけずに花見ができました。

昨日の昼の時間帯に、
「行ってもいい」って言われまして、
「それじゃあ」というので、昼食後、
急遽、出かけたんですけど、
行きましたのはある庭園で、
私は以前から、そこで、
桜の季節に野点をしたいと思ってまして、
そのことは前から言ってたことでしたけど、でも、
昨日は特別、風が強い日でして、
私は野点をしたいんですけど、
同行の人が、「風が強いから」と言いますからね、
野点はまた次の機会に・・・ということにしました。

桜はちょうど良い咲き具合で、でも、それより、
ミツバツツジが色鮮やかで、しかも数多く、さらに、
レンギョウもあり、水芭蕉も咲いてるという具合で、
いっぱい楽しめちゃいました。

さて今日は、しなければならないのに、
しないでいた園芸作業をする時間をとることができ、
良かったです。
でも、園芸作業っていうのは、
いくらしても、次から次からすることができますから、
結局、園地を放置しちゃうことになっちゃう私で、
まあ、しかたないことではありますが。


園芸作業ができるなんて、花見と同じくらい幸せです。

発言できない

04-12,2017

2017_春(30)
テレビ番組に「世界ふしぎ発見」っていうのが、
あったような気がしますけど、いやいや、この世の中、
広大な「世界」なんかを探す必要もなく、
ほんとに身近なところに、
人に対して自分の思いが「言えない」という人が、
現実に「いる」んだってことが、
分かってびっくりですけど、でも、それでもその人は、
社会生活を無難に送っているということも事実で、
しかも、平穏無事に暮らしている・・・んですけどね、
でも、すごい問題がありまして、その人はですね、
心理的には大問題を抱えていて、まあ、それで、
「不幸」みたいですね、とてつもなく。

と、言いますのは、他の人と共に社会生活をしていて、
「自分の気持ちが言えない」とか、
「表現できない」ってことのようですから、
それじゃあ、「生きていて何が楽しいの?」って、
思っちゃうんですが、あのう、事実、
「楽しくない」そうです。

それで、このブログは幸福というのがテーマですから、
自分の気持ちが「言えない」とか、
「表現できない」っていうことでしたら、
そのことを取り上げて、書かなくちゃなんない、
・・・とは思いますけど、
どこからどう手をつけていいのか、今、
皆目見当がつきませんので、そうですねえ、
「表現できない」という心理の周辺事情から、
少しずつ解明していくしかないんでしょうか?
今日は、そういうテーマも浮上したと、
そんなところでおしまいにします。


大好き」だって相手に言えるなんて、ほんとに幸せ。

何で「言えない」の?

04-11,2017

2017_春(29)
昨日の続きですけど、
自分には「言いたいこと」があるのに、
実際にはそれが「言えない」っていうのは、
社会的にですね、それを言うことによって、
自分が「困難な立場に立つ」ことになる事態を、
回避しようとするからなんじゃないのかなあ、
・・・なんて想像してしまいました。

それでですね、世の中をうまく渡っていくためには、
「自分勝手なこと」は言えないんだけど、でも、
本心は○○がしたいとか、○○であって欲しいとか、
そういうふうに願うことって、ありますよね。

そこで、相手とか他の人との関係を壊さない為に、
ほんとは言いたいこともガマンして言わないとか、
そういうことって、社会生活上では、まあ、誰にでも、
あったりするかなあと思うんですが、それでもですね、
自分の思いを達する為に、
相手に○○させたいって思うし、また、
その欲求が強い場合ですね、
「策略」を用いて相手を動かそうって考える人も、
出てくるだろうと思います。

・・・策略と書きましたが、要するに、
「相手をだます」んですよね。
あるいは、
「自分を偽る」ってこともあろうかと思います。

あの、なんか、
今日はすごい話題になってしまいましたし、
策略なんてのは「不幸の源」なんですけどね、
このブログは、幸福でいるために、
「不幸に陥らない」ことを目指すわけでして、
そうしますと、不幸の原因も知る必要があり、
そんなわけで、「策略を行う」という不幸についても、
考えてみたいと思います。

それで、続きはまた明日ということに。


欲求が社会的に許されるかどうかは、幸不幸に影響。

とっぴな推測

04-10,2017

2017_春(28)
世の中には、「自分の思い」を、
他の人に「言えない」というタイプの人間が、
実際にいるみたいでして、そういうのって、やっぱり、
その人自身の性格的な問題・・・なんかじゃなくて、
社会的にですね、他の人との関係で形成されたんだと、
私は、そんなふうに想像します。

昨日のブログでは、
自分の思いを「言わないで」ですね、
でも、自分の思いを満たしてくれるように、
他人に要求しちゃう人のことを書きましたけど、
もしかしたら・・・ですねど、
そういう人って、「自分の思いが言えない」という、
深刻な問題を心に抱えてる人なのかも知れないと、
すごい推測を思いついちゃいました。

まあ、ほんとにそうなのかどうかはわかりませんけど、
でもねえ、「自分の思いが遠慮なく言える」という、
「生きやすい」環境を生きてる人だったら、
「自分の思い」を「言わない」態度をとるなんて、
とても理解できないからなんですね。

・・・で、続きはまた明日にしたいと思います。


社会的な圧力や圧迫を感じると、幸せじゃないですね。

言わずに要求する?

04-09,2017

2017_春(27)
社会の様相はほんとにさまざまで、
世の中一般の常識では、
とてもはかれないような人もまた、
「普通の人」の中にまぎれて生活してるっていうの、
やっぱり、それは事実ですね。

たとえば、こういう人がいます。
相手に対してですね、
自分の思いを「言わない」んです。

あのう、それでいて、相手の行動が、
「自分の思いどおり」であることを要求するんです。

・・・いや、全く、そういうことって、
どう考えても、「実現不能」と思うんですけど、でも、
「本気で」、自分が言わない、態度に示さないことを、
相手が「してくれる」ことを期待するし、また、
相手が期待を満たしてくれないとなると、
相手に対して悪い思いや怒り、憎悪を抱く人って、
「現実にいる」っていうんですから、世間は広いです。

そして、そういう人とかかわりますと、
こちらが不幸になってしまいますから、
そういう人には「近づかない」のが一番なんですが、
でも、社会生活上、「関らざるをえない」こともまた、
あったりしますんで、そんなわけで、
そういうタイプの人のことを、ちょっと考えてみて、
不幸を避ける方策も探ってみたいとは思いますけど、
良い方策は見つからないかも・・・ってとこですね。

では、続きは明日ということで、
それで思いますのは、
「自分の思いが言える人間関係」って、
なんて幸せなことだろうかということです。


良い人間関係って幸せの源だと思うことです。

結果的に花見が

04-08,2017

2017_春(26)
6日のブログに
「エア花見」のことを書きましたが、
昔からですね、実際の桜花を見ることなくして、
「花見」という名称で酒宴を開かれるなんて行事は、
よくありましたことで、まあそういう「花見」も、
社会的には認知されていたと思うんですけど、
話は変わりまして、昨日の私は、
午前中の会を早退して、
昼前から、別の催しに参加しました。

まず、その催しの準備がありまして、準備の後、
満開の桜の木々に囲まれた芝生で、
持参の簡単な弁当を食べましたし、
ちょこっと菓子類もありましたので、
その催しは花見ではなかったのですが、結果的に、
花見をしたのと同じだったなあと思いました。

世の中、純粋に「花見の会」もありますけど、
別の催しなのに、花見と同じ結果になったことでして、
それも、楽しいことだなあと思いましたし、
「楽しい催し」と「花見」を同時に味わえたのは、
良い思い出で、幸せでした。

・・・特に、
「他の人といっしょに楽しく過ごす」という点で、
「単なる花見」以上によろこびでしたね。

まあ、そんなわけで、
たとえ、本物の桜花が無いエア花見でも、
人といっしょに楽しい時間が過ごせるなら、
そういう花見でもいいんじゃないかと思いますけど、
みんなで楽しめた上に、現実に満開の桜でしたから、
昨日は、とっても良い一日でした。


雨模様の今日ですが、幸福を享受して生きましょう。

魔人は忖度させる

04-07,2017

2017_春(25)
世の中、一見、平和な日常のように見えましても、
人々の中には、魔人と言ってもいいような人が、
実際にいるというのが、この人間社会だと思います。

そうなんです、要するに、「すること」が、
「悪魔のしわざ」になってるような人が、世間には、
善人にまぎれて棲息しているというのが実態です。

それで今日は、「忖度する」のではなく、その反対に、
相手が自分に対して忖度するように「しむける」、
・・・というタイプの悪魔的心理操作について、
ちょっと書いてみたいと思いますが、
とても短文では書けない内容ですから、
まあ、今日のところは、これから、
そういうことを書いてみようかと思いますという、
「予告」だけにとどめたいと思います。

それで、なぜ悪魔的かと言いますと、
たとえば、相手にAのことをさせたい場合ですね、
「Aをしろ」と命令することは、横暴ではあっても、
決して悪魔的じゃないんですね。

じゃあ、どういうのが悪魔的かと言いますと、
相手に対してAを行うように要求する言葉なんかは、
もう、絶対に発しませんで、でも、それでもですね、
相手が「自発的に」Aを行うように、さらにですね、
Aを超えてAAを行うように、さらにさらに、
相手がAAAまで行うように、暗に「しむける」、
その「しむける」やり口こそ悪魔的なんですけれど、
詳しくはこれから少しずつ書きたいと思います。


悪魔の手法に引っかからずに幸福を維持しましょう。

エア花見

04-06,2017

2017_春(24)
今日は「過剰適応」ということについて、
続きを書こうと思ってはいたのですが、
午前も午後も用事で出かけてまして、やっと夕刻、
帰宅してテレビをつけましたら、NHKで、
「エア花見」なんてことを言ってました。

え?
何それ! ・ ・ ・ っていうのが私の感想でして、
いやあ、世の中、びっくりがいっぱいです。
初めて聞いた言葉でしたから。

まあ、とにかく、
踊りの舞台で以前に使った小道具ですが、
手持ちの桜花を持ち出しまして、
部屋に置いてみましたが、うちでは、
庭に陽光桜が咲いている真っ盛りなものですから、
造花を持ち出す必要性もないんですけど、でも、
「エア花見」をちょっと体験してみようかな、
・・・って思いまして。

それで思いましたのが、この人間社会の動向って、
「現実に起こっているできごと」だけではなく、
人々の「想像」とか「内面的なこと」によって、
大きく動かされ、左右されるんだってことでした。

たとえばですね、
○○国が「攻撃してくるんじゃないか」とか、
そういう「想像」がですね、
現実には攻撃なんかされてないにもかかわらず、
○○国に対する先制攻撃が行われるようになるとか、
そういうこともあるわけですよね。

あれあれ、話が国際紛争や戦争に傾きましたから、
今日の話はこれで打ち切りです。

あのう、「エア花見」というのが、
現実の桜花を見ないで行われるということから、
考えが飛躍してこんなふうになっちゃいましたが、
人が「想像する」ことによって、
現実の社会が動かされるみたいなことって、
歴史的にも、ずいぶんあったんじゃないかって、
思っちゃいました。
人の「想像」って、場合によっては恐ろしい面も・・・
(その反対に、幸せがやってくる場合もありますね。)


人の好意や愛情を「信じられる」のは、幸せですね。