感じがいい人
05-17,2012
世の中にはいろいろな人がいると同時に、また、
人と人との関係には「相性」もあると思いますし、
ほんとに複雑だと思いますね、人間社会は・・・
それで、これは、私の個人的な感想ですから、
一般的にそうなのかどうかわかりませんけど、
自分のことを振り返ってみますと、
楽しいなあ、幸せだなあって感じる時っていうのは、
結局、「好ましい人」といっしょにいる時とか、
好感が持てる人と活動してる時なんですよね。
反対に、嫌だなあって気分に陥るとか、
厭世的な気分にもなってしまうような時って、
よくよく考えてみますと、そういう時っていうのは、
「嫌な人とかかわらざるを得ない情況」だったって、
今になってわかりました。
つまり、自分の過去のことを分析的に考えてみたら、
そういう結論が見えてきたってことなんですね。
それじゃあ、「嫌な人」っていうのは、私の場合、
どんな人だったんだろうなあって、
深く静かに考えてみましたら、
ああ、なるほど、○○タイプの人と関わった時に、
私は不快を感じたんだって、
そういう、いくつかのタイプについて、
分析的に考えることができました。
では、その「○○タイプ」の人っていうのは、
どういうタイプかってことは、
次回以降に書きたいと思いますけど、
まあ、結局、そういうタイプの人と関わることで、
私は、非常に不幸でしたね。
そして、私が幸福って感じるのは、結局のところ、
人間関係によるといいましょうか、
「感じのいい人」といっしょに過ごせるってこと、
それに尽きるような気がするんですけど、
まあ、今日はこのへんで。
人と人との関係には「相性」もあると思いますし、
ほんとに複雑だと思いますね、人間社会は・・・
それで、これは、私の個人的な感想ですから、
一般的にそうなのかどうかわかりませんけど、
自分のことを振り返ってみますと、
楽しいなあ、幸せだなあって感じる時っていうのは、
結局、「好ましい人」といっしょにいる時とか、
好感が持てる人と活動してる時なんですよね。
反対に、嫌だなあって気分に陥るとか、
厭世的な気分にもなってしまうような時って、
よくよく考えてみますと、そういう時っていうのは、
「嫌な人とかかわらざるを得ない情況」だったって、
今になってわかりました。
つまり、自分の過去のことを分析的に考えてみたら、
そういう結論が見えてきたってことなんですね。
それじゃあ、「嫌な人」っていうのは、私の場合、
どんな人だったんだろうなあって、
深く静かに考えてみましたら、
ああ、なるほど、○○タイプの人と関わった時に、
私は不快を感じたんだって、
そういう、いくつかのタイプについて、
分析的に考えることができました。
では、その「○○タイプ」の人っていうのは、
どういうタイプかってことは、
次回以降に書きたいと思いますけど、
まあ、結局、そういうタイプの人と関わることで、
私は、非常に不幸でしたね。
そして、私が幸福って感じるのは、結局のところ、
人間関係によるといいましょうか、
「感じのいい人」といっしょに過ごせるってこと、
それに尽きるような気がするんですけど、
まあ、今日はこのへんで。
世の中
05-16,2012
今日も楽しく過ごすことができて、
私にとってはありがたい一日でしたから、
やっぱり、そういうふうに過ごせるの、感謝です。
まあ、でもねえ、
「いいことばっかり」なんて人生は、たぶん、
無いんじゃないかなあ?って思うんですけど、
それは、嫌な日々も耐えてきたって自分の体験から、
そんなふうに考えるようになったのかも知れません。
それで、やっぱり、
人は「社会的に」生きるってこと、強く感じますね。
「世の中」とか「人間関係」に、
ものすごく影響されてきた・・・っていうか、
左右されてきた自分だなあっていう気がするんです。
今日も楽しかったっていうことを
よくよく考えてみますと、やっぱりそれ、
いっしょにひとときを過ごした人々との交流が、
喜びだったということに尽きるのかも知れません。
そして、私が「嫌な日々だった」と思える日々って、
やっぱり、人との関係で苦労させられた、いいえ、
もっと言えば、「苦しめられた」って
結局はそういうことだったんだって、今は、
苦しかった時のことを思い出しますと、
そんなふうに言えますね。
私にとってはありがたい一日でしたから、
やっぱり、そういうふうに過ごせるの、感謝です。
まあ、でもねえ、
「いいことばっかり」なんて人生は、たぶん、
無いんじゃないかなあ?って思うんですけど、
それは、嫌な日々も耐えてきたって自分の体験から、
そんなふうに考えるようになったのかも知れません。
それで、やっぱり、
人は「社会的に」生きるってこと、強く感じますね。
「世の中」とか「人間関係」に、
ものすごく影響されてきた・・・っていうか、
左右されてきた自分だなあっていう気がするんです。
今日も楽しかったっていうことを
よくよく考えてみますと、やっぱりそれ、
いっしょにひとときを過ごした人々との交流が、
喜びだったということに尽きるのかも知れません。
そして、私が「嫌な日々だった」と思える日々って、
やっぱり、人との関係で苦労させられた、いいえ、
もっと言えば、「苦しめられた」って
結局はそういうことだったんだって、今は、
苦しかった時のことを思い出しますと、
そんなふうに言えますね。
心の問題
05-15,2012
人は、社会的に生きてるわけですから、どうしても、
その社会の影響を強く受けることになりますね。
それで、今日の新聞を見ましたら、
裁判官だけで行っていた裁判と、裁判員裁判とでは、
量刑にどのような違いが生じたか、
結果が公表されたそうですけど、
性犯罪は刑が重くなったみたいですね。
私は、「当然のことだ」と思いました。
被害者の悲惨さというものは、すごいですからね。
まあ、ちょっと違う話ですけど、
「体を傷つける」ことと、
「心を傷つけること」を比べてみると、
今までの社会では、
「体を傷つける」ことは悪事とされましたが、
「心を傷つけること」については、
重大なことに思われなかった傾向があるかなあ?
・・・って、私は感じるんです。
それで、性犯罪の問題は、
体に受けた傷などのことより、
心に受けた傷の問題のほうが、それはもう、
段違いに大きいわけですよね。
今日の結論ですが、
幸福に生きるためには、「心の問題」って、
非常に大切なんですよね。
それで、多くの人が幸せに生きていける社会を、
本気で目指そうっていう場合には、
人の「心の問題」を重視し、
関心を持たなければならないって、心から思う私です。
その社会の影響を強く受けることになりますね。
それで、今日の新聞を見ましたら、
裁判官だけで行っていた裁判と、裁判員裁判とでは、
量刑にどのような違いが生じたか、
結果が公表されたそうですけど、
性犯罪は刑が重くなったみたいですね。
私は、「当然のことだ」と思いました。
被害者の悲惨さというものは、すごいですからね。
まあ、ちょっと違う話ですけど、
「体を傷つける」ことと、
「心を傷つけること」を比べてみると、
今までの社会では、
「体を傷つける」ことは悪事とされましたが、
「心を傷つけること」については、
重大なことに思われなかった傾向があるかなあ?
・・・って、私は感じるんです。
それで、性犯罪の問題は、
体に受けた傷などのことより、
心に受けた傷の問題のほうが、それはもう、
段違いに大きいわけですよね。
今日の結論ですが、
幸福に生きるためには、「心の問題」って、
非常に大切なんですよね。
それで、多くの人が幸せに生きていける社会を、
本気で目指そうっていう場合には、
人の「心の問題」を重視し、
関心を持たなければならないって、心から思う私です。
存在する価値
05-14,2012
今日の標題は、
ずいぶんと固い表現になってしまいました。
でも、書こうとすることは、固い内容じゃありません。
自分のことが好きになってもらえるとか、
愛してもらえるって、結局、それは、考えてみますと、
「自分がこのように存在することの価値」を、
相手から認めてもらえるってことじゃないかなあ?
・・・なんて思う私です。
そして、自分が「認めてもらえる」ってことこそ、
人が、心から、切に求めているものだと思うんです。
他の人から好いてもらえることの喜び、
愛してもらえることの喜びなんていうのも、
その基盤には、
「このような自分の存在が、
他の人々から認められ、自分は価値ある存在として、
大切に扱ってもらえる」って感覚があるからこそ、
好意を持ってもらえるとか、愛してもらえることを、
素直に喜び、幸福を感じることができると思います。
それで、人は、「社会的に生きる」ってことですから、
他の人と無関係に、一人で生きてるわけではないので、
やっぱり、社会的に、
自分がどういう立場に置かれているかってことは、
人にとって、ものすごく重要なことだと思うんですね。
たとえば、自分が完全に無視され、
道端に転がっている石よりも価値がないものとされ、
粗末に扱われ、苦しみの情況にあっても捨て置かれ、
病苦で倒れている体を通行人に蹴飛ばされるような、
仮に、そんな扱いを受けたとしたら、
どんな気持ちがするでしょうね?
「好意を持ってもらいたい」とか、
「愛して欲しい」っていう前に、人は、とにかく、
自分の存在そのものが「認めてもらえること」を、
基本的に、願っているんだっていう気がします。
そんなわけで、自分の価値が認めてもらえない、
自分が存在することの意義を誰からも認められない、
自分はただ、「人の邪魔になるだけだ」みたいな、
そういう感覚になったとすれば、
それはもう、非常に不幸なことだと思うんですね。
それで、この続きは、また、次回にしたいと思います。
ずいぶんと固い表現になってしまいました。
でも、書こうとすることは、固い内容じゃありません。
自分のことが好きになってもらえるとか、
愛してもらえるって、結局、それは、考えてみますと、
「自分がこのように存在することの価値」を、
相手から認めてもらえるってことじゃないかなあ?
・・・なんて思う私です。
そして、自分が「認めてもらえる」ってことこそ、
人が、心から、切に求めているものだと思うんです。
他の人から好いてもらえることの喜び、
愛してもらえることの喜びなんていうのも、
その基盤には、
「このような自分の存在が、
他の人々から認められ、自分は価値ある存在として、
大切に扱ってもらえる」って感覚があるからこそ、
好意を持ってもらえるとか、愛してもらえることを、
素直に喜び、幸福を感じることができると思います。
それで、人は、「社会的に生きる」ってことですから、
他の人と無関係に、一人で生きてるわけではないので、
やっぱり、社会的に、
自分がどういう立場に置かれているかってことは、
人にとって、ものすごく重要なことだと思うんですね。
たとえば、自分が完全に無視され、
道端に転がっている石よりも価値がないものとされ、
粗末に扱われ、苦しみの情況にあっても捨て置かれ、
病苦で倒れている体を通行人に蹴飛ばされるような、
仮に、そんな扱いを受けたとしたら、
どんな気持ちがするでしょうね?
「好意を持ってもらいたい」とか、
「愛して欲しい」っていう前に、人は、とにかく、
自分の存在そのものが「認めてもらえること」を、
基本的に、願っているんだっていう気がします。
そんなわけで、自分の価値が認めてもらえない、
自分が存在することの意義を誰からも認められない、
自分はただ、「人の邪魔になるだけだ」みたいな、
そういう感覚になったとすれば、
それはもう、非常に不幸なことだと思うんですね。
それで、この続きは、また、次回にしたいと思います。
楽しい遊戯
05-13,2012
人と人との社会的な関係に関することなんですけど、
ちょっと書いてみたいと思います。
たとえば、
「グーチョキパーで何つくろう」って歌と遊戯で、
子どもと楽しく遊べるなんていうのは、
すごく幸せなことだと思います。
(その歌、元はフランスの古い古い歌なんですね。)
子どもと遊ぶ「大人自身が楽しい」っていうのが、
基本的に重要というか、そこのところが、
「核心」なんですね、突き詰めて考えてみますと。
子どもと遊んで「楽しく」感じるっていうことは、
もう、相手の子どもの人格を尊重し、慈しみ、
相手の子どもを大切にしてるってことなんですよね、
大人本人としては「無意識」ですけど。
そして、無意識のうちに、相手の尊厳を認めている、
・・・っていうことが、良い人間関係の根本で、
そういう気持ちが根底にあるから、
相手を好きになることもできるし、
愛することもできるんだって、私はそう思うんです。
人は、社会的に、「他の人との関係」で生きますけど、
人間関係の基底の部分に、「人間尊重」ということが、
もう、必要不可欠なんですね、幸福に生きるためには。
まあ、反対から言えば、
無意識の心の内側のことなんですけど、そこに、
「人を大切にできない」気持ちが潜んでいると、
相手といっしょにいても楽しくないし、
相手を慈しむことも、好きになることも、
愛することも「できない」んですよね。
そういうことを詳しく書くには、
長文を要することになりますから、
また別の機会に譲ることにしまして、
今日はこのへんで。
今日もまた、
話題がガラリと急変してしまいましたけど。
ちょっと書いてみたいと思います。
たとえば、
「グーチョキパーで何つくろう」って歌と遊戯で、
子どもと楽しく遊べるなんていうのは、
すごく幸せなことだと思います。
(その歌、元はフランスの古い古い歌なんですね。)
子どもと遊ぶ「大人自身が楽しい」っていうのが、
基本的に重要というか、そこのところが、
「核心」なんですね、突き詰めて考えてみますと。
子どもと遊んで「楽しく」感じるっていうことは、
もう、相手の子どもの人格を尊重し、慈しみ、
相手の子どもを大切にしてるってことなんですよね、
大人本人としては「無意識」ですけど。
そして、無意識のうちに、相手の尊厳を認めている、
・・・っていうことが、良い人間関係の根本で、
そういう気持ちが根底にあるから、
相手を好きになることもできるし、
愛することもできるんだって、私はそう思うんです。
人は、社会的に、「他の人との関係」で生きますけど、
人間関係の基底の部分に、「人間尊重」ということが、
もう、必要不可欠なんですね、幸福に生きるためには。
まあ、反対から言えば、
無意識の心の内側のことなんですけど、そこに、
「人を大切にできない」気持ちが潜んでいると、
相手といっしょにいても楽しくないし、
相手を慈しむことも、好きになることも、
愛することも「できない」んですよね。
そういうことを詳しく書くには、
長文を要することになりますから、
また別の機会に譲ることにしまして、
今日はこのへんで。
今日もまた、
話題がガラリと急変してしまいましたけど。
相手のために
05-12,2012
「相手のために行おう」っていう気持ち、
それはもう、ほんと、宝物みたいなものですね。
「相手のために」するんですから、
相手が喜ぶとか、恩恵を受けるってことになる、
それは、ものすごくいいことですし、
相手が幸福になるということで、価値ある行為だし、
それより何より、そういう気持ちを持つことって、
行為する当人に、幸せがもたらされるんですよね、
実際。
この人間社会、そういう気持ちがあふれて欲しい、
・・・っていうのが私の願いですけど、
でも、まずは、そう願うことより先に、
自分がそういう気持ちを持つっていうのが、
大切なことかなあって思う私です。
さて、今日の話題は、昨日までの話を一時中断し、
他人に対して「してあげる」っていう気持ちや、
「して欲しい」って気持ちに関することについて、
ちょっと書きたいと思います。
何でも他人を頼って、「してもらおう」とする気持ち、
そういうのって、ダメですよね、
理由を書くのは省略しますけど。
それで、自分の子どもに対して、
「人に頼らず、自分でしようとする」教育を行うのは、
別に、悪いことではないんですけど、
でも、「他人に頼らない」態度を教育する親の中には、
とんでもない親もいるんですね。
子どもに対して、愛情をかけたくないっていう親は、
実際、いるんですよね。
とにかく、自分の子に対して、手間をかけるとか、
金をかけるなんてことは、もう、絶対にしたくない、
そういう親って、いるんですよね。
そういう親って、子どのために、自分が、
「何かをしてやる」ってこと自体が、それはもう、
「ものすごく嫌」っていう、そんな親、世の中には、
実際にいて、子どもに苦しみを与えてるんですよね。
そして、そういう親は、自分の態度を正当化するため、
子どもに対して、「人を頼ってはダメ」って教育する、
そんな事例は多いんじゃないかと思います。
結局は、自分の子が、「親の自分を頼ってくること」、
それを激しく忌み嫌うんですよね、そういう親って。
それで、自分の子に、「自分のことを頼るな」って、
そう言う代わりに、より一般的な教えとして、
「他人を頼る気持ちはダメだ」って教えて、
自分の本心をカモフラージュするんですよね。
しつこいですけど、くり返し書きますと、
子どものために何かを「してやる」ことが、
もう、死ぬほど嫌な親がいまして、そういう親は、
自分の子どもから何かを要求されるのが嫌なため、
子どもに対して、「人を頼ることはダメ」って教育し、
要するに、「親の自分に頼ることもダメなんだ」って、
自分の子どもに対して、ほんとは、
それが言いたいんですよね、「親を頼るな」って。
それで、そんなことを言う親の本心は、
「子どもを自立させたい」からじゃなくって、
「子どものためにしてやることが嫌」って、
そういう本心の親が、実際、いるってことなんですね。
「相手のために」するってことは、尊いことですけど、
自分の子どもに対してすら、
「相手(自分の子ども)のために」するってことが、
できない親って、いるんですね。
このブログ、昨日の続きを書くつもりでしたけど、
とんでもない脱線をしてしまいましたが、まあ、
好き勝手に書いているブログですから、
お許し下さい。
「相手のために」っていう気持ち、それは、ほんとに、
人々に幸福をもたらすものだと思う私なんですが、
現実には、家庭内で家族に対してさえ、そして、
自分の子に対してさえ、そういう気持ちがもてない、
そんな事例って、もしかしたら、
とても多かったりして・・・
それはもう、ほんと、宝物みたいなものですね。
「相手のために」するんですから、
相手が喜ぶとか、恩恵を受けるってことになる、
それは、ものすごくいいことですし、
相手が幸福になるということで、価値ある行為だし、
それより何より、そういう気持ちを持つことって、
行為する当人に、幸せがもたらされるんですよね、
実際。
この人間社会、そういう気持ちがあふれて欲しい、
・・・っていうのが私の願いですけど、
でも、まずは、そう願うことより先に、
自分がそういう気持ちを持つっていうのが、
大切なことかなあって思う私です。
さて、今日の話題は、昨日までの話を一時中断し、
他人に対して「してあげる」っていう気持ちや、
「して欲しい」って気持ちに関することについて、
ちょっと書きたいと思います。
何でも他人を頼って、「してもらおう」とする気持ち、
そういうのって、ダメですよね、
理由を書くのは省略しますけど。
それで、自分の子どもに対して、
「人に頼らず、自分でしようとする」教育を行うのは、
別に、悪いことではないんですけど、
でも、「他人に頼らない」態度を教育する親の中には、
とんでもない親もいるんですね。
子どもに対して、愛情をかけたくないっていう親は、
実際、いるんですよね。
とにかく、自分の子に対して、手間をかけるとか、
金をかけるなんてことは、もう、絶対にしたくない、
そういう親って、いるんですよね。
そういう親って、子どのために、自分が、
「何かをしてやる」ってこと自体が、それはもう、
「ものすごく嫌」っていう、そんな親、世の中には、
実際にいて、子どもに苦しみを与えてるんですよね。
そして、そういう親は、自分の態度を正当化するため、
子どもに対して、「人を頼ってはダメ」って教育する、
そんな事例は多いんじゃないかと思います。
結局は、自分の子が、「親の自分を頼ってくること」、
それを激しく忌み嫌うんですよね、そういう親って。
それで、自分の子に、「自分のことを頼るな」って、
そう言う代わりに、より一般的な教えとして、
「他人を頼る気持ちはダメだ」って教えて、
自分の本心をカモフラージュするんですよね。
しつこいですけど、くり返し書きますと、
子どものために何かを「してやる」ことが、
もう、死ぬほど嫌な親がいまして、そういう親は、
自分の子どもから何かを要求されるのが嫌なため、
子どもに対して、「人を頼ることはダメ」って教育し、
要するに、「親の自分に頼ることもダメなんだ」って、
自分の子どもに対して、ほんとは、
それが言いたいんですよね、「親を頼るな」って。
それで、そんなことを言う親の本心は、
「子どもを自立させたい」からじゃなくって、
「子どものためにしてやることが嫌」って、
そういう本心の親が、実際、いるってことなんですね。
「相手のために」するってことは、尊いことですけど、
自分の子どもに対してすら、
「相手(自分の子ども)のために」するってことが、
できない親って、いるんですね。
このブログ、昨日の続きを書くつもりでしたけど、
とんでもない脱線をしてしまいましたが、まあ、
好き勝手に書いているブログですから、
お許し下さい。
「相手のために」っていう気持ち、それは、ほんとに、
人々に幸福をもたらすものだと思う私なんですが、
現実には、家庭内で家族に対してさえ、そして、
自分の子に対してさえ、そういう気持ちがもてない、
そんな事例って、もしかしたら、
とても多かったりして・・・
人は何を求める?
05-11,2012
自分も生きていく道がないのに、
赤ちゃんを望んだ女性の話、読んだことがあります。
その女性、まともに職業につけず、生きていくのに、
あてがなく、生きていく道が見つからない状態でして、
彼女がつきあう男は「ろくでもない男」ばっかりで、
彼女に対して「誠意」など、カケラもないばかりか、
仮に、彼女が、その男の子どもを宿したとしても、
子どものめんどうを見てやろうなんて気持ちなど、
あるはずもないだろうってことが明らかな男友達、
・・・そういう男しか、つきあう男がいないのに、
でも、それでも、「赤ちゃんが欲しい」って願った、
女性の話なんです。
そして、彼女は懐妊し、赤ちゃんを産みました。
男は、彼女が予測したように、「行方不明」です。
・・・と言っても、もし、
その男が父親だとしたら・・・って仮定の話で、彼女、
出産費用など無いし、頼るところもありませんから、
赤ちゃんが生まれれば、もうその日から、
どうやって生きていったらいいか、
行き詰ってしまう状態だったんですね。
それで、今日書きたかったことですけど、
「自分がまともに生きていくこと」すら、
もう、絶望的な情況にあるにもかかわらず、
彼女は、なぜ、「赤ちゃんを求めたのか」っていう、
彼女の心理に対する疑問なんです。
事態が、今後「どうしようもなくなる」ってことは、
わかっているはずなのに・・・です。
そして、なぜそんなことを問題にしたかといえば、
5月1日から話題にしている男の心理を解くのに、
役立つヒントが隠れているように思ったからで、
要するに、人は、
自分のことを「愛して欲しい」とか、
「自分の価値を認めて欲しい」って気持ちが、
とても強いんじゃないかと思うんですけど、
そのことを証明する事例かと考えるからなんですね。
まあ、私としては、他の人を「愛すること」とか、
他の人の尊厳を認めること、
他の人の価値を認めることっていうのは、
すごく大切なことだし、そういうことができたら、
人は、互いに幸せなのかなあ?
・・・って、思ってるんですね。
それで、人は、そのような気持ちを持つことによって、
他の人との好ましい関係を持つことによって、
初めて幸せが得られるんだって、私は、今のところは、
そんな気がしていることです。
今日は、話題に取り上げた彼女が、なぜ、
「赤ちゃんを求めたのか」っていう心理に対して、
その推測を書くはずだったんですけど、また次回に。
赤ちゃんを望んだ女性の話、読んだことがあります。
その女性、まともに職業につけず、生きていくのに、
あてがなく、生きていく道が見つからない状態でして、
彼女がつきあう男は「ろくでもない男」ばっかりで、
彼女に対して「誠意」など、カケラもないばかりか、
仮に、彼女が、その男の子どもを宿したとしても、
子どものめんどうを見てやろうなんて気持ちなど、
あるはずもないだろうってことが明らかな男友達、
・・・そういう男しか、つきあう男がいないのに、
でも、それでも、「赤ちゃんが欲しい」って願った、
女性の話なんです。
そして、彼女は懐妊し、赤ちゃんを産みました。
男は、彼女が予測したように、「行方不明」です。
・・・と言っても、もし、
その男が父親だとしたら・・・って仮定の話で、彼女、
出産費用など無いし、頼るところもありませんから、
赤ちゃんが生まれれば、もうその日から、
どうやって生きていったらいいか、
行き詰ってしまう状態だったんですね。
それで、今日書きたかったことですけど、
「自分がまともに生きていくこと」すら、
もう、絶望的な情況にあるにもかかわらず、
彼女は、なぜ、「赤ちゃんを求めたのか」っていう、
彼女の心理に対する疑問なんです。
事態が、今後「どうしようもなくなる」ってことは、
わかっているはずなのに・・・です。
そして、なぜそんなことを問題にしたかといえば、
5月1日から話題にしている男の心理を解くのに、
役立つヒントが隠れているように思ったからで、
要するに、人は、
自分のことを「愛して欲しい」とか、
「自分の価値を認めて欲しい」って気持ちが、
とても強いんじゃないかと思うんですけど、
そのことを証明する事例かと考えるからなんですね。
まあ、私としては、他の人を「愛すること」とか、
他の人の尊厳を認めること、
他の人の価値を認めることっていうのは、
すごく大切なことだし、そういうことができたら、
人は、互いに幸せなのかなあ?
・・・って、思ってるんですね。
それで、人は、そのような気持ちを持つことによって、
他の人との好ましい関係を持つことによって、
初めて幸せが得られるんだって、私は、今のところは、
そんな気がしていることです。
今日は、話題に取り上げた彼女が、なぜ、
「赤ちゃんを求めたのか」っていう心理に対して、
その推測を書くはずだったんですけど、また次回に。
慰め
05-10,2012
幸せだっていうことが、人生で一番かな?
・・・なんて思っている私ですから、
幸せを感じつつ生きていくことができるって、
そういう日々は、何よりもすばらしいことなんだって、
心から、そんな感想を持ってますね。
でもねえ、世の中、そして、この人生、
現実の社会で生きていかなければならないわけで、
幸福なことばっかりなんてことは、ないんですよね。
それで、嫌なこともあり、苦しい日々もあり、
そういうのが現実の人生だと思いますし、それだから、
苦しい、苦しいって日を送ることもあるんだし、また、
「慰め」っていうものもあるんですよね、人生には。
そのことですけど、慰めを得て、憩うこと・・・
厳しい、厳しい世の中で、辛く、辛く、
苦しいこともいっぱいあったりする世界に生きて、
人間社会の中に存在する、落とし穴みたいな、
とんでもない苦悩の陥穽にはまるなんてことだって、
生きていくうちには、避けられなかったりしますけど、
でも、そういう情況にあっても、何か、
苦しみが慰められるようなことがあれば、人は、
やっとのことであれ、耐えていけるのかも知れません。
でもねえ、そういう、苦痛を慰めようとする行為すら、
固く「禁じられている」としたら、その人の悲惨さは、
どれほどのものでしょう?
今日は、前回の続きを書く予定でしたけど、
その予定を変更して、「慰め」っていうことについて、
ちょっと書いてみたいと思います。
あのう、苦しくて苦しくてしょうがな時、なおかつ、
その苦しみを解決する手段が見つからないとしたら、
それはもう、最悪の状態ですよね。
でもねえ、そういう時だってあリますよね、人生には。
しかし、そういう時、「気を紛らわせる」っていうか、
まあ、苦しい思いが発散させられるような場があれば、
まだ、心理的には救われると思うんですね。
でも、子どもに「苦しみを続けさせたい」って願う親、
いるんですよね、実際。
また、親じゃなくても、苦しんでる相手に対して、
「苦しみ続けさせたい」って願う人だって、現実に、
いるんですよね、世の中には。
このブログ、そういうつもりじゃなかったんですけど、
人間社会について触れざるを得ないんですよね。
それは、人の幸せも不幸も、結局は、人間関係、
そして、人間社会と無関係ではありえないって、
ほんと、そう思うからなんです。
それで、詳しくは後日書きたいんですけど、
人間の中には、「人に苦しみを与えたい」ってことを、
ほんとに願い、また、実践する人がいるんですよね。
そういう人は、「苦しみを与えてやろう」って、
標的にした人に対して、その人が、
苦しみから逃れられないようにしてやろうと意図し、
悪魔的な方策を講じるなんてことがあるんですね。
それで、「苦しみを与えてやる」って決めた相手が、
その苦しみから一時的にでも逃れるために、
何かの慰めを得ようとするなら、
相手がそのような「慰め」を得ることを阻止して、
相手を「徹底的に痛めつけたやろう」て気になる、
そんなタイプのひどい人って、現実にいるんですね。
ですから、「相手を徹底的にいじめてやろう」って、
そう願っている人でしたら、
相手が、一時的に苦しみから逃れる慰めの手段も、
奪ってしまおうとするんですよね。
あのぅ、話は飛躍しますけど、
子どもを徹底的に痛めつけてやろうって考える親が、
「実在する」ことは、認めざるを得ないと思う私です。
そして、そういう親は、
子どもを「徹底的に痛めつける」ために、
子どもから、「一時的な慰めの手段」さえも、
奪うことを企図するんですよね。
あの、今日は、話がものすごく脱線してしまいました。
でもまあ、しかたありません。
また、この調子では、明日の記事がどうなるか、
自分でも予測がつきませんけど、とりあえず、
今日はこのへんで終了したいと思いますが、
現実社会においては、誰であれ、
「苦しみを生きるしかない」情況に追い込まれる、
そういう可能性だってあると思うんですよね。
「苦しい時」には「慰めが必要」っていう考えは、
私は、好ましくはないけど、しかたないと思います。
なぜ好ましくない感じがするかと言えば、
「慰め」っていうのは、苦しさを解決することには、
つながらないからなんですよね。
私としては、「苦しさの原因の解消」ってことが、
絶対必要だと思いますし、そのために努力すべきだ、
・・・って、その思いは変わらないんですけど、
現実問題として、「苦しさの原因の解消」って、
理想ではあっても、その道は遠く、困難ですよね。
・・・あの、そういうことは、十分承知しています。
でも、でも、苦しさの原因を解消しようって、
そうしようって、
また、それはできるんだって、
苦しみと不幸の原因を排除して、
幸福な日々を送ろうって決意すれば、
幸福な状態を獲得することはできるんだし、また、
「そうしよう」って意思することが大切なんだって、
私は、そういう思いから、
このブログを書き綴っているわけです。
そして、幸福であることが感じられるような、
そういう日々が「いいなあ」って思ってるわけです。
また、実際、そういう日々や時間もありますからね。
そして、幸福であることはできるんですけど、
実際に幸福に過ごせる日々に到達するというか、
幸福な心境になれる、あるいは、
幸福な心境を獲得するっていうことのためには、
長く、険しい努力の道が必要な場合もありますから、
とにかく、今が「苦しい」っていう緊急事態では、
一時的な心の慰めだとは言いつつも、人には、
慰めも必要だと思う私です。
この問題、解決策とか結論というものはないので、
今日はこのへんで。
・・・なんて思っている私ですから、
幸せを感じつつ生きていくことができるって、
そういう日々は、何よりもすばらしいことなんだって、
心から、そんな感想を持ってますね。
でもねえ、世の中、そして、この人生、
現実の社会で生きていかなければならないわけで、
幸福なことばっかりなんてことは、ないんですよね。
それで、嫌なこともあり、苦しい日々もあり、
そういうのが現実の人生だと思いますし、それだから、
苦しい、苦しいって日を送ることもあるんだし、また、
「慰め」っていうものもあるんですよね、人生には。
そのことですけど、慰めを得て、憩うこと・・・
厳しい、厳しい世の中で、辛く、辛く、
苦しいこともいっぱいあったりする世界に生きて、
人間社会の中に存在する、落とし穴みたいな、
とんでもない苦悩の陥穽にはまるなんてことだって、
生きていくうちには、避けられなかったりしますけど、
でも、そういう情況にあっても、何か、
苦しみが慰められるようなことがあれば、人は、
やっとのことであれ、耐えていけるのかも知れません。
でもねえ、そういう、苦痛を慰めようとする行為すら、
固く「禁じられている」としたら、その人の悲惨さは、
どれほどのものでしょう?
今日は、前回の続きを書く予定でしたけど、
その予定を変更して、「慰め」っていうことについて、
ちょっと書いてみたいと思います。
あのう、苦しくて苦しくてしょうがな時、なおかつ、
その苦しみを解決する手段が見つからないとしたら、
それはもう、最悪の状態ですよね。
でもねえ、そういう時だってあリますよね、人生には。
しかし、そういう時、「気を紛らわせる」っていうか、
まあ、苦しい思いが発散させられるような場があれば、
まだ、心理的には救われると思うんですね。
でも、子どもに「苦しみを続けさせたい」って願う親、
いるんですよね、実際。
また、親じゃなくても、苦しんでる相手に対して、
「苦しみ続けさせたい」って願う人だって、現実に、
いるんですよね、世の中には。
このブログ、そういうつもりじゃなかったんですけど、
人間社会について触れざるを得ないんですよね。
それは、人の幸せも不幸も、結局は、人間関係、
そして、人間社会と無関係ではありえないって、
ほんと、そう思うからなんです。
それで、詳しくは後日書きたいんですけど、
人間の中には、「人に苦しみを与えたい」ってことを、
ほんとに願い、また、実践する人がいるんですよね。
そういう人は、「苦しみを与えてやろう」って、
標的にした人に対して、その人が、
苦しみから逃れられないようにしてやろうと意図し、
悪魔的な方策を講じるなんてことがあるんですね。
それで、「苦しみを与えてやる」って決めた相手が、
その苦しみから一時的にでも逃れるために、
何かの慰めを得ようとするなら、
相手がそのような「慰め」を得ることを阻止して、
相手を「徹底的に痛めつけたやろう」て気になる、
そんなタイプのひどい人って、現実にいるんですね。
ですから、「相手を徹底的にいじめてやろう」って、
そう願っている人でしたら、
相手が、一時的に苦しみから逃れる慰めの手段も、
奪ってしまおうとするんですよね。
あのぅ、話は飛躍しますけど、
子どもを徹底的に痛めつけてやろうって考える親が、
「実在する」ことは、認めざるを得ないと思う私です。
そして、そういう親は、
子どもを「徹底的に痛めつける」ために、
子どもから、「一時的な慰めの手段」さえも、
奪うことを企図するんですよね。
あの、今日は、話がものすごく脱線してしまいました。
でもまあ、しかたありません。
また、この調子では、明日の記事がどうなるか、
自分でも予測がつきませんけど、とりあえず、
今日はこのへんで終了したいと思いますが、
現実社会においては、誰であれ、
「苦しみを生きるしかない」情況に追い込まれる、
そういう可能性だってあると思うんですよね。
「苦しい時」には「慰めが必要」っていう考えは、
私は、好ましくはないけど、しかたないと思います。
なぜ好ましくない感じがするかと言えば、
「慰め」っていうのは、苦しさを解決することには、
つながらないからなんですよね。
私としては、「苦しさの原因の解消」ってことが、
絶対必要だと思いますし、そのために努力すべきだ、
・・・って、その思いは変わらないんですけど、
現実問題として、「苦しさの原因の解消」って、
理想ではあっても、その道は遠く、困難ですよね。
・・・あの、そういうことは、十分承知しています。
でも、でも、苦しさの原因を解消しようって、
そうしようって、
また、それはできるんだって、
苦しみと不幸の原因を排除して、
幸福な日々を送ろうって決意すれば、
幸福な状態を獲得することはできるんだし、また、
「そうしよう」って意思することが大切なんだって、
私は、そういう思いから、
このブログを書き綴っているわけです。
そして、幸福であることが感じられるような、
そういう日々が「いいなあ」って思ってるわけです。
また、実際、そういう日々や時間もありますからね。
そして、幸福であることはできるんですけど、
実際に幸福に過ごせる日々に到達するというか、
幸福な心境になれる、あるいは、
幸福な心境を獲得するっていうことのためには、
長く、険しい努力の道が必要な場合もありますから、
とにかく、今が「苦しい」っていう緊急事態では、
一時的な心の慰めだとは言いつつも、人には、
慰めも必要だと思う私です。
この問題、解決策とか結論というものはないので、
今日はこのへんで。
優しさと愛情
05-09,2012
人が心の底から求めるもの、それは、
優しくしてもらえること、そして、
愛情をもらえるってことではないのかなあ?
・・・なんて、私は思います。
そして、それは、人間関係をとおして、つまり、
社会的に「人との関係」とおして得られるのであり、
優しくしてもらえるとか、愛してもらえる、
そういう情況にある場合、人は、
幸福を感じることができると思うんですね。
反対に、優しさや愛情を「与えられなかった」なら、
人は、不幸・・・というか、苦しみの人生を歩む、
ひどい情況に陥るのではないかと思います。
それで、昨日書いたことの続きですけど、
話題にしている女性の父親っていうのは、
優しさや愛情を受ける体験がなかったため、
「優しさに満ちた愛の関係」を渇望していて、
それを自分の娘に求め、娘が小学5年生の時から、
娘の体をさわり続けたんじゃないだろうか?
・・・っていうのが、私の推測なんですね。
そして、娘の体をさわっている時の父親は、
彼女が言ってますように、
「すごく優しく」寄っていったんでしょうね。
そこに私は、「愛情関係を構築したい」っていう、
父親の本心が見えるような気がするんです。
でもそれって、子どもだった彼女にとっては、
非常な苦痛以外の何ものでもありませんよね。
それで、彼女は、そういう行為をやめて欲しくて、
父の行為を「母親に言う」って、父に告げたんですが、
そのとたん、父は「豹変した」って、彼女は言います。
そして、「目つきが変わった」ということですよね。
それで、なぜ目つきが変わり、豹変したかという、
父親の心理を想像しますと、
自分の行為を「母親に言う」って、娘の一言によって、
「娘は自分のことを慕い、愛してるわけではない」、
・・・っていう、彼にとっては冷厳な事実を、
目の前に突きつけられたからだと推測するんです。
ああ、そこのところ、私は、一言、言いたいですね。
悪いのは、つまり、娘を痛めつけ、虐待してるのは、
父親のほうなんですよね。
なにしろ、小学生である娘の体をもてあそんで、
自分の心理的問題の解消というか、心の慰めというか、
とにかく、「自分の都合」や欲求を満たすため、
娘を「利用している」わけですから、非は、
もう絶対、全面的に、父親にあるんですよね。
でも、父親の立場というか、父親の感覚からすれば、
娘が自分に「反抗した」、あるいは「反逆した」って、
そんなふうに感じられたんじゃないかと思いますが、
話が複雑になってきましたので、
続きはまた、次の機会にしたいと思います。
優しくしてもらえること、そして、
愛情をもらえるってことではないのかなあ?
・・・なんて、私は思います。
そして、それは、人間関係をとおして、つまり、
社会的に「人との関係」とおして得られるのであり、
優しくしてもらえるとか、愛してもらえる、
そういう情況にある場合、人は、
幸福を感じることができると思うんですね。
反対に、優しさや愛情を「与えられなかった」なら、
人は、不幸・・・というか、苦しみの人生を歩む、
ひどい情況に陥るのではないかと思います。
それで、昨日書いたことの続きですけど、
話題にしている女性の父親っていうのは、
優しさや愛情を受ける体験がなかったため、
「優しさに満ちた愛の関係」を渇望していて、
それを自分の娘に求め、娘が小学5年生の時から、
娘の体をさわり続けたんじゃないだろうか?
・・・っていうのが、私の推測なんですね。
そして、娘の体をさわっている時の父親は、
彼女が言ってますように、
「すごく優しく」寄っていったんでしょうね。
そこに私は、「愛情関係を構築したい」っていう、
父親の本心が見えるような気がするんです。
でもそれって、子どもだった彼女にとっては、
非常な苦痛以外の何ものでもありませんよね。
それで、彼女は、そういう行為をやめて欲しくて、
父の行為を「母親に言う」って、父に告げたんですが、
そのとたん、父は「豹変した」って、彼女は言います。
そして、「目つきが変わった」ということですよね。
それで、なぜ目つきが変わり、豹変したかという、
父親の心理を想像しますと、
自分の行為を「母親に言う」って、娘の一言によって、
「娘は自分のことを慕い、愛してるわけではない」、
・・・っていう、彼にとっては冷厳な事実を、
目の前に突きつけられたからだと推測するんです。
ああ、そこのところ、私は、一言、言いたいですね。
悪いのは、つまり、娘を痛めつけ、虐待してるのは、
父親のほうなんですよね。
なにしろ、小学生である娘の体をもてあそんで、
自分の心理的問題の解消というか、心の慰めというか、
とにかく、「自分の都合」や欲求を満たすため、
娘を「利用している」わけですから、非は、
もう絶対、全面的に、父親にあるんですよね。
でも、父親の立場というか、父親の感覚からすれば、
娘が自分に「反抗した」、あるいは「反逆した」って、
そんなふうに感じられたんじゃないかと思いますが、
話が複雑になってきましたので、
続きはまた、次の機会にしたいと思います。
人は社会的な存在
05-08,2012
人は、社会的に生きる存在なんですね。
・・・なんて言いますと、どうも、意味があいまい、
わけがわからないように感じる私ですから、
そういう表現は避けたいとも思いましたけど、
しかし、個人は、「相手の人との関係」とか、
自分が属している集団や国との関わりなしに、
「一人で生きる」ってことは不可能でしょうから、
やっぱり、人が「社会的に生きてる」ってことは、
意図しようがしまいが、結局、
そうならざるを得ないっていうか、
社会の一員として生きているのが人間だと思います。
そして、そんなことは、普通、心理的に、
「何の問題にもならない」ことなんですけど、でも、
自分の生きてる現状が非常に苦しみであり、そのため、
不満や怒りが起こってくるような状態に陥り、
その原因が「人間関係」にあるとしたら、
そういう人は、「社会的に生きる」ってことが、
苦痛で苦痛でたまらないかも知れませんね。
私は思うんですけど、人が幸福を感じるためには、
良い人間関係を生きてるっていう心理的な基盤が、
絶対に必要なんですよね。
そして、不幸を感じるっていうこともまた、
人間関係が原因になっていると推測するんです。
それで、「良い人間関係」というものこそ、私は、
非常に大切なものだと思いますし、
良い人間関係のためには、心に優しさや温かさ、
人に対する愛情を持たなければならないと思います。
ところが、5月1日から話題にしている女性は、
父親から、優しさや温かさ、愛情なんてものは、
受け取ることができなかったと思います。
反対に、父親から性的虐待を受けてたわけですが、
父親が娘を性的に虐待した心理について、私は、
父親が、「愛を渇望」していた人だったのではないか、
そして、彼にとっては得ることができなかった愛を、
自分の娘からむさぼり取ろうとしていたんでないか?
・・・って推測したんですね。
そして、そのように推測する理由の一つは、
昨日書いたとおりなんですけど、今日は、
もう一つの理由を書いてみたいと思います。
推測の根拠は、彼女が、
父親から体をさわられているということを、
「母親に言う」と父に告げた時の、
父親の反応なんです。
父親は逆上したそうで、その時の父親は、
彼女の言うところによると、
それまではすごく優しく寄ってきていた父親が、
急に目つきが変わり、自分の娘である彼女に対し、
力ずくで性行為に及んだわけなんですね。
それで、父親はなぜ逆上したのかっていう、
父親の心理にこそ、謎を解く鍵があるのではないか?
・・・と考える私なんですが、そのことはまた、
次回に書きたいと思います。
・・・なんて言いますと、どうも、意味があいまい、
わけがわからないように感じる私ですから、
そういう表現は避けたいとも思いましたけど、
しかし、個人は、「相手の人との関係」とか、
自分が属している集団や国との関わりなしに、
「一人で生きる」ってことは不可能でしょうから、
やっぱり、人が「社会的に生きてる」ってことは、
意図しようがしまいが、結局、
そうならざるを得ないっていうか、
社会の一員として生きているのが人間だと思います。
そして、そんなことは、普通、心理的に、
「何の問題にもならない」ことなんですけど、でも、
自分の生きてる現状が非常に苦しみであり、そのため、
不満や怒りが起こってくるような状態に陥り、
その原因が「人間関係」にあるとしたら、
そういう人は、「社会的に生きる」ってことが、
苦痛で苦痛でたまらないかも知れませんね。
私は思うんですけど、人が幸福を感じるためには、
良い人間関係を生きてるっていう心理的な基盤が、
絶対に必要なんですよね。
そして、不幸を感じるっていうこともまた、
人間関係が原因になっていると推測するんです。
それで、「良い人間関係」というものこそ、私は、
非常に大切なものだと思いますし、
良い人間関係のためには、心に優しさや温かさ、
人に対する愛情を持たなければならないと思います。
ところが、5月1日から話題にしている女性は、
父親から、優しさや温かさ、愛情なんてものは、
受け取ることができなかったと思います。
反対に、父親から性的虐待を受けてたわけですが、
父親が娘を性的に虐待した心理について、私は、
父親が、「愛を渇望」していた人だったのではないか、
そして、彼にとっては得ることができなかった愛を、
自分の娘からむさぼり取ろうとしていたんでないか?
・・・って推測したんですね。
そして、そのように推測する理由の一つは、
昨日書いたとおりなんですけど、今日は、
もう一つの理由を書いてみたいと思います。
推測の根拠は、彼女が、
父親から体をさわられているということを、
「母親に言う」と父に告げた時の、
父親の反応なんです。
父親は逆上したそうで、その時の父親は、
彼女の言うところによると、
それまではすごく優しく寄ってきていた父親が、
急に目つきが変わり、自分の娘である彼女に対し、
力ずくで性行為に及んだわけなんですね。
それで、父親はなぜ逆上したのかっていう、
父親の心理にこそ、謎を解く鍵があるのではないか?
・・・と考える私なんですが、そのことはまた、
次回に書きたいと思います。
マリーゴールドの匂い
05-07,2012
「社会」というものが、人に与える影響の重大性、
このブログは、意図してませんけど、結局は、
そういうことについて書いているブログかも知れません。
突然、変なことを書いてしまいましたけど、
今日は、花の話から始めさせ下さい。
去年、フレンチ・マリーゴールドの花が終わった後、
枯れた花ごと、種の部分をもぎとっておきました。
昨日は、そこから、種を取り出す作業をしました。
種は大量にとれまして、
マリーゴールドの匂いが漂ってきました。
私にとっては、ちっとも嫌な匂いではありませんし、
咲いていた頃の風景が思い出される匂いでした。
それで、採れた種の一部を、今日の添付写真にします。
でも、マリーゴールドの匂いを嫌う人だって、
いるようですね。
もちろん、好き嫌いは人によって異なるものですけど、
娘として生まれ、父親に体をさわられる・・・なんて、
そういうことは、もう絶対、
万人が「嫌だ」と思うだろうと、私は想像します。
(なぜかという理由については、後日、書きます。)
それで、このブログでは5月1日から、
NHKテレビで放送された、ある女性の、
不幸なできごとについて、いろいろ書いています。
人は、誰とも関わらない一人だけの世界で、
自分の生活と命を維持することなんて、たぶん、
できないでしょうから、どうしても、
他人との関係の中で、つまり、社会の中で、
「他人と共に」生きるしかないんですよね。
そうしますと、
どんな人とかかわりを持つかっていうことが、
その人の幸不幸を左右することもあるわけで、
その女性の父は、彼女が小学生の頃から、日々、
彼女の体にさわっていまして、彼女が中学生の時、
父は、決定的にひどいことを彼女に行うわけですが、
昨日のブログで、私は、父親の心理を推測して、
父親は、「愛を得る」体験がなかった人だったから、
激しく「愛を渇望」し、得られない愛の代償として、
自分の娘の体を求め、それを、
「心の慰め」にしていたんじゃないか?
・・・って推測したわけなんです。
つまり、彼女の父は、「愛が欲しかった」というのが、
娘の体を求めた理由だろうという想像なんです。
以前、私は、このブログで、
門真市で起きた男児の虐待死事件を取り上げました。
19歳の少年が2歳児に暴行し、死亡させましたけど、
「なつかないのに腹が立ち、たびたび殴った。」
そんなふうに少年は供述したんだそうですね。
また、16歳の少年が祖母を殺し、その少年も、
飛び降り自殺した事件について取り上げました。
その少年の父親ですが、少年が生まれた時、
「男の子でよかったよ」と言ったそうです。
それで、その理由ですけど、男の子は父親になつくし、
父親の味方になるって、父親が信じてたからだそうで、
その二つの事例に共通する心理なんですが、
大人が、乳幼児に対してさえ、「自分になつくこと」、
つまり、大人なのに、自分を認め、自分に好意を持ち、
自分を愛してくれることを子どもに求めたっていう、
驚くような事実なんですよね。
それで、体が触れる感覚、皮膚感覚というものは、
「愛情を感じ、確かめる」ためには、言葉とか、
また、言葉以外のどんなコミュニケーション手段より、
より深く、「愛されてる」感覚が味わえるものだと、
私は思いますから、話題にしている女性の父は、
小学時代や中学時代の娘に対し、皮膚感覚をとおして、
「自分に好意を持ち、愛情を持ってる」ってことを、
証明してくれ!・・・って、
必死に求めてたんじゃないかなあと推測するんです。
そして、人は、それほどに異常な行為に走るまで、
「愛情」を求めているものなんだって、そして、
愛情が得られないってことは、ものすごくつらく、
また、苦しいものなんだって、そんなふうに思います。
それで、今日の結論ですけど、ああ、やっぱり、
「愛情」っていうのは、食べ物と同様に、人間には、
「欠かせないものなんだ」っていうことなんですね。
「愛されること」、そして、「愛すること」、
それこそが幸せの根源なんだって、
私は心からそう思うことです。
愛情の大切さ
05-06,2012
個人の幸福って、個人で、一人だけでは達成できず、
たとえ少人数であっても、人とのかかわりにおいて、
初めて達成できるものではないかと思いますから、
やっぱり、幸福って、「社会」と関連すると思います。
そして、幸福な社会であれば、個人の幸福もまた、
実現しやすいと思うんですけど、
社会のミニミニ版である家族、そして、親子関係、
それは、個人の幸不幸に、
決定的な影響を与えるものだと思います。
それで、家庭内で、不幸な事態がないということは、
個人の幸福にとって、まず、第一に大切だと思います。
不幸の原因が家族や親子関係にあるようですと、
それは、非常に解決困難な問題となりますので、
嫌な話題ではありますけど、幸福を求めるためには、
不幸の実態や原因についても考えてみたいと思い、
5月1日からは、NHKテレビで放送された、
ある女性の不幸なできごとについて、
いろいろ考えを進めてきたところです。
それで、前回の続きですけど、小学生の時からずっと、
父親から体をさわられ続けてきた女性が、
中学生の時、ついに、父親によって、
手込めにされてしまいました。
古風な言い方ですが、「手込めにする」って言葉には、
意味が二つありますけど、今日の場合は、
性的な意味での「手込めにする」ほうです。
それで、ほんとに勝手な想像なんですけど、父親は、
「愛を得る」ことができない境遇を生きてきたので、
激しく「愛を渇望」し続けた人生ではなかったのか?
そして、渇望する愛の代償としての何かを、
自分の娘(彼女はまだ小学生だったんですけど)、
娘を利用して、むさぼり取ろうとしたんではないか?
・・・なんて想像するんですけど、
そう考える理由は、次回以降に書きたいと思います。
それで、今日書きたかったことなんですけど、
前回書いたことと重複するんですが、
「自分は愛されているんだ」っていう認識というか、
そういう感覚というのは、もう、非常に大切で、
「愛されてる」って信じられるからこそ、人は、
心が健全にいられるのかも知れないって、
ほんとうに思うことで、人を大切にすること、
そして、人に愛情を持つことって、それはもう、
何といっても、人が幸福に生きるためには、
最も重要なものなんだと思いますっていうことを、
私は、言いたかったのでした。
たとえ少人数であっても、人とのかかわりにおいて、
初めて達成できるものではないかと思いますから、
やっぱり、幸福って、「社会」と関連すると思います。
そして、幸福な社会であれば、個人の幸福もまた、
実現しやすいと思うんですけど、
社会のミニミニ版である家族、そして、親子関係、
それは、個人の幸不幸に、
決定的な影響を与えるものだと思います。
それで、家庭内で、不幸な事態がないということは、
個人の幸福にとって、まず、第一に大切だと思います。
不幸の原因が家族や親子関係にあるようですと、
それは、非常に解決困難な問題となりますので、
嫌な話題ではありますけど、幸福を求めるためには、
不幸の実態や原因についても考えてみたいと思い、
5月1日からは、NHKテレビで放送された、
ある女性の不幸なできごとについて、
いろいろ考えを進めてきたところです。
それで、前回の続きですけど、小学生の時からずっと、
父親から体をさわられ続けてきた女性が、
中学生の時、ついに、父親によって、
手込めにされてしまいました。
古風な言い方ですが、「手込めにする」って言葉には、
意味が二つありますけど、今日の場合は、
性的な意味での「手込めにする」ほうです。
それで、ほんとに勝手な想像なんですけど、父親は、
「愛を得る」ことができない境遇を生きてきたので、
激しく「愛を渇望」し続けた人生ではなかったのか?
そして、渇望する愛の代償としての何かを、
自分の娘(彼女はまだ小学生だったんですけど)、
娘を利用して、むさぼり取ろうとしたんではないか?
・・・なんて想像するんですけど、
そう考える理由は、次回以降に書きたいと思います。
それで、今日書きたかったことなんですけど、
前回書いたことと重複するんですが、
「自分は愛されているんだ」っていう認識というか、
そういう感覚というのは、もう、非常に大切で、
「愛されてる」って信じられるからこそ、人は、
心が健全にいられるのかも知れないって、
ほんとうに思うことで、人を大切にすること、
そして、人に愛情を持つことって、それはもう、
何といっても、人が幸福に生きるためには、
最も重要なものなんだと思いますっていうことを、
私は、言いたかったのでした。
愛し愛され
05-05,2012
ケーン、ケーンって、大きな鳴き声がします。
窓から見ましたら、雉の彼が、彼女を連れて、
庭に来ていました。
卵を産む場所を探しているんだろうと想像しました。
去年は、ノコギリ草が茂っていたうちの庭の一角で、
雉が卵を抱いてたんですよね。
(去年7月4日の記事と写真)
去年は、原子力発電所の事故による計画停電があり、
私は、すっかりそちらの事故関係に気をとられ、
庭の草が伸び放題だったものですから、それで、
雉が卵を産む場所もあったんですけど、今年は、
園芸作業も進めてますので、
卵を産めるような草叢が無いんです。
彼が前を歩き、彼女が従って、雉のつがいは、
歩み去ってしまいました。(飛んだのではなく。)
さて、昨日の話の続きですけど、
父親の態度が急変したきっかけは、
父親に体をもてあそばれていることを、
「母親に言う」って宣言したことみたいですね。
彼女、父親の行為を止めたかったんでしょうね。
その一言で、父親は豹変し、
いきなり暴力的になったようですけど、
なぜなんだろうって私が疑問に思う理由は、
類似の悲劇がたくさん起こり得ると思いますから、
そういう悲劇を防ぎ、また、対策を考えるには、
そういう心境になる男の心理状態を、
まずは、把握したいと思ったからなのです。
だいたい、こういう類の事件っていうのは、
被害者の心を激しく傷つけ、不幸に陥れること、
この上ないと思います。
それで、体の傷には、「創」と「傷」があり、
「創」はまた切創とか刺創とかいろいろあるように、
心の傷も、「どういう面で傷つけられたか」により、
いろいろあると思いますが、私としては、
性暴力や性的虐待を受けた場合、
心のどんな面が傷つけられるのかっていうこと、また、
加害者は、「心にどんな問題を持つか」ってことを、
知りたい気持ちもあるんですね。
なぜなら、加害者の心理を知ることは、
繰り返し発生する被害を防ぐてだてを考えるのに、
役立つことになるのではないかと思うからです。
また、被害者は、心のどんな面を傷つけられるか、
それを知ることにより、回復への道を探ることが、
少しはできるようになるかと期待するからです。
でも、そういう研究をする私ではありませんから、
ただ、私の推測や想像を書くだけなんですけど、
話題にしている女性の父親に関して、
根拠の無い推測ですけど、大胆に書きますと、
彼女の父親は、無意識の心の奥で、
「愛を渇望していた」んではないか?
・・・って推測するんですね。
それで、そう推測する理由は次回以降にしますけど、
人は、愛を受けること、そして、人を愛すること、
そのことがなければ、
満足に生きていくことができないほど、
愛を求めるものなんだって、それが私の推測です。
そして、「愛情」がある情況でなければ、人は、
幸せを感じることができないだろうと想像しますが、
そういうことについては、
おいおい書いていきたいと思います。
でもまあ、ちょっとだけ、
結論めいたことを書かせていただきますと、
自分は「愛されているんだ」っていうことを、
素直に信じることができること、
それこそがほんとうに幸せなことであり、
また、そういう心の状態であってこそ、
他人を愛することができるんだって、私は思います。
そして、愛されること、愛すること、
それこそ、みんなが、共に幸せに生きる道だって、
今は、そんな気がしている私です。
窓から見ましたら、雉の彼が、彼女を連れて、
庭に来ていました。
卵を産む場所を探しているんだろうと想像しました。
去年は、ノコギリ草が茂っていたうちの庭の一角で、
雉が卵を抱いてたんですよね。
(去年7月4日の記事と写真)
去年は、原子力発電所の事故による計画停電があり、
私は、すっかりそちらの事故関係に気をとられ、
庭の草が伸び放題だったものですから、それで、
雉が卵を産む場所もあったんですけど、今年は、
園芸作業も進めてますので、
卵を産めるような草叢が無いんです。
彼が前を歩き、彼女が従って、雉のつがいは、
歩み去ってしまいました。(飛んだのではなく。)
さて、昨日の話の続きですけど、
父親の態度が急変したきっかけは、
父親に体をもてあそばれていることを、
「母親に言う」って宣言したことみたいですね。
彼女、父親の行為を止めたかったんでしょうね。
その一言で、父親は豹変し、
いきなり暴力的になったようですけど、
なぜなんだろうって私が疑問に思う理由は、
類似の悲劇がたくさん起こり得ると思いますから、
そういう悲劇を防ぎ、また、対策を考えるには、
そういう心境になる男の心理状態を、
まずは、把握したいと思ったからなのです。
だいたい、こういう類の事件っていうのは、
被害者の心を激しく傷つけ、不幸に陥れること、
この上ないと思います。
それで、体の傷には、「創」と「傷」があり、
「創」はまた切創とか刺創とかいろいろあるように、
心の傷も、「どういう面で傷つけられたか」により、
いろいろあると思いますが、私としては、
性暴力や性的虐待を受けた場合、
心のどんな面が傷つけられるのかっていうこと、また、
加害者は、「心にどんな問題を持つか」ってことを、
知りたい気持ちもあるんですね。
なぜなら、加害者の心理を知ることは、
繰り返し発生する被害を防ぐてだてを考えるのに、
役立つことになるのではないかと思うからです。
また、被害者は、心のどんな面を傷つけられるか、
それを知ることにより、回復への道を探ることが、
少しはできるようになるかと期待するからです。
でも、そういう研究をする私ではありませんから、
ただ、私の推測や想像を書くだけなんですけど、
話題にしている女性の父親に関して、
根拠の無い推測ですけど、大胆に書きますと、
彼女の父親は、無意識の心の奥で、
「愛を渇望していた」んではないか?
・・・って推測するんですね。
それで、そう推測する理由は次回以降にしますけど、
人は、愛を受けること、そして、人を愛すること、
そのことがなければ、
満足に生きていくことができないほど、
愛を求めるものなんだって、それが私の推測です。
そして、「愛情」がある情況でなければ、人は、
幸せを感じることができないだろうと想像しますが、
そういうことについては、
おいおい書いていきたいと思います。
でもまあ、ちょっとだけ、
結論めいたことを書かせていただきますと、
自分は「愛されているんだ」っていうことを、
素直に信じることができること、
それこそがほんとうに幸せなことであり、
また、そういう心の状態であってこそ、
他人を愛することができるんだって、私は思います。
そして、愛されること、愛すること、
それこそ、みんなが、共に幸せに生きる道だって、
今は、そんな気がしている私です。
なぐさめ
05-04,2012
「慰める」って言葉ですけど、
相手に「やさしく接する」には違いないでしょうが、
相手の心が幸福な状態にある時ではなく、
心理的にひどい状態に陥っている相手に対して、
そういう相手を優しく包み込み、
傷を負った心の回復を助ける意味のように感じます。
それで、相手を「労わる」っていうのと違う点ですが、
「慰める」っていうのは、
相手が精神的に苦しみ、困難な情況にある時、
「心理的に」ケアすることじゃないかと思います。
誰だって、心理的に苦しく、ひどい状態になる時って、
ありますよね。
そういう時に、心の面で援助がもらえる、また、
優しくしてもらえるって、
それはほんとうにありがたいことだし、
恵みだと思います。
世の中、いつも幸せ・・・ってわけにはいきませんで、
心が傷つき、苦しむことって、たくさんありますから、
そういう時、心の面で助けてもらえるって、
ほんとうに感謝ですね。
群馬県に行った時、
「上毛カルタ」というのがあると知りましたが、
「白衣観音 慈悲の御手」という札があるそうで、
宗教的なことは詳しくない私ですが、
慈悲というのは、
「人々をあわれみ、楽しみを与え、
苦しみを取り除くこと」のようですから、
まあ、それは、ほんとにありがたいことだと思います。
さて、話は変わりまして、
「伽」という古語についてです。
歌舞伎「義経千本桜」の五幕目、釣瓶鮨屋の場ですが、
平維盛の妻、若葉の内侍が、子を連れて道に迷い、
「釣瓶鮨」の店に一泊しようと、立ち寄ります。
すると、町人姿に身をやつした夫の維盛が出てきます。
再会を喜びますが、部屋に入った若葉の内侍について、
台本には次のように書かれています。
「若葉の君、臥したる娘に目を付け給ひ、
若い女中の寢入り端、殊に枕も二つあり、
定めてお伽の人ならん。」
それで、「伽」の意味なんですが、
話し相手になって、相手を慰めることですけど、
もっと程度が深化しますと、
夜、寝ないで付き添うこと、そして、
相手の寝間にはべること、さらに、
相手の意にそって、女性が男と共寝をすることで、
まあ、後のほうの「伽」は、「夜伽」という言葉が、
内容を的確に表しているかも知れませんね。
それで、「伽」というのは、
最初から「添い寝」の意味ではなく、
「話し相手になって相手を慰める」というのが、
もともとの意味というか、本来なのかも知れません。
つまり、私が言いたかったことは、
「皮膚感覚の喜びや性的な悦楽を与える」のは、
「伽」の本質ではなく、「伽」というものは、
今風の言葉で言えば、精神的なケアをすること、
「相手の心を慰めること」が本質じゃないかなあ?
・・・っていうのが、私の想像です。
それで、5月1日から書いている女性、
小学生時代から父親の性暴力を受けていた人ですが、
彼女の父は、もしかしたら、彼女に対して、
自分のどうしようもない心のケアを求めていたって、
そんなふうに解釈できるんじゃないかと思うんです。
まあ、ほんとに、根拠のない想像ですけどね。
それで、彼女、父親から、
性的にひどいことをされ続けていましたから、
そのことを「母親に言う」と告げたんですね。
すると、父親は逆上し、
彼女は、父親にレイプされてしまったというのです。
彼女は言います。
「豹変したんですよ。
それまでは、すごく優しく寄ってきていたのが、
目つきが変わって、
力ずくでされるようになってしまって、
なんか・・・どうでもいい感覚。」
続きは次回に。
相手に「やさしく接する」には違いないでしょうが、
相手の心が幸福な状態にある時ではなく、
心理的にひどい状態に陥っている相手に対して、
そういう相手を優しく包み込み、
傷を負った心の回復を助ける意味のように感じます。
それで、相手を「労わる」っていうのと違う点ですが、
「慰める」っていうのは、
相手が精神的に苦しみ、困難な情況にある時、
「心理的に」ケアすることじゃないかと思います。
誰だって、心理的に苦しく、ひどい状態になる時って、
ありますよね。
そういう時に、心の面で援助がもらえる、また、
優しくしてもらえるって、
それはほんとうにありがたいことだし、
恵みだと思います。
世の中、いつも幸せ・・・ってわけにはいきませんで、
心が傷つき、苦しむことって、たくさんありますから、
そういう時、心の面で助けてもらえるって、
ほんとうに感謝ですね。
群馬県に行った時、
「上毛カルタ」というのがあると知りましたが、
「白衣観音 慈悲の御手」という札があるそうで、
宗教的なことは詳しくない私ですが、
慈悲というのは、
「人々をあわれみ、楽しみを与え、
苦しみを取り除くこと」のようですから、
まあ、それは、ほんとにありがたいことだと思います。
さて、話は変わりまして、
「伽」という古語についてです。
歌舞伎「義経千本桜」の五幕目、釣瓶鮨屋の場ですが、
平維盛の妻、若葉の内侍が、子を連れて道に迷い、
「釣瓶鮨」の店に一泊しようと、立ち寄ります。
すると、町人姿に身をやつした夫の維盛が出てきます。
再会を喜びますが、部屋に入った若葉の内侍について、
台本には次のように書かれています。
「若葉の君、臥したる娘に目を付け給ひ、
若い女中の寢入り端、殊に枕も二つあり、
定めてお伽の人ならん。」
それで、「伽」の意味なんですが、
話し相手になって、相手を慰めることですけど、
もっと程度が深化しますと、
夜、寝ないで付き添うこと、そして、
相手の寝間にはべること、さらに、
相手の意にそって、女性が男と共寝をすることで、
まあ、後のほうの「伽」は、「夜伽」という言葉が、
内容を的確に表しているかも知れませんね。
それで、「伽」というのは、
最初から「添い寝」の意味ではなく、
「話し相手になって相手を慰める」というのが、
もともとの意味というか、本来なのかも知れません。
つまり、私が言いたかったことは、
「皮膚感覚の喜びや性的な悦楽を与える」のは、
「伽」の本質ではなく、「伽」というものは、
今風の言葉で言えば、精神的なケアをすること、
「相手の心を慰めること」が本質じゃないかなあ?
・・・っていうのが、私の想像です。
それで、5月1日から書いている女性、
小学生時代から父親の性暴力を受けていた人ですが、
彼女の父は、もしかしたら、彼女に対して、
自分のどうしようもない心のケアを求めていたって、
そんなふうに解釈できるんじゃないかと思うんです。
まあ、ほんとに、根拠のない想像ですけどね。
それで、彼女、父親から、
性的にひどいことをされ続けていましたから、
そのことを「母親に言う」と告げたんですね。
すると、父親は逆上し、
彼女は、父親にレイプされてしまったというのです。
彼女は言います。
「豹変したんですよ。
それまでは、すごく優しく寄ってきていたのが、
目つきが変わって、
力ずくでされるようになってしまって、
なんか・・・どうでもいい感覚。」
続きは次回に。
自分を知る
05-03,2012
昨日書いたことですが、この世に生きて、
心地良い人間関係を体験したことがなく、
人に対する信頼感が全く形成されず、
安心できる状態を生きた体験がないとすれば、
そういう人は、想像を絶する厳しい人生、
限りない苦しみの人生を生きていることになるって、
ほんとうにそう思いますね。
それで、昨日、「肌の温もり」について書きましたが、
「肌の温もり」が得られないっていうの、それ、
子どもが虐待される痛みのうちで、一番だって、
私は思いますね・・・ただし、心理的にですけど。
子どもに対する虐待って、暴行はじめ、
いろいろありますけど、肉体的暴行を受けるのは、
ものすごくつらいことだと思いますけど、でも、
それだからといって、精神的な虐待については、
「たいしたことない」なんてことはありませんし、
精神的に苦しめられるって、
ものすごくひどいことだと思います。
そして、暴行を受ける虐待でも、そこには当然、
「心が苦しめられる」虐待が付属してますよね。
暴行を受けるって、自分の尊厳が無視され、愛されず、
迎えられず、自分の存在が否定されることなので、
暴行を受ける肉体的痛みに加えて、
「自分の存在」そのものが無価値なものとされる、
精神的な苦しみがついて回ると思うんです。
それで、5月1日に書いた女性のことですけど、
彼女、小さい頃から暴行されるなどしてましたが、
小学5年生以降は、
父親が彼女の体をさわるようになったんですね。
最初は風呂場で体をさわられたんですけど、やがて、
彼女が寝ていると、父親が来るようになったそうです。
彼女が中学生になったとき、
級友たちが話している内容を聞いて、彼女は、
「間違ったことを父親からされている」ってことを、
初めて知ったようなんですね。
それで彼女は、父親に対して、
「母親に言う」と告げたそうです。
もちろんそれは、そういう行為を、
父親にやめて欲しかったからだと、私は思います。
すると、父親はどういう態度を見せたか、
それは次回に書くことにしますけど、
私は、その父親の精神状態って何なの?
・・・って思いまして、つまり、
そういうことをする父親の心理とか、
なぜそんな行為に走るのかってことがわからないと、
同種の悲劇を防ぐ手立てが見つからないわけで、
ちょっとそんなことを考えてみましたけど、
でも、理解できないというか、想像が及ばなくて、
解決への糸口が見つからないわけですけど、
でも、一つだけ言えることは、彼女の父が、精神的に、
ちっとも幸福ではなかっただろうってことで、
それだけは確実だと思うんですね。
想像を膨らませれば、彼女の父は、
自分の心が抱える問題というか、苦しみというか、
それを解消する、あるいは、紛らわすために、
自分の子である彼女を利用したのではないか?
・・・ってことなんです。
さて、5月1日には、その父親の心理を推測し、
もしかしたら、性的な接触によって、
彼女の父は、「心の慰め」を得ようとしていた?
・・・そんな推測ができるってことを書きましたが、
私の想像は、
どうしてもそういう方向に行ってしまいます。
そうだとすれば、とにかく、
父親が「幸福な人」であれば、
自分の子を虐待することはないだろうと思いまして、
そうしますと、彼女の父が、
自分の心理的問題を解決するっていうことが、
根本的な解決への道だってことになるんですけど、
それはまあ、ものすごく困難な道でしょうね、
たぶん。
でも、どんなに困難であろうとも、
抱えている心理的問題を解決するってことは、
万人にとって重要なことだと、私は思います。
それで、このブログも、幸福であるためには、
各人が抱える心理的問題を解消すること、
また、そのためには、
「どんな心理的問題を抱えているか」ってことを、
まず、自覚するというか、明らかにすることが、
最初に必要だろうと思いまして、
まあ、そんなことで、このブログも書いております。
それで、今日の標題は、
「自分を知る」としましたけど、
なんか、ソクラテスが言ったことに似てますね。
それで、「自分を知る」っていうことは、
その人が幸福であれ、不幸であれ、どっちにしても、
とっても大切なことだと思いますし、また、同時に、
「ありのままの自分」に対する愛情っていうものは、
最も必要なことだと思いますね。
さらにまた書きますと、「自分に対する愛情」って、
「他人に対する愛情」と、実は、同じなんだって、
私は、そんな気がしてなりません。
心地良い人間関係を体験したことがなく、
人に対する信頼感が全く形成されず、
安心できる状態を生きた体験がないとすれば、
そういう人は、想像を絶する厳しい人生、
限りない苦しみの人生を生きていることになるって、
ほんとうにそう思いますね。
それで、昨日、「肌の温もり」について書きましたが、
「肌の温もり」が得られないっていうの、それ、
子どもが虐待される痛みのうちで、一番だって、
私は思いますね・・・ただし、心理的にですけど。
子どもに対する虐待って、暴行はじめ、
いろいろありますけど、肉体的暴行を受けるのは、
ものすごくつらいことだと思いますけど、でも、
それだからといって、精神的な虐待については、
「たいしたことない」なんてことはありませんし、
精神的に苦しめられるって、
ものすごくひどいことだと思います。
そして、暴行を受ける虐待でも、そこには当然、
「心が苦しめられる」虐待が付属してますよね。
暴行を受けるって、自分の尊厳が無視され、愛されず、
迎えられず、自分の存在が否定されることなので、
暴行を受ける肉体的痛みに加えて、
「自分の存在」そのものが無価値なものとされる、
精神的な苦しみがついて回ると思うんです。
それで、5月1日に書いた女性のことですけど、
彼女、小さい頃から暴行されるなどしてましたが、
小学5年生以降は、
父親が彼女の体をさわるようになったんですね。
最初は風呂場で体をさわられたんですけど、やがて、
彼女が寝ていると、父親が来るようになったそうです。
彼女が中学生になったとき、
級友たちが話している内容を聞いて、彼女は、
「間違ったことを父親からされている」ってことを、
初めて知ったようなんですね。
それで彼女は、父親に対して、
「母親に言う」と告げたそうです。
もちろんそれは、そういう行為を、
父親にやめて欲しかったからだと、私は思います。
すると、父親はどういう態度を見せたか、
それは次回に書くことにしますけど、
私は、その父親の精神状態って何なの?
・・・って思いまして、つまり、
そういうことをする父親の心理とか、
なぜそんな行為に走るのかってことがわからないと、
同種の悲劇を防ぐ手立てが見つからないわけで、
ちょっとそんなことを考えてみましたけど、
でも、理解できないというか、想像が及ばなくて、
解決への糸口が見つからないわけですけど、
でも、一つだけ言えることは、彼女の父が、精神的に、
ちっとも幸福ではなかっただろうってことで、
それだけは確実だと思うんですね。
想像を膨らませれば、彼女の父は、
自分の心が抱える問題というか、苦しみというか、
それを解消する、あるいは、紛らわすために、
自分の子である彼女を利用したのではないか?
・・・ってことなんです。
さて、5月1日には、その父親の心理を推測し、
もしかしたら、性的な接触によって、
彼女の父は、「心の慰め」を得ようとしていた?
・・・そんな推測ができるってことを書きましたが、
私の想像は、
どうしてもそういう方向に行ってしまいます。
そうだとすれば、とにかく、
父親が「幸福な人」であれば、
自分の子を虐待することはないだろうと思いまして、
そうしますと、彼女の父が、
自分の心理的問題を解決するっていうことが、
根本的な解決への道だってことになるんですけど、
それはまあ、ものすごく困難な道でしょうね、
たぶん。
でも、どんなに困難であろうとも、
抱えている心理的問題を解決するってことは、
万人にとって重要なことだと、私は思います。
それで、このブログも、幸福であるためには、
各人が抱える心理的問題を解消すること、
また、そのためには、
「どんな心理的問題を抱えているか」ってことを、
まず、自覚するというか、明らかにすることが、
最初に必要だろうと思いまして、
まあ、そんなことで、このブログも書いております。
それで、今日の標題は、
「自分を知る」としましたけど、
なんか、ソクラテスが言ったことに似てますね。
それで、「自分を知る」っていうことは、
その人が幸福であれ、不幸であれ、どっちにしても、
とっても大切なことだと思いますし、また、同時に、
「ありのままの自分」に対する愛情っていうものは、
最も必要なことだと思いますね。
さらにまた書きますと、「自分に対する愛情」って、
「他人に対する愛情」と、実は、同じなんだって、
私は、そんな気がしてなりません。
肌の温もり
05-02,2012
赤ちゃんがお母さんに抱っこされる時、
もう、心地良さが最高ですし、
絶対的な信頼感に包まれて、
安心して「存在する」喜びを味わうことができる、
・・・っていうのは、私が想像することでして、
もう、大人になりますと、
赤ちゃんの時の記憶なんか、飛んじゃってますし、
それに、赤ちゃんなんですから、言葉によって、
「心地良い」とか「信頼」とか「安心」とか、
ましてや「存在する喜び」なんていうように、
自分の情況を客観的に把握することなんて、当然、
できませんよね。
でも、たとえ「言葉のない世界」であったとしても、
また、赤ちゃん時代の記憶を失った後であっても、
人は、無意識のうちに、
そういう情況にあった自分の幸福を、
「大人になってからも」求め続けるし、
また、そういう「母」あるいは「母性的なもの」を、
心の底から求めているんではないでしょうかね?
そしてまた、青年になり、大人になって、何か、
困難に直面したり、挫折することがあったりした時、
人は、赤ちゃん時代の母のような存在を、
無意識のうちに、求めるものかもしれませんね。
そして、そういう「母」のような存在は、
傷ついたり、挫折した心を癒すためには、
すごく効果があるのかも知れません。
でも、でも、次のような人がいたらどうしましょう?
上記のような、慈愛に満ちた母が存在せず、さらに、
そういう母と同じような役割をしてくれる人も、
誰もいなかったとすれば、そういう人って、
心の状態が、ものすごいことになってると思います。
何しろ、この世に生きて、
心地良さ体験など皆無、人に対する信頼感はゼロ、
安心できる状態なんか体験できてないとすれば、
そういう人の心って、どんなんでしょう?
それでまあ、この続きは次回にしますけど、
自分の「存在」そのものが周囲の人から承認されず、
そのために、人を信頼することができなくなり、
そしてまた、愛情を受ける体験がなかったとすれば、
そういう人は、「ひどい心の状態」でしょうね?
そして、もし、「肌の温もり」というような、
「心理的な満足」が得られるものはもちろんのこと、
赤ちゃんがお母さんに抱っこされる時のような、
「肌の温もり」さえも体感したことがないとすれば、
そういう人の心って、荒れに荒れ、
荒みに荒んでいるってことも考えられるのでは?
それで、私は思うんですけど、
「好意や愛情」を得たいっていう欲求は、
すでに「肌の温もり」を体験できている人が、
もっと幸せを得たい時に欲求するものであって、
仮に、「肌の温もり」すら味わったことがない人なら、
とてもとても、「好意や愛情」を得る段階までは、
願えないというか、「好意や愛情」なんかより、まず、
もっと基本的な、
身体的接触による肌のぬくもりを渇望するのかも?
・・・って想像するんですけど、どうでしょうか。
つまり、「肌の温もり」っていうのは、
人が欲する第一番のもの、最低限のものであって、
人には、まず、他の人と接触することによって、
「肌の温もり」を体験することが必要なのであって、
「肌の温もり」を体験してないのに、
「好意や愛情」を欲求するってことは、
歯痛がひどくて七転八倒の状態なのに、
おいしいご馳走を求めるのと同じことで、
歯痛の時は、ご馳走を食べるより、
歯科医に行って歯の治療をすることが、
ご馳走を食べることより優先されますよね。
それと同じことですが、人はまず、
「肌の温もり」による安心と安全を求めるのであり、
それが満たされた後で、「好意や愛情」という、
もっと高いレベルの欲求が自覚できるのだろうか、
・・・なんて、想像ですけど、そんな気がします。
つまり、「肌の温もり」によって感じられる、
「安心」と「安全」っていうのは、
最も基本的な人の欲求であって、
それが満たされないとすれば、
他のどんな欲求も、「あとまわし」になるんですね、
たぶん。
人は、まず第一に、
「肌の温もり」による安心と安全を求めるって、
それは、文字通り「必死で」求めれられるものだって、
そう仮定しますと、虐待問題、
特に、性的な虐待とか、また、そこまでいかなくても、
激しい性的な渇望とか、そういう問題について、
なぜそうした問題が起こるのかっていう疑問に、
解明の糸口を与えるのではないかと思いますので、
なお、次回以降も、関連した話題を・・・
最後になりますが、赤ちゃんに対して、
お母さんが、あるいは、お母さんじゃない人でも、
肌のぬくもりをとおして愛情を伝え、
また、赤ちゃんの存在そのものを喜び、尊重し、
「あなたが大好きです。
あなたの存在は、私の喜びです。」ってことを、
伝えるってことは、赤ちゃんが幸福に育つために、
まずは、一番大切なことじゃないかと思う私です。
もう、心地良さが最高ですし、
絶対的な信頼感に包まれて、
安心して「存在する」喜びを味わうことができる、
・・・っていうのは、私が想像することでして、
もう、大人になりますと、
赤ちゃんの時の記憶なんか、飛んじゃってますし、
それに、赤ちゃんなんですから、言葉によって、
「心地良い」とか「信頼」とか「安心」とか、
ましてや「存在する喜び」なんていうように、
自分の情況を客観的に把握することなんて、当然、
できませんよね。
でも、たとえ「言葉のない世界」であったとしても、
また、赤ちゃん時代の記憶を失った後であっても、
人は、無意識のうちに、
そういう情況にあった自分の幸福を、
「大人になってからも」求め続けるし、
また、そういう「母」あるいは「母性的なもの」を、
心の底から求めているんではないでしょうかね?
そしてまた、青年になり、大人になって、何か、
困難に直面したり、挫折することがあったりした時、
人は、赤ちゃん時代の母のような存在を、
無意識のうちに、求めるものかもしれませんね。
そして、そういう「母」のような存在は、
傷ついたり、挫折した心を癒すためには、
すごく効果があるのかも知れません。
でも、でも、次のような人がいたらどうしましょう?
上記のような、慈愛に満ちた母が存在せず、さらに、
そういう母と同じような役割をしてくれる人も、
誰もいなかったとすれば、そういう人って、
心の状態が、ものすごいことになってると思います。
何しろ、この世に生きて、
心地良さ体験など皆無、人に対する信頼感はゼロ、
安心できる状態なんか体験できてないとすれば、
そういう人の心って、どんなんでしょう?
それでまあ、この続きは次回にしますけど、
自分の「存在」そのものが周囲の人から承認されず、
そのために、人を信頼することができなくなり、
そしてまた、愛情を受ける体験がなかったとすれば、
そういう人は、「ひどい心の状態」でしょうね?
そして、もし、「肌の温もり」というような、
「心理的な満足」が得られるものはもちろんのこと、
赤ちゃんがお母さんに抱っこされる時のような、
「肌の温もり」さえも体感したことがないとすれば、
そういう人の心って、荒れに荒れ、
荒みに荒んでいるってことも考えられるのでは?
それで、私は思うんですけど、
「好意や愛情」を得たいっていう欲求は、
すでに「肌の温もり」を体験できている人が、
もっと幸せを得たい時に欲求するものであって、
仮に、「肌の温もり」すら味わったことがない人なら、
とてもとても、「好意や愛情」を得る段階までは、
願えないというか、「好意や愛情」なんかより、まず、
もっと基本的な、
身体的接触による肌のぬくもりを渇望するのかも?
・・・って想像するんですけど、どうでしょうか。
つまり、「肌の温もり」っていうのは、
人が欲する第一番のもの、最低限のものであって、
人には、まず、他の人と接触することによって、
「肌の温もり」を体験することが必要なのであって、
「肌の温もり」を体験してないのに、
「好意や愛情」を欲求するってことは、
歯痛がひどくて七転八倒の状態なのに、
おいしいご馳走を求めるのと同じことで、
歯痛の時は、ご馳走を食べるより、
歯科医に行って歯の治療をすることが、
ご馳走を食べることより優先されますよね。
それと同じことですが、人はまず、
「肌の温もり」による安心と安全を求めるのであり、
それが満たされた後で、「好意や愛情」という、
もっと高いレベルの欲求が自覚できるのだろうか、
・・・なんて、想像ですけど、そんな気がします。
つまり、「肌の温もり」によって感じられる、
「安心」と「安全」っていうのは、
最も基本的な人の欲求であって、
それが満たされないとすれば、
他のどんな欲求も、「あとまわし」になるんですね、
たぶん。
人は、まず第一に、
「肌の温もり」による安心と安全を求めるって、
それは、文字通り「必死で」求めれられるものだって、
そう仮定しますと、虐待問題、
特に、性的な虐待とか、また、そこまでいかなくても、
激しい性的な渇望とか、そういう問題について、
なぜそうした問題が起こるのかっていう疑問に、
解明の糸口を与えるのではないかと思いますので、
なお、次回以降も、関連した話題を・・・
最後になりますが、赤ちゃんに対して、
お母さんが、あるいは、お母さんじゃない人でも、
肌のぬくもりをとおして愛情を伝え、
また、赤ちゃんの存在そのものを喜び、尊重し、
「あなたが大好きです。
あなたの存在は、私の喜びです。」ってことを、
伝えるってことは、赤ちゃんが幸福に育つために、
まずは、一番大切なことじゃないかと思う私です。
安心できる幸せ(3)
05-01,2012
巣作りの場所を探してるようなんですけど、
それが屋内なので、巣をつくられたら、
私が困ってしまうんですね。
何しろ、夜間や外出時は、
施錠しなければなりませんから、そうなると、
燕が出入りできなくなっちゃうんです。
燕には、
「安心して暮らせる場所」を提供したいですけど、
戸締りをしなければ安心できない世の中ですから、
残念です。
それに、糞の量も多いですから、
家の中が燕の糞だらけになることも、
許容しなければならないわけで、結局、
燕には、巣作りしてもらえないでいます。
それで、4月末日の昨日、
今年初めて、つがいの燕が、
何組もやってきましたので、撮影し、
今日の添付写真にしました。
さて、「安心できる幸せ」っていう標題で、
過去に2回書いてますけど、
今日も同じ標題で書かせていただきます。
でも、内容は、今までと違いまして、
子どもを性的に虐待する話です。
今年3月で終了したNHKテレビの番組に、
「ハートをつなごう」というのがあって、
その中の、「性暴力被害 第3弾」を見ました。
その番組に、24歳の女性も登場しました。
彼女は、小学生の時から18歳まで、
父親から性暴力を受けていたと紹介されました。
彼女が育った家庭は、父親のために、
いつも「ピリピリした緊張感に満ちていた」そうで、
その話が、とても印象に残りました。
彼女が父親から虐待されていたのは、
小さい頃からだったんですけど、その虐待が、
「性的なもの」に変化したのは、
彼女が小学5年生の時だったそうで、
父親が風呂場に入ってくるようになったのが、
その始まりだったそうです。
そして、彼女に対する父親の性的虐待は、
次第にエスカレートしていくんですけど、彼女は、
父の「言いなりになるしかなかった」というのです。
さて、今日書きたかったのは、前述の、
「ピリピリした緊張感に満ちていた」ってことで、
彼女の父親には、精神的に、
ゆったりとしていることができる「安心感」なんて、
全くなかったんだろうと想像したことでした。
推測ですけど、日常的に「激しい緊張感」の中で、
日々を送っている父親だったのではないでしょうか?
何かを恐れつつ生きる父親だったのでしょうか、
何かの不安にさいなまれる日々を送るとか、
心の痛みに耐えかねている父親だったのでしょうか?
そして、もしかしたら、
そういう恐れとか、不安とか、心の痛みなどを、
必死で「感じないようにして」日々を生きている、
そういう人物が父親だったのでしょうか?
彼女の父が、なぜそんなふうに緊張していたのか、
理由はわかりませんけど、「父親が緊張してる」と、
家庭の雰囲気そのものが、
「緊張ピリピリ」になりますよね、きっと。
そして、それは、彼女の父親を不幸にするとともに、
家族全員を不幸な毎日に陥らせてしまいますよね。
それで、「安心できる」っていうことは、
それはもう、ほんとうに幸福なことなんだって、
つくづくと思うことです。
最後に、私の勝手な推測ですけど、
彼女の父は、その「緊張感」から逃れるために、
彼女を虐待していたのではないか?
・・・なんて、根拠のない推理ですけどね。
そこまで書いたついでに、もう一言書きますと、
最初は暴行のような虐待だったんですけど、
やがて、「性暴力」に変わっていったわけですが、
もしかしたら、性的な接触によって、
彼女の父は、「心の慰め」を得ようとしていた?
・・・そんな推測も可能かと思うんですけど、
続きはまた次回に。
エリーザベト姫
04-30,2012
今日の添付写真、
題を「双子きゅうり」にしようか?
「夫婦きゅうり」にしようか、迷いましたが、
結局、「夫婦きゅうり」にしました。
こんなきゅうり、初めて見ました。
さて、「まことの愛」と「肉の悦び」に関する話、
昨日も書きましたけど、
ワーグナーの歌劇では「ラインの黄金」に限らず、
「タンホイザー」でも、そのことが、
主要なテーマになってると思うんですね。
主人公ハインリヒ(タンホイザー)は、
快楽の女神ヴェーヌスと共に、ヴェーヌスベルクで、
悦びの日々を暮らしていたんですけど、結局は、
心が満たされないため、ヴェーヌスベルクを離れ、
エリーザベト姫から、
「まことの愛」をささげられるわけですね。
そのエリーザベト姫は、自らの命を断ってまでも、
ハインリヒの心を救済するというわけですから、
まあ、いくらフィクションだといっても、
すごいストーリーだと思う私です。
結局、ハインリヒは、ヴェーヌスベルクにおいて、
日々、悦楽に浸っていても、
「心からの、ほんとうの満足と幸福」は、
得られなかったわけなんでしょうね。
私の勝手な想像ですけど、ヴェーヌスベルクにおいて、
ハインリヒと女神ヴェーヌスは、
「まことの愛」で結ばれていたわけじゃなかった、
・・・って思います。
そして、その対極にあるのが、エリーザベト姫ですね。
彼女は、ハインリヒに真心をささげるんですけど、
実は、ハインリヒからは、
何も「いいこと」をしてもらってないんですよね。
ですから、彼女の愛は、
「尽くすだけ」、「ささげるだけ」なんですけど、
でも、そういうのがエリーザベト姫なんですよね。
ああ、ですから、エリーザベト姫のような愛は、
常人には不可能だって、私は思います。
だからこそ、歌劇という、
フィクションの世界でのストーリーなんですよね。
でも・・・でも、ワーグナーという人は、
そういう愛を求めていたのだと、私は想像します。
そして、生まれて以来一度も、
「愛される体験」がなかったような人ならば、
そういう夢想的な愛を、
無意識のうちに渇望しているのかもしれないって、
ああ、もう、すごい想像ですけど、
別に、「不確かなことを書いてはいけない」なんて、
そういう決まりもないでしょうから、
思いっきり想像を書かせていただきますけど、
でも、「愛を求める心」はそれほど強力なんだって、
そのことは確かかもしれませんね。
それで、愛されること、そして、愛すること、
それこそが、幸せの条件なんじゃないかって、
そんな気がする私でした。
題を「双子きゅうり」にしようか?
「夫婦きゅうり」にしようか、迷いましたが、
結局、「夫婦きゅうり」にしました。
こんなきゅうり、初めて見ました。
さて、「まことの愛」と「肉の悦び」に関する話、
昨日も書きましたけど、
ワーグナーの歌劇では「ラインの黄金」に限らず、
「タンホイザー」でも、そのことが、
主要なテーマになってると思うんですね。
主人公ハインリヒ(タンホイザー)は、
快楽の女神ヴェーヌスと共に、ヴェーヌスベルクで、
悦びの日々を暮らしていたんですけど、結局は、
心が満たされないため、ヴェーヌスベルクを離れ、
エリーザベト姫から、
「まことの愛」をささげられるわけですね。
そのエリーザベト姫は、自らの命を断ってまでも、
ハインリヒの心を救済するというわけですから、
まあ、いくらフィクションだといっても、
すごいストーリーだと思う私です。
結局、ハインリヒは、ヴェーヌスベルクにおいて、
日々、悦楽に浸っていても、
「心からの、ほんとうの満足と幸福」は、
得られなかったわけなんでしょうね。
私の勝手な想像ですけど、ヴェーヌスベルクにおいて、
ハインリヒと女神ヴェーヌスは、
「まことの愛」で結ばれていたわけじゃなかった、
・・・って思います。
そして、その対極にあるのが、エリーザベト姫ですね。
彼女は、ハインリヒに真心をささげるんですけど、
実は、ハインリヒからは、
何も「いいこと」をしてもらってないんですよね。
ですから、彼女の愛は、
「尽くすだけ」、「ささげるだけ」なんですけど、
でも、そういうのがエリーザベト姫なんですよね。
ああ、ですから、エリーザベト姫のような愛は、
常人には不可能だって、私は思います。
だからこそ、歌劇という、
フィクションの世界でのストーリーなんですよね。
でも・・・でも、ワーグナーという人は、
そういう愛を求めていたのだと、私は想像します。
そして、生まれて以来一度も、
「愛される体験」がなかったような人ならば、
そういう夢想的な愛を、
無意識のうちに渇望しているのかもしれないって、
ああ、もう、すごい想像ですけど、
別に、「不確かなことを書いてはいけない」なんて、
そういう決まりもないでしょうから、
思いっきり想像を書かせていただきますけど、
でも、「愛を求める心」はそれほど強力なんだって、
そのことは確かかもしれませんね。
それで、愛されること、そして、愛すること、
それこそが、幸せの条件なんじゃないかって、
そんな気がする私でした。
心を満たす
04-29,2012
「まことの愛」と「肉の悦び」を区別する話、
それは、ワーグナー作曲「ニーベルングの指環」、
その前夜祭「ラインの黄金」の台本で、ワーグナーが、
アルベリヒの口を借りて表現してると思いますけど、
そのことについては昨日書きましたので、
今日は、そういう件に関して、私の感想というか、
まあ、推測の話です。
前回も書きましたとおり、人は、
「まことの愛」を求めていますし、また、
「まことの愛」によって、幸福を得るんですね。
それは、絶対にそうだって、私は、
確信に近く、そう思っています。
でも、ワーグナーが描くアルベリヒのように、
「愛を得られない」人だって、現実には、いますね。
そうすると、「まことの愛」の代償として、
人は、「肉の悦び」を渇望するのかも知れません。
ところが、現実にはそれも求めがたい・・・というか、
男なら女性が、また、女なら男性が、
誰一人、自分のところには寄ってきてくれない、
そんな情況だったら、どうなるでしょうね?
そんな情況の中で、「渇望」が肥大化し、
もう、おさまりがつかなくなり、無我夢中になると、
性暴力なんて事態が発生するのかも知れませんが、
それは、私の勝手な推測で、
心理的に、ほんとにそうなのかどうかはわかりません。
でも、私が言いたいのは、人はそれほど、本心では、
「まことの愛」を求めているんだっていうことで、
ですから、「まことの愛」が得られないってことは、
すごい苦しみなんだっていうことなんですね。
そして、「まことの愛」の代償として、
仮に「肉の悦び」が得られたとしても、
単なる肉体的接触だけでは、結局のところ、
「心を満たす」ことにはならないんですよね、
悲惨ですけど。
だからこそ、「まことの愛」って、
ほんとに大切なものだなあ、宝物だなあ、
幸せの源泉なんだなあって、
それは、何度でも繰り返し言いたいことなんです。
心が満たされるっていうのは、結局、
「まことの愛」が得られる時だと思う私です。
それで、次回は、またこの続きを・・・
それは、ワーグナー作曲「ニーベルングの指環」、
その前夜祭「ラインの黄金」の台本で、ワーグナーが、
アルベリヒの口を借りて表現してると思いますけど、
そのことについては昨日書きましたので、
今日は、そういう件に関して、私の感想というか、
まあ、推測の話です。
前回も書きましたとおり、人は、
「まことの愛」を求めていますし、また、
「まことの愛」によって、幸福を得るんですね。
それは、絶対にそうだって、私は、
確信に近く、そう思っています。
でも、ワーグナーが描くアルベリヒのように、
「愛を得られない」人だって、現実には、いますね。
そうすると、「まことの愛」の代償として、
人は、「肉の悦び」を渇望するのかも知れません。
ところが、現実にはそれも求めがたい・・・というか、
男なら女性が、また、女なら男性が、
誰一人、自分のところには寄ってきてくれない、
そんな情況だったら、どうなるでしょうね?
そんな情況の中で、「渇望」が肥大化し、
もう、おさまりがつかなくなり、無我夢中になると、
性暴力なんて事態が発生するのかも知れませんが、
それは、私の勝手な推測で、
心理的に、ほんとにそうなのかどうかはわかりません。
でも、私が言いたいのは、人はそれほど、本心では、
「まことの愛」を求めているんだっていうことで、
ですから、「まことの愛」が得られないってことは、
すごい苦しみなんだっていうことなんですね。
そして、「まことの愛」の代償として、
仮に「肉の悦び」が得られたとしても、
単なる肉体的接触だけでは、結局のところ、
「心を満たす」ことにはならないんですよね、
悲惨ですけど。
だからこそ、「まことの愛」って、
ほんとに大切なものだなあ、宝物だなあ、
幸せの源泉なんだなあって、
それは、何度でも繰り返し言いたいことなんです。
心が満たされるっていうのは、結局、
「まことの愛」が得られる時だと思う私です。
それで、次回は、またこの続きを・・・
まことの愛(2)
04-28,2012
昨日に続いて、ワーグナー作曲「ラインの黄金」の、
第3場なんですけど、登場するアルベリヒが、
私にとっては、衝撃的な歌を歌うんですね。
それは、おおよそ、次のような内容です。
「おまえたち、男どもが、まず、俺の力に屈服する。
次に、おまえたちの艶やかな女性たち、
彼女らは、俺の求愛をはねつけてきたけれど、
今度こそ、肉の悦びのため、
無理やり従わせ、俺の思いのままにしてやるぞ。
『まことの愛』は得られなくとも!」
おおぉ、恐ろしいです。
このブログで2月9日に書いたことですが、
NHKテレビ「ハートをつなごう」で、
「性暴力被害 第3弾」という番組を見た話、
ちょっと書きました。
(なお、「ハートをつなごう」は、放送終了です。)
それで、アルベリヒの歌ですけど、
「俺は性暴力を行うぞ!」って、
宣言してるのと同じですよね。
そして、テレビで言ってましたように、
性暴力の中でも、特に、
家族・親戚などからの「性虐待」を受けた人は、
壮絶な生きづらさや孤独感を抱えるってことが、
あるんでしょうね。
・・・そういうのって、まさに、幸福の反対ですよね。
そして、アルベリヒがしようとしていることは、
「幸福を壊す」ことなんですよね。
さて、「ニーベルングの指環」対訳本の一つに、
その部分についての解説が載ってまして、
次のように書いてあります。
「アルベリヒは、
『まことの愛』と『肉の悦び』を区別している。
彼が『まことの愛』を断念し、
肉欲一本槍の境地に達したのは、
ラインの娘たちに言い寄った時、
まともな求愛をもてあそばれたから。」
その解説を読んで、私も思うんですけど、
人がほんとうに求めているもの、それは、絶対、
「まことの愛」なんだっていうことなんですよね。
そうなんですね、「まことの愛」・・・それこそ、
幸福の源泉であり、人が求めてやまないものだと、
ほんとに、ほんとに思う私でした。
それで、続きは、また次回に。
第3場なんですけど、登場するアルベリヒが、
私にとっては、衝撃的な歌を歌うんですね。
それは、おおよそ、次のような内容です。
「おまえたち、男どもが、まず、俺の力に屈服する。
次に、おまえたちの艶やかな女性たち、
彼女らは、俺の求愛をはねつけてきたけれど、
今度こそ、肉の悦びのため、
無理やり従わせ、俺の思いのままにしてやるぞ。
『まことの愛』は得られなくとも!」
おおぉ、恐ろしいです。
このブログで2月9日に書いたことですが、
NHKテレビ「ハートをつなごう」で、
「性暴力被害 第3弾」という番組を見た話、
ちょっと書きました。
(なお、「ハートをつなごう」は、放送終了です。)
それで、アルベリヒの歌ですけど、
「俺は性暴力を行うぞ!」って、
宣言してるのと同じですよね。
そして、テレビで言ってましたように、
性暴力の中でも、特に、
家族・親戚などからの「性虐待」を受けた人は、
壮絶な生きづらさや孤独感を抱えるってことが、
あるんでしょうね。
・・・そういうのって、まさに、幸福の反対ですよね。
そして、アルベリヒがしようとしていることは、
「幸福を壊す」ことなんですよね。
さて、「ニーベルングの指環」対訳本の一つに、
その部分についての解説が載ってまして、
次のように書いてあります。
「アルベリヒは、
『まことの愛』と『肉の悦び』を区別している。
彼が『まことの愛』を断念し、
肉欲一本槍の境地に達したのは、
ラインの娘たちに言い寄った時、
まともな求愛をもてあそばれたから。」
その解説を読んで、私も思うんですけど、
人がほんとうに求めているもの、それは、絶対、
「まことの愛」なんだっていうことなんですよね。
そうなんですね、「まことの愛」・・・それこそ、
幸福の源泉であり、人が求めてやまないものだと、
ほんとに、ほんとに思う私でした。
それで、続きは、また次回に。
好意と愛情
04-27,2012
ワーグナー作曲「ラインの黄金」第3場の話で、
前回の続きを書きますけど、
アルベリヒは、「幸せ」な神々を次のように変容させ、
神々を苦しめてやろうとするんですね。
「おまえたち神々は、黄金の力に惑わされ、
ただひたすら、黄金を求めて喘ぐのだ」って、
そんなふうにアルベリヒは歌いますけど、要するに、
「黄金を渇望する心」は「喘ぎ」だっていうこと、
それは、「苦しみ悩み」だっていうことを、
端的に表現していると思いますね。
そうなんですね、私もそうだと思いますけど、
金銭財産を渇望する心とか、
権力を渇望する心とか、
自分が最高に輝かしい存在でなければ許せない、
そういう渇望は全部、心の苦しみであり、喘ぎであり、
不幸の原因なんですよね。
じゃあ、なぜそういう渇望が起こってくるのか?
私の推測では、「得られなかった愛」の代償として、
そういうものを求めてしまうんじゃないか?
・・・って思うんですけど、どうでしょうか。
それで、仮に、金銭財産を得るとか、権力を得るとか、
自分が最高に輝かしい存在となったとしても、
心が満たされるってことはないんじゃないかって、
私は想像するんです。
なぜなら、そういう渇望は、
「得られなかった愛」の代償としての願望ですけど、
ほんとうの心の満足というものは、
そのような代償物では得られないからなんですよね。
人のほんとうの喜び、心からの喜びというのは、
誰かを「好き」になれること、
それで、他の人を大切にすることができること、
愛情を持つことができることであって、
また、そういう心境になれるためには、
自分が他人から好意を持ってもらえる体験を重ね、
他人から大切に扱ってもらえる体験を重ね、
愛情を受け取る体験を重ねることが必要であって、
もし、仮に、誰からも好意を持ってもらえず、
ひどいめにあわされ続け、
愛情をもらえなかったとしたら、
人は、優しく、温かい心を持つことができないって、
私は思います。
だから、好意や愛情っていうものは、
幸福のためには、絶対必要だと思うんですね。
そして、一番の幸せは、自分が他の人に対して、
好意や愛情を持つことができるってことなんですが、
そういうことができるようになるためには、
他の人から好意や愛情を受ける体験を重ねること、
それは、どうしても必要だと思いますね、人間には。
つまり、人間は、神さまではありませんから、
自分は誰からも好意を受けず、愛情を受けず、
ひどいめにあわされ続けたけど、それにもかかわらず、
自分は他の人に対して好意を持って接し、
愛情を持って接します・・・なんてことは、
普通、「人間」には、できないだろうと思いますけど、
でも、それは、私が、自分を基準に推測したことで、
絶対正しい見方かどうかはわかりません。
でもまあ、確実にわかることは、私なら、
他人から好意も愛情も受ける体験が皆無だった場合、
それでも、私が他の人に対して好意を持って接し、
他の人に対して愛情を持って接するなんてことは、
「私には」不可能だろうってことですね。
前回の続きを書きますけど、
アルベリヒは、「幸せ」な神々を次のように変容させ、
神々を苦しめてやろうとするんですね。
「おまえたち神々は、黄金の力に惑わされ、
ただひたすら、黄金を求めて喘ぐのだ」って、
そんなふうにアルベリヒは歌いますけど、要するに、
「黄金を渇望する心」は「喘ぎ」だっていうこと、
それは、「苦しみ悩み」だっていうことを、
端的に表現していると思いますね。
そうなんですね、私もそうだと思いますけど、
金銭財産を渇望する心とか、
権力を渇望する心とか、
自分が最高に輝かしい存在でなければ許せない、
そういう渇望は全部、心の苦しみであり、喘ぎであり、
不幸の原因なんですよね。
じゃあ、なぜそういう渇望が起こってくるのか?
私の推測では、「得られなかった愛」の代償として、
そういうものを求めてしまうんじゃないか?
・・・って思うんですけど、どうでしょうか。
それで、仮に、金銭財産を得るとか、権力を得るとか、
自分が最高に輝かしい存在となったとしても、
心が満たされるってことはないんじゃないかって、
私は想像するんです。
なぜなら、そういう渇望は、
「得られなかった愛」の代償としての願望ですけど、
ほんとうの心の満足というものは、
そのような代償物では得られないからなんですよね。
人のほんとうの喜び、心からの喜びというのは、
誰かを「好き」になれること、
それで、他の人を大切にすることができること、
愛情を持つことができることであって、
また、そういう心境になれるためには、
自分が他人から好意を持ってもらえる体験を重ね、
他人から大切に扱ってもらえる体験を重ね、
愛情を受け取る体験を重ねることが必要であって、
もし、仮に、誰からも好意を持ってもらえず、
ひどいめにあわされ続け、
愛情をもらえなかったとしたら、
人は、優しく、温かい心を持つことができないって、
私は思います。
だから、好意や愛情っていうものは、
幸福のためには、絶対必要だと思うんですね。
そして、一番の幸せは、自分が他の人に対して、
好意や愛情を持つことができるってことなんですが、
そういうことができるようになるためには、
他の人から好意や愛情を受ける体験を重ねること、
それは、どうしても必要だと思いますね、人間には。
つまり、人間は、神さまではありませんから、
自分は誰からも好意を受けず、愛情を受けず、
ひどいめにあわされ続けたけど、それにもかかわらず、
自分は他の人に対して好意を持って接し、
愛情を持って接します・・・なんてことは、
普通、「人間」には、できないだろうと思いますけど、
でも、それは、私が、自分を基準に推測したことで、
絶対正しい見方かどうかはわかりません。
でもまあ、確実にわかることは、私なら、
他人から好意も愛情も受ける体験が皆無だった場合、
それでも、私が他の人に対して好意を持って接し、
他の人に対して愛情を持って接するなんてことは、
「私には」不可能だろうってことですね。
愛の喜び(2)
04-26,2012
「愛の喜び」っていう標題は、
4月14日にも使いまして、そのときは、
クライスラー作曲「愛の喜び」を話題にしましたが、
今日は、「愛の喜び」に関する別の話ですから、
標題を、「愛の喜び(2)」としました。
ワーグナー作曲「ラインの黄金」第3場で、
おおよそ、次のような意味の歌を、
アルベリヒが歌います。
「さわやかな風の吹く天上の世界にすむ神々よ、
笑いさざめき、愛の喜びを楽しむおまえたちを、
俺は、黄金の指環をはめた手で、
まとめてひっ捕らえてやるぞ!
俺が愛を断念したからには、
生きとし生けるものはすべて、
愛を断念してもらおう。
そして、おまえたち神々は、黄金の力に惑わされ、
ただひたすら、黄金を求めて喘ぐのだ。
心地よく楽しい天上の世界に住んで、
幸せな生活にひたりきっているおまえたちよ。」
まあ、だいたいそんな意味の歌だと思うんですが、
この歌のあとで、私にとっては、
もっと衝撃的な内容が歌われることになりますけど、
それはまた、後日、書くことにして、
今日は、上記の歌を話題にしてみたいと思います。
まずは、神々に対する羨望とねたみの心ですね。
神々の世界にはさわやかな風が吹き渡り、
そんな環境の中で、笑いさざめいて日々を送り、
愛の喜びを楽しむっていうんですから、それはもう、
アルベリヒが渇望しつつ、しかも、
得られない生活なんですよね。
それで私は、アルベリヒに限らず、
人は誰だって、そんな天上の世界のようなところで、
暮らしたいっていうのが、心からの願いだと思います。
まあ、それこそ、幸福そのものの世界ですよね。
「笑っていられる」環境なんて、
ほんと、恵まれてますよね。
今月24日のブログに、「笑い」という標題で、
人は、安心できる情況にいると、
自然と笑うことになるってことを書きましたけど、
「安心していられる」なんていうの、誰だって、
心から願うことだと思います。
しかも、「愛の喜びを楽しむ」なんてことなら、
もう、最高だと思いますね。
万人が、そういうのを望むんじゃないでしょうか?
そうなんですね、「安心して」いられて、しかも、
「愛の喜び」に満たされて生きるなんて、私は、
それ以上の幸福が思い浮かばないほどです。
アルベリヒが、
「幸せな生活にひたりきっているおまえたち」って、
そんなふうに感じられるのも当然だと思います。
でも、でも・・・アルベリヒには、
そういう生活が叶わないんですよね。
そして、ついに、「愛を断念」することになりますが、
アルベリヒは、その心の痛み、苦しみによって、
他人が「愛の喜び」を味わうのを見ることなんて、
耐えられない気持ちになったんでしょうね?
「俺が愛を断念したからには、
生きとし生けるものはすべて、
愛を断念してもらおう」って、
他人が「愛の喜び」を得ることを邪魔し、
世の中のすべての人から、
「愛の喜び」を奪ってしまおうって、
そういう気持ちになるわけですけど、それって、
全世界を不幸に陥れてやろうってことなんですよね。
(次回に続く)
4月14日にも使いまして、そのときは、
クライスラー作曲「愛の喜び」を話題にしましたが、
今日は、「愛の喜び」に関する別の話ですから、
標題を、「愛の喜び(2)」としました。
ワーグナー作曲「ラインの黄金」第3場で、
おおよそ、次のような意味の歌を、
アルベリヒが歌います。
「さわやかな風の吹く天上の世界にすむ神々よ、
笑いさざめき、愛の喜びを楽しむおまえたちを、
俺は、黄金の指環をはめた手で、
まとめてひっ捕らえてやるぞ!
俺が愛を断念したからには、
生きとし生けるものはすべて、
愛を断念してもらおう。
そして、おまえたち神々は、黄金の力に惑わされ、
ただひたすら、黄金を求めて喘ぐのだ。
心地よく楽しい天上の世界に住んで、
幸せな生活にひたりきっているおまえたちよ。」
まあ、だいたいそんな意味の歌だと思うんですが、
この歌のあとで、私にとっては、
もっと衝撃的な内容が歌われることになりますけど、
それはまた、後日、書くことにして、
今日は、上記の歌を話題にしてみたいと思います。
まずは、神々に対する羨望とねたみの心ですね。
神々の世界にはさわやかな風が吹き渡り、
そんな環境の中で、笑いさざめいて日々を送り、
愛の喜びを楽しむっていうんですから、それはもう、
アルベリヒが渇望しつつ、しかも、
得られない生活なんですよね。
それで私は、アルベリヒに限らず、
人は誰だって、そんな天上の世界のようなところで、
暮らしたいっていうのが、心からの願いだと思います。
まあ、それこそ、幸福そのものの世界ですよね。
「笑っていられる」環境なんて、
ほんと、恵まれてますよね。
今月24日のブログに、「笑い」という標題で、
人は、安心できる情況にいると、
自然と笑うことになるってことを書きましたけど、
「安心していられる」なんていうの、誰だって、
心から願うことだと思います。
しかも、「愛の喜びを楽しむ」なんてことなら、
もう、最高だと思いますね。
万人が、そういうのを望むんじゃないでしょうか?
そうなんですね、「安心して」いられて、しかも、
「愛の喜び」に満たされて生きるなんて、私は、
それ以上の幸福が思い浮かばないほどです。
アルベリヒが、
「幸せな生活にひたりきっているおまえたち」って、
そんなふうに感じられるのも当然だと思います。
でも、でも・・・アルベリヒには、
そういう生活が叶わないんですよね。
そして、ついに、「愛を断念」することになりますが、
アルベリヒは、その心の痛み、苦しみによって、
他人が「愛の喜び」を味わうのを見ることなんて、
耐えられない気持ちになったんでしょうね?
「俺が愛を断念したからには、
生きとし生けるものはすべて、
愛を断念してもらおう」って、
他人が「愛の喜び」を得ることを邪魔し、
世の中のすべての人から、
「愛の喜び」を奪ってしまおうって、
そういう気持ちになるわけですけど、それって、
全世界を不幸に陥れてやろうってことなんですよね。
(次回に続く)
心優しく温かく
04-25,2012
もし、自分に「無限の力」が与えられ、
どんなことでも思うようにできるとすれば、
何をします?
現実には、そんなことはありえませんけど、
もしそうだったら・・・って考えますと、
「無限の力」を使って、
誰かを苦しめ、痛めつけ、破壊して喜ぶでしょうか?
ああ、もし、そんなことを夢想するとしたら、
その人はほんとに不幸ですね。
でも、人が「親になる」と、
子どもに対しては「無限の力を持つ」存在になり、
子どもに対して絶対的権力を振るうことができます。
特に、子どもが乳幼児の時は、そうなんですよね。
その場合、子どもを愛し、保護し、
優しく温かい心で接する親がいる一方で、
子どもを虐待する親もまた、いるんですよね。
そして、幸せな親って、子どもを大切にしますよね。
また、そういう人は、自分の子どもに限らず、
世の中の人々に対しても、心優しく、温かく、
真心で接する傾向があるように思われますし、
そういうふうにできる人って、結局、
「自分が幸せ」な人なんだと、私は思います。
自分が幸せだからこそ、他の人に対しても、
良くしてあげることができるんだと思うんです。
反対に、心の中が不満や怒りでいっぱいだったなら、
他人に親切にするなんて、とても、できませんよね。
さらに、蓄積した怒りで怨恨が生じたりしたら、
他人をやっつけ、ひどいめにあわせてやりたい気持ち、
他人を破壊したり、不幸に落としてやりたい気持ちが、
どうしても、起こってくることが考えられますね。
そして、仮に、自分が「無限の力」を得たとしたら、
幸福な人は、その力を、
他人も幸せになれるようなことに使うと思いますが、
その反対に、怒りに燃え、怨恨を心に蔵している人は、
思いのままに他人を支配して自分の利益を求めたり、
復讐の思いを果たすために、
その力を使うかもしれませんね。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」ですが、
小人のアルベリヒは、
ニーベルング族を独裁支配するんですね。
では、どのようにしてアルベリヒは、
独裁支配できる力を手に入れたのか?
それは、アルベリヒの弟であるミーメが、
次のように歌うことで、理由がわかりますね。
「悪知恵をめぐらして、アルベリヒは作ったのだ。
ラインの黄金から、一つの金色の指環を。
その強い魔力に、我々は驚き、震え上がっている。
その指環で、彼は我々すべてを強制し、
ニーベルングの夜の軍勢を、
服従させているのだ。」
そうなんです、4月18日に書きましたように、
ラインの黄金から指環をつくった人間には、
無限の力が与えられるんですよね。
それで、アルベリヒが指環を作りましたから、
アルベリヒには「無限の力」が備わったわけです。
そこで、アルベリヒは、その無限の力を使って、
何をしようと考えたかっていうような話は、
また、次回に。
どんなことでも思うようにできるとすれば、
何をします?
現実には、そんなことはありえませんけど、
もしそうだったら・・・って考えますと、
「無限の力」を使って、
誰かを苦しめ、痛めつけ、破壊して喜ぶでしょうか?
ああ、もし、そんなことを夢想するとしたら、
その人はほんとに不幸ですね。
でも、人が「親になる」と、
子どもに対しては「無限の力を持つ」存在になり、
子どもに対して絶対的権力を振るうことができます。
特に、子どもが乳幼児の時は、そうなんですよね。
その場合、子どもを愛し、保護し、
優しく温かい心で接する親がいる一方で、
子どもを虐待する親もまた、いるんですよね。
そして、幸せな親って、子どもを大切にしますよね。
また、そういう人は、自分の子どもに限らず、
世の中の人々に対しても、心優しく、温かく、
真心で接する傾向があるように思われますし、
そういうふうにできる人って、結局、
「自分が幸せ」な人なんだと、私は思います。
自分が幸せだからこそ、他の人に対しても、
良くしてあげることができるんだと思うんです。
反対に、心の中が不満や怒りでいっぱいだったなら、
他人に親切にするなんて、とても、できませんよね。
さらに、蓄積した怒りで怨恨が生じたりしたら、
他人をやっつけ、ひどいめにあわせてやりたい気持ち、
他人を破壊したり、不幸に落としてやりたい気持ちが、
どうしても、起こってくることが考えられますね。
そして、仮に、自分が「無限の力」を得たとしたら、
幸福な人は、その力を、
他人も幸せになれるようなことに使うと思いますが、
その反対に、怒りに燃え、怨恨を心に蔵している人は、
思いのままに他人を支配して自分の利益を求めたり、
復讐の思いを果たすために、
その力を使うかもしれませんね。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」ですが、
小人のアルベリヒは、
ニーベルング族を独裁支配するんですね。
では、どのようにしてアルベリヒは、
独裁支配できる力を手に入れたのか?
それは、アルベリヒの弟であるミーメが、
次のように歌うことで、理由がわかりますね。
「悪知恵をめぐらして、アルベリヒは作ったのだ。
ラインの黄金から、一つの金色の指環を。
その強い魔力に、我々は驚き、震え上がっている。
その指環で、彼は我々すべてを強制し、
ニーベルングの夜の軍勢を、
服従させているのだ。」
そうなんです、4月18日に書きましたように、
ラインの黄金から指環をつくった人間には、
無限の力が与えられるんですよね。
それで、アルベリヒが指環を作りましたから、
アルベリヒには「無限の力」が備わったわけです。
そこで、アルベリヒは、その無限の力を使って、
何をしようと考えたかっていうような話は、
また、次回に。
笑い
04-24,2012
待合室に置いてあった雑誌をめくってましたら、
「笑い療法士」という文字が目にとまりました。
「エッ、そんな職業、あるんだ!」って、びっくり。
記事は斜め読みですけど、
なんでも、「安心を提供する」職業だとか・・・
そして、人は、安心できる情況にいると、
自然と笑うことになるって書いてありましたから、
「ああ、そうなんだ」って、納得しましたね。
「安心できる」、それで、「笑いもこぼれる」なんて、
そういうの、ほんとうに幸せなことですよね。
そして、「安心できる」っていう情況は、
非常に大切だし、ありがたいし、幸福の源だって、
私は、心の底から、ほんとにそう思いますね。
それで今日は、笑いがこぼれるのとは正反対で、
こういうのは不幸の極みだなあって思うことを、
ちょっと、書いてみたいと思います。
ワーグナー作曲「ラインの黄金」第3場ですけど、
アルベリヒは、弟のミーメに、隠れ頭巾なるものを、
金属の編み細工で作らせるんですね。
その「隠れ頭巾」ですけど、頭にかぶると、
かぶった人が「見えなくなってしまう」というもので、
さらにまた、その頭巾をかぶれば、
自分をどんな姿にでも変身させることができるって、
すごい力を持つ頭巾なんですよね。
それで、アルベリヒは、
弟のミーメにつくらせた隠れ頭巾をかぶって、
自分の姿が見えないようにしてから、鞭を振るって、
冶金の仕事に従事する弟をはじめとして、
冶金を業とするニーベルング族を強制的に働かせ、
自分の欲望と利益のために「宝物」を作らせます。
アルベリヒのやり方って、すごいというか、
汚いですね。
まずは、「自分の姿が他人から見えなくなる頭巾」を、
弟に作らせ、次に、その頭巾をかぶって姿を消し、
鞭を振るって、弟はじめ、同族の人々を打ちながら、
過酷な労働を強制するわけなんです。
その情況を、ミーメなど、働く人の側から見れば、
いつ、どこから、アルベリヒの鞭が飛んでくるか、
予想がつかないわけですよね。
・・・なにしろ、隠れ頭巾をかぶっているので、
過酷な支配者アルベリヒの姿なんか、
見えないわけですから。
またそのことを、アルベリヒの側から見てみますと、
他の人からは「自分の姿が見えない」わけですから、
相手に「不意打ち」を食らわすことが自由にできて、
すごく好都合なわけですよね。
何しろ、相手は、あらかじめ「対策を立てる」なんて、
できないわけですし、
自分は常に「安全な立場」に居て、無力な相手を、
「思う存分」痛めつけることができるわけですから。
ああぁ、すごいなあ、アルベリヒはずるいなあって、
ほんとに思いますね。
そういう情況で、支配され、痛めつけられる人は、
もう、不幸の極致ですよね。
でもねえ、虐待者のアルベリヒだって、
すごく不幸なんですよね。
でも、アルベリヒがなぜ不幸かという理由については、
また、別の機会に書くことにしまして、
今日書きたいのは、親というものは、
ミーメを痛めつけるアルベリヒと同じ程度に、
子どもに対しては、神に等しい絶対的な権威を保持し、
圧倒的で超強力なパワーを持っているっていうこと、
そして、その権威とパワーを悪用して、
子どもを虐待し続ける親がいるってことなんです。
「笑い療法士」という文字が目にとまりました。
「エッ、そんな職業、あるんだ!」って、びっくり。
記事は斜め読みですけど、
なんでも、「安心を提供する」職業だとか・・・
そして、人は、安心できる情況にいると、
自然と笑うことになるって書いてありましたから、
「ああ、そうなんだ」って、納得しましたね。
「安心できる」、それで、「笑いもこぼれる」なんて、
そういうの、ほんとうに幸せなことですよね。
そして、「安心できる」っていう情況は、
非常に大切だし、ありがたいし、幸福の源だって、
私は、心の底から、ほんとにそう思いますね。
それで今日は、笑いがこぼれるのとは正反対で、
こういうのは不幸の極みだなあって思うことを、
ちょっと、書いてみたいと思います。
ワーグナー作曲「ラインの黄金」第3場ですけど、
アルベリヒは、弟のミーメに、隠れ頭巾なるものを、
金属の編み細工で作らせるんですね。
その「隠れ頭巾」ですけど、頭にかぶると、
かぶった人が「見えなくなってしまう」というもので、
さらにまた、その頭巾をかぶれば、
自分をどんな姿にでも変身させることができるって、
すごい力を持つ頭巾なんですよね。
それで、アルベリヒは、
弟のミーメにつくらせた隠れ頭巾をかぶって、
自分の姿が見えないようにしてから、鞭を振るって、
冶金の仕事に従事する弟をはじめとして、
冶金を業とするニーベルング族を強制的に働かせ、
自分の欲望と利益のために「宝物」を作らせます。
アルベリヒのやり方って、すごいというか、
汚いですね。
まずは、「自分の姿が他人から見えなくなる頭巾」を、
弟に作らせ、次に、その頭巾をかぶって姿を消し、
鞭を振るって、弟はじめ、同族の人々を打ちながら、
過酷な労働を強制するわけなんです。
その情況を、ミーメなど、働く人の側から見れば、
いつ、どこから、アルベリヒの鞭が飛んでくるか、
予想がつかないわけですよね。
・・・なにしろ、隠れ頭巾をかぶっているので、
過酷な支配者アルベリヒの姿なんか、
見えないわけですから。
またそのことを、アルベリヒの側から見てみますと、
他の人からは「自分の姿が見えない」わけですから、
相手に「不意打ち」を食らわすことが自由にできて、
すごく好都合なわけですよね。
何しろ、相手は、あらかじめ「対策を立てる」なんて、
できないわけですし、
自分は常に「安全な立場」に居て、無力な相手を、
「思う存分」痛めつけることができるわけですから。
ああぁ、すごいなあ、アルベリヒはずるいなあって、
ほんとに思いますね。
そういう情況で、支配され、痛めつけられる人は、
もう、不幸の極致ですよね。
でもねえ、虐待者のアルベリヒだって、
すごく不幸なんですよね。
でも、アルベリヒがなぜ不幸かという理由については、
また、別の機会に書くことにしまして、
今日書きたいのは、親というものは、
ミーメを痛めつけるアルベリヒと同じ程度に、
子どもに対しては、神に等しい絶対的な権威を保持し、
圧倒的で超強力なパワーを持っているっていうこと、
そして、その権威とパワーを悪用して、
子どもを虐待し続ける親がいるってことなんです。
もてなす喜び
04-23,2012
http://www.youtube.com/watch?v=NM9XwZqps2o
いきなりですが、上記は、
昔のテレビコマーシャルで、
インターネットで見つけましたので掲載しました。
若いママと女の子が踊りながら歌います。
「つくってあげよう、シャンメン for you.」
それで、若いママと女の子が自分を指差しながら、
「私、つくる人。」と言います。
次に、画面は若いパパに切り替わり、彼は言います。
「僕、食べる人。」
最後は、コマーシャルの歌で終わるんですけど、
映像は、3人そろって、
ハウス・シャンメン・しょう油味を食べてる映像で、
その場面に流れる歌は、次のようです。
「香りおいしい、ハウス・シャンメン・しょう油味。」
すごく好感が持てるCMだと思いました。
そして、「つくってあげる」っていうことは、
つくる人の側の喜びなんですよね、心理的に。
あの、突然、茶の湯の話になりますけど、
茶の湯というのは、
お客さまをおもてなししたい気持ちで、
お客さまに「喜んでいただきたい」っていう、
ただただ、そういう気持ちで行うものなんですよね。
同じように、そのテレビCMも、
おいしいのを「つくってあげる喜び」っていうのが、
とっても感じられるCMだと思いました。
なぜそのテレビCMを話題にしたかといいますと、
そのCM、「性差別だ」みたいな批判を受けて、
放送が中止されたという事実があったそうで、
私としては、どこが「性差別」なのか、ちょっと、
理解できないので、その話題を取り上げてみました。
相手から収奪するとか、相手から搾取するなら、
それは、当然、いけませんね。
でも・・・でも、相手に、
「おいしいのをつくってあげる」って気持ちは、
別に、何も問題が無いし、良いことじゃないかって、
私は思いますけどね。
まあ、とにかく、「相手に喜んでもらいたい」気持ち、
それは、幸せの源泉だと思います。
しかし、確かに、世の中には、
相手から収奪する、搾取する、強制労働させるなど、
ひどいことはいっぱいありましたし、また、
現実にあるでしょうね。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」から、
第3場で歌うアルベリヒの歌ですけど、次のようです。
「ニーベルング族はこぞって、
アルベリヒ様に拝謁だ。
これからは神出鬼没、
お前たちの仕事を見張るから、
休みも憩いも返上し、
俺が命じたとおり、しっかと働くのだ。
俺の姿が見えずとも、
鞭は飛ぶから覚悟しろ。
死ぬまで俺に仕えるのだ。」
そのアルベリヒというのは、
ニーベルハイムという地底の世界に住む、
ニーベルング族なんですけど、彼には、
ミーメという弟がいます。
さて、アルベリヒはニーベルング族の支配者となり、
弟のミーメをはじめとして、
一族をひどい目にあわせているんですけど、
その話はまた次回に。
いきなりですが、上記は、
昔のテレビコマーシャルで、
インターネットで見つけましたので掲載しました。
若いママと女の子が踊りながら歌います。
「つくってあげよう、シャンメン for you.」
それで、若いママと女の子が自分を指差しながら、
「私、つくる人。」と言います。
次に、画面は若いパパに切り替わり、彼は言います。
「僕、食べる人。」
最後は、コマーシャルの歌で終わるんですけど、
映像は、3人そろって、
ハウス・シャンメン・しょう油味を食べてる映像で、
その場面に流れる歌は、次のようです。
「香りおいしい、ハウス・シャンメン・しょう油味。」
すごく好感が持てるCMだと思いました。
そして、「つくってあげる」っていうことは、
つくる人の側の喜びなんですよね、心理的に。
あの、突然、茶の湯の話になりますけど、
茶の湯というのは、
お客さまをおもてなししたい気持ちで、
お客さまに「喜んでいただきたい」っていう、
ただただ、そういう気持ちで行うものなんですよね。
同じように、そのテレビCMも、
おいしいのを「つくってあげる喜び」っていうのが、
とっても感じられるCMだと思いました。
なぜそのテレビCMを話題にしたかといいますと、
そのCM、「性差別だ」みたいな批判を受けて、
放送が中止されたという事実があったそうで、
私としては、どこが「性差別」なのか、ちょっと、
理解できないので、その話題を取り上げてみました。
相手から収奪するとか、相手から搾取するなら、
それは、当然、いけませんね。
でも・・・でも、相手に、
「おいしいのをつくってあげる」って気持ちは、
別に、何も問題が無いし、良いことじゃないかって、
私は思いますけどね。
まあ、とにかく、「相手に喜んでもらいたい」気持ち、
それは、幸せの源泉だと思います。
しかし、確かに、世の中には、
相手から収奪する、搾取する、強制労働させるなど、
ひどいことはいっぱいありましたし、また、
現実にあるでしょうね。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」から、
第3場で歌うアルベリヒの歌ですけど、次のようです。
「ニーベルング族はこぞって、
アルベリヒ様に拝謁だ。
これからは神出鬼没、
お前たちの仕事を見張るから、
休みも憩いも返上し、
俺が命じたとおり、しっかと働くのだ。
俺の姿が見えずとも、
鞭は飛ぶから覚悟しろ。
死ぬまで俺に仕えるのだ。」
そのアルベリヒというのは、
ニーベルハイムという地底の世界に住む、
ニーベルング族なんですけど、彼には、
ミーメという弟がいます。
さて、アルベリヒはニーベルング族の支配者となり、
弟のミーメをはじめとして、
一族をひどい目にあわせているんですけど、
その話はまた次回に。
好意と愛
04-22,2012
ちょっとした「思いがけないこと」って、
あるものですね。
春は園芸作業が忙しくなりますけど、
作業を終えて履物を脱ごうとしましたら、
ハルジオンの花がくっついていましたので、
写真を掲載しました。
意外でした。
ハルジオンの花なんて、
作業中にちっとも見かけませんでしたし、
咲いていることなど、全く知りませんでしたから。
さて、今日は、昨日に続いて、
ワーグナー作曲「ラインの黄金」から、
アルベリヒの歌なんですけど、
今日は、「俺は、愛を呪うのだ。」って歌う部分です。
すごいですね、「愛を呪う」んですから!
それで思うんですけど、実は、
子どもを虐待する親って、「愛を呪う」親なんですね。
そして、「愛を呪う」ような人って、
子どもを虐待する親に限らず、実は、
この現実の世の中に、いっぱいいるんですよね。
でも、「愛を呪っている人」は、
自分がそういうふうだって、全く気付いていないのが、
普通のことだと思いますし、ほぼ断言できますね、
自分では全く「自覚してない」だろうってことを。
アルベリヒの場合は、
「俺は、愛を呪うのだ。」って歌っていますから、
自分の気持ちをはっきりと自覚してますね。
でも、一番困る・・・というか、問題なのは、
無意識のうちに愛を呪いながら、
そういう自分が自覚できていない人だと思います。
それで、愛を呪うようになった原因なんですけど、
たぶん、
「愛を得ることができなかった」という、
すごい悲哀だとか、心の痛みなのではないかって、
まあ、想像なんですけど、思いますね。
それで、他の人に好意を持てない、愛せないって、
そういうことになりますと、
「好意を持つことができない人」、
「愛することができない人」自身が不幸ですけど、
それだけにとどまらず、
そういう人とかかわりを持つ相手の人をも、
不幸にしてしまうってことがあると思います。
たとえば、子を持つ親が、
好意や愛を持つことができない人だった場合、
当然、子どもに対して、
好意や愛を示すことはできませんよね。
そうすると、子どもは、
「好意や愛を得ることができない」世界しか、
体験せずに育つことになる可能性が高いと思います。
そして、そのことは、非常に重要な問題であって、
「好意や愛が得られない」人間は、
アルベリヒと同じように、
「愛を呪う」ような人間になるというのは、
自然の成り行きなんですね、たぶん。
他の人に対する好意、
他の人に対する愛、
ほんと、それこそが、
世の中で最も大切なものなのかも知れません。
あるものですね。
春は園芸作業が忙しくなりますけど、
作業を終えて履物を脱ごうとしましたら、
ハルジオンの花がくっついていましたので、
写真を掲載しました。
意外でした。
ハルジオンの花なんて、
作業中にちっとも見かけませんでしたし、
咲いていることなど、全く知りませんでしたから。
さて、今日は、昨日に続いて、
ワーグナー作曲「ラインの黄金」から、
アルベリヒの歌なんですけど、
今日は、「俺は、愛を呪うのだ。」って歌う部分です。
すごいですね、「愛を呪う」んですから!
それで思うんですけど、実は、
子どもを虐待する親って、「愛を呪う」親なんですね。
そして、「愛を呪う」ような人って、
子どもを虐待する親に限らず、実は、
この現実の世の中に、いっぱいいるんですよね。
でも、「愛を呪っている人」は、
自分がそういうふうだって、全く気付いていないのが、
普通のことだと思いますし、ほぼ断言できますね、
自分では全く「自覚してない」だろうってことを。
アルベリヒの場合は、
「俺は、愛を呪うのだ。」って歌っていますから、
自分の気持ちをはっきりと自覚してますね。
でも、一番困る・・・というか、問題なのは、
無意識のうちに愛を呪いながら、
そういう自分が自覚できていない人だと思います。
それで、愛を呪うようになった原因なんですけど、
たぶん、
「愛を得ることができなかった」という、
すごい悲哀だとか、心の痛みなのではないかって、
まあ、想像なんですけど、思いますね。
それで、他の人に好意を持てない、愛せないって、
そういうことになりますと、
「好意を持つことができない人」、
「愛することができない人」自身が不幸ですけど、
それだけにとどまらず、
そういう人とかかわりを持つ相手の人をも、
不幸にしてしまうってことがあると思います。
たとえば、子を持つ親が、
好意や愛を持つことができない人だった場合、
当然、子どもに対して、
好意や愛を示すことはできませんよね。
そうすると、子どもは、
「好意や愛を得ることができない」世界しか、
体験せずに育つことになる可能性が高いと思います。
そして、そのことは、非常に重要な問題であって、
「好意や愛が得られない」人間は、
アルベリヒと同じように、
「愛を呪う」ような人間になるというのは、
自然の成り行きなんですね、たぶん。
他の人に対する好意、
他の人に対する愛、
ほんと、それこそが、
世の中で最も大切なものなのかも知れません。
心優しく温かく
04-21,2012
ワーグナー作曲「ラインの黄金」ですが、
前回書いたアルベリヒの歌で、
「復讐の指環を鍛え上げるぞ。」っていうところ、
もう、すごいっていうか、何というか。
・・・でも、「復讐」への思いっていうのは、
やっぱり、人間にとって、超、超、超強力なもので、
人は、たとえ自分を滅ぼそうとも、
復讐せずにはおかないって、それくらいものすごく、
復讐への思いを抱くものなんですよね。
・・・っていうことは、つまり、それほどまでに、
「ひどい目にあわされた痛み」っていうのが、
強烈だったということなんじゃないかと思います。
生きている「生命体」・・・それが、
残酷に痛めつけられるっていうのは、それはもう、
生命体にとっては、
「言葉にすることもできない、ものすごい」、
・・・そこまで書いて次の言葉を失ってしまうほど、
激甚なものなんですよね、激痛が!
(もちろん、心理的な激痛のことも言ってます。)
今、自分が、存在そのものを危うくされる緊急事態、
そういう緊急事態にあっては、言語で表現するとか、
理知的に考えるなんてできない情況が出現していて、
もう・・・すごいんですよね。
それで、復讐の思いって、なぜそんなに強いのか、
私はわかりませんけど、でも、人間の歴史をみると、
「復讐」って、「自分の身を滅ぼしてまで」、
成し遂げずにはおかないものなんですよね。
もちろん、そういうのって、不幸な状態なんですね。
でも、たとえ自分がどんなに不幸に落ちようとも、
「復讐しないではいられない」気持ちになるのも、
人間なんだと思わざるをえません。
それくらい、激しい痛みだったということですよね。
他人をひどい目にあわせるって、だから、
ほんとに良くないことなんですよね。
ひどい目にあわせられた相手の人は、
その人が自ら重大な損害をこうむろうとも、
し返しをしないではおかないっていう気にもなるし、
そうなると、相手をひどい目にあわせた人だって、
恨みを買っているわけですから、
いつ復讐されるかわからない不気味さがあるなど、
安心して日々を送ることなんか、できませんよね。
こうして、相手をひどい目にあわせることは、
やがて、自分も不幸になることにつながりますから、
やっぱり、「人を痛めつける」なんてことは、
しないことですね。
でも、でも、他人を「ひどい目にあわたい」って、
そういう気持ちが起こってきた原因を想像しますと、
自分が「ひどい目にあわされた」っていう、
復讐の気持ちからかも知れませんね。
そして、自分がひどい目にあわされた相手に、
直接復讐ができない場合、人は、
全く自分と無関係な人に対して、
復讐の攻撃をかけることって、あるんですよね。
確かに、そういうの、理屈に合いませんね。
でも、人って、「復讐への思い」を遂げるためには、
まさに「相手を選ばず」に、
自分に何も悪いことをしてない人に対してさえ、
残虐な行為をしてしまうってこと、あるものです。
ねえ、ねえ、どうして、どうして、なぜ、なぜ、
・・・って、思ってしまいますけど、
どうして、相手に親切にできないの?
どうして、相手に良くしてあげられないの?
どうして、相手を痛めつけずにはいられないの?
私には、その理由なんてわかりませんけど、
次のことだけはわかります。
それは、相手に親切にしてあけることができる人、
良くしてあげることができる人、
心優しく、心温かくいられる人って、
もう、それだけで、「幸福な人」なんだって。
前回書いたアルベリヒの歌で、
「復讐の指環を鍛え上げるぞ。」っていうところ、
もう、すごいっていうか、何というか。
・・・でも、「復讐」への思いっていうのは、
やっぱり、人間にとって、超、超、超強力なもので、
人は、たとえ自分を滅ぼそうとも、
復讐せずにはおかないって、それくらいものすごく、
復讐への思いを抱くものなんですよね。
・・・っていうことは、つまり、それほどまでに、
「ひどい目にあわされた痛み」っていうのが、
強烈だったということなんじゃないかと思います。
生きている「生命体」・・・それが、
残酷に痛めつけられるっていうのは、それはもう、
生命体にとっては、
「言葉にすることもできない、ものすごい」、
・・・そこまで書いて次の言葉を失ってしまうほど、
激甚なものなんですよね、激痛が!
(もちろん、心理的な激痛のことも言ってます。)
今、自分が、存在そのものを危うくされる緊急事態、
そういう緊急事態にあっては、言語で表現するとか、
理知的に考えるなんてできない情況が出現していて、
もう・・・すごいんですよね。
それで、復讐の思いって、なぜそんなに強いのか、
私はわかりませんけど、でも、人間の歴史をみると、
「復讐」って、「自分の身を滅ぼしてまで」、
成し遂げずにはおかないものなんですよね。
もちろん、そういうのって、不幸な状態なんですね。
でも、たとえ自分がどんなに不幸に落ちようとも、
「復讐しないではいられない」気持ちになるのも、
人間なんだと思わざるをえません。
それくらい、激しい痛みだったということですよね。
他人をひどい目にあわせるって、だから、
ほんとに良くないことなんですよね。
ひどい目にあわせられた相手の人は、
その人が自ら重大な損害をこうむろうとも、
し返しをしないではおかないっていう気にもなるし、
そうなると、相手をひどい目にあわせた人だって、
恨みを買っているわけですから、
いつ復讐されるかわからない不気味さがあるなど、
安心して日々を送ることなんか、できませんよね。
こうして、相手をひどい目にあわせることは、
やがて、自分も不幸になることにつながりますから、
やっぱり、「人を痛めつける」なんてことは、
しないことですね。
でも、でも、他人を「ひどい目にあわたい」って、
そういう気持ちが起こってきた原因を想像しますと、
自分が「ひどい目にあわされた」っていう、
復讐の気持ちからかも知れませんね。
そして、自分がひどい目にあわされた相手に、
直接復讐ができない場合、人は、
全く自分と無関係な人に対して、
復讐の攻撃をかけることって、あるんですよね。
確かに、そういうの、理屈に合いませんね。
でも、人って、「復讐への思い」を遂げるためには、
まさに「相手を選ばず」に、
自分に何も悪いことをしてない人に対してさえ、
残虐な行為をしてしまうってこと、あるものです。
ねえ、ねえ、どうして、どうして、なぜ、なぜ、
・・・って、思ってしまいますけど、
どうして、相手に親切にできないの?
どうして、相手に良くしてあげられないの?
どうして、相手を痛めつけずにはいられないの?
私には、その理由なんてわかりませんけど、
次のことだけはわかります。
それは、相手に親切にしてあけることができる人、
良くしてあげることができる人、
心優しく、心温かくいられる人って、
もう、それだけで、「幸福な人」なんだって。
相手を大切に(2)
04-20,2012
いよいよ今日は、ワーグナー作曲「ラインの黄金」で、
アルベリヒが「愛を断念する」話なんですけど、
「相手を大切に」っていう標題は、
以前にも使ったことがありますから、
今日の標題を、「相手を大切に(2)」としました。
それで、アルベリヒなんですが、
ラインの娘たちに対して、こんなふうに歌います。
「おまえたちの光を消してやるぞ。」
そう言って、アルベリヒは、光り輝く黄金を、
ものすごい力で岩礁からもぎ取ってしまいますが、
アルベリヒは、次のように歌うんですね。
「この岩礁から黄金を奪い、
復讐の指環を鍛え上げるぞ。
河の流れも聞け、
こうして、俺は、愛を呪うのだ。」
・・・いやはや、すごいことになってしまいました。
アルベリヒが、
「おまえたちの光を消してやるぞ」っていうところ、
ラインの娘たちに対する怨念が込められてますね。
実は、アルベリヒは、ラインの娘たちに対して、
何も悪いことはしてないと思うんですね。
もし、悪いことをしたとすれば、それは、
アルベリヒが「醜くかった」こと、
そして、ラインの娘たちを好きになったこと、
それだけですよね。
そして、仮に、アルベリヒに罪があったとしても、
それは、「醜さ」によって、ラインの娘たちに、
喜びを与えなかった罪とでも言いましょうかね?
・・・ええ、もちろん、自分の姿が醜いことって、
相手に対する罪なんかじゃありませんよね、当然。
ですから、アルベリヒに悪い点はないんですけど、
彼は、ラインの娘たちから馬鹿にされ、
笑いものにされ、心を傷つけられたんですよね。
あぁ、その怒りですよね、きっと。
そこから、ラインの娘たちに対する怨念だって、
生まれたんだと想像します。
人は誰でも、好意をもらいたいし、
愛されたいですよね。
ですから、相手を軽んじ、侮蔑し、傷つけるなんて、
しちゃいけないし、また、そういうことをすると、
自分もまた、不幸になっちゃうんですよね。
それで、幸福が生まれる条件って、やっぱり、
相手を大切にすることだし、
相手の価値を認めることだし、
相手に喜んでもらおうとすることだって、
ほんとに思いますね。
それで、この続きは、また次回に。
アルベリヒが「愛を断念する」話なんですけど、
「相手を大切に」っていう標題は、
以前にも使ったことがありますから、
今日の標題を、「相手を大切に(2)」としました。
それで、アルベリヒなんですが、
ラインの娘たちに対して、こんなふうに歌います。
「おまえたちの光を消してやるぞ。」
そう言って、アルベリヒは、光り輝く黄金を、
ものすごい力で岩礁からもぎ取ってしまいますが、
アルベリヒは、次のように歌うんですね。
「この岩礁から黄金を奪い、
復讐の指環を鍛え上げるぞ。
河の流れも聞け、
こうして、俺は、愛を呪うのだ。」
・・・いやはや、すごいことになってしまいました。
アルベリヒが、
「おまえたちの光を消してやるぞ」っていうところ、
ラインの娘たちに対する怨念が込められてますね。
実は、アルベリヒは、ラインの娘たちに対して、
何も悪いことはしてないと思うんですね。
もし、悪いことをしたとすれば、それは、
アルベリヒが「醜くかった」こと、
そして、ラインの娘たちを好きになったこと、
それだけですよね。
そして、仮に、アルベリヒに罪があったとしても、
それは、「醜さ」によって、ラインの娘たちに、
喜びを与えなかった罪とでも言いましょうかね?
・・・ええ、もちろん、自分の姿が醜いことって、
相手に対する罪なんかじゃありませんよね、当然。
ですから、アルベリヒに悪い点はないんですけど、
彼は、ラインの娘たちから馬鹿にされ、
笑いものにされ、心を傷つけられたんですよね。
あぁ、その怒りですよね、きっと。
そこから、ラインの娘たちに対する怨念だって、
生まれたんだと想像します。
人は誰でも、好意をもらいたいし、
愛されたいですよね。
ですから、相手を軽んじ、侮蔑し、傷つけるなんて、
しちゃいけないし、また、そういうことをすると、
自分もまた、不幸になっちゃうんですよね。
それで、幸福が生まれる条件って、やっぱり、
相手を大切にすることだし、
相手の価値を認めることだし、
相手に喜んでもらおうとすることだって、
ほんとに思いますね。
それで、この続きは、また次回に。
夢のあとに
04-19,2012
ガブリエル・フォーレの歌曲「夢のあとに」ですが、
その詞の中に、次のような部分がありますね。
「あなたの瞳は優しく、あなたの声は澄んで響き、
あなたは光り輝いていた。」
しかしまあ、曲がすばらしいわけで、
詞が評価されてるわけではないでしょうけど、
この詞、現実の女性について言ってるわけではなく、
夢に見た女性についての歌だっていうことで、
そういう点は、何か、寂しい感じがする私でした。
そんな話をしましたのは、
ワーグナー作曲「ラインの黄金」で、
登場人物のアルベリヒが「愛を断念する」って、
そういう場面があるからなんですけど、
たとえ、現実には大好きな女性がいないとしても、
はかない夢の中にさえ愛を追い求めてしまうなんて、
そういうのが人間というものですから、
やっぱ、「愛の断念」なんていうことは、
尋常なことじゃないっていうか、
「よほどのこと」なんですよね、人にとっては。
ああ、それにしても、「すばらしい女性」が、
「夢の中」にしかいなくって、
夢が覚めてしまったあとでは、
寂寞とした寂寥感だけが残る・・・なんて、
う~ン、フォーレの曲はすばらしいんですけどねェ。
それで、「ラインの黄金」のアルベリヒは、
寂寥感に浸るようなタイプではなく、
獲得できなかった「愛」の代わりに、
別のものを求めようとするわけですが、
その話はまた次回ということにしまして、
今日書きたかったことは、
やっぱり、男性であれば「大好きな女性」が、
女性であれば「大好きな男性」が現実にいて、
この「現実の中で」、
大好きって気持ちが発揮できて、
うれしく、喜ばしく生きることができるのって、
それはもう、ほんとに幸せなことだと思います。
その詞の中に、次のような部分がありますね。
「あなたの瞳は優しく、あなたの声は澄んで響き、
あなたは光り輝いていた。」
しかしまあ、曲がすばらしいわけで、
詞が評価されてるわけではないでしょうけど、
この詞、現実の女性について言ってるわけではなく、
夢に見た女性についての歌だっていうことで、
そういう点は、何か、寂しい感じがする私でした。
そんな話をしましたのは、
ワーグナー作曲「ラインの黄金」で、
登場人物のアルベリヒが「愛を断念する」って、
そういう場面があるからなんですけど、
たとえ、現実には大好きな女性がいないとしても、
はかない夢の中にさえ愛を追い求めてしまうなんて、
そういうのが人間というものですから、
やっぱ、「愛の断念」なんていうことは、
尋常なことじゃないっていうか、
「よほどのこと」なんですよね、人にとっては。
ああ、それにしても、「すばらしい女性」が、
「夢の中」にしかいなくって、
夢が覚めてしまったあとでは、
寂寞とした寂寥感だけが残る・・・なんて、
う~ン、フォーレの曲はすばらしいんですけどねェ。
それで、「ラインの黄金」のアルベリヒは、
寂寥感に浸るようなタイプではなく、
獲得できなかった「愛」の代わりに、
別のものを求めようとするわけですが、
その話はまた次回ということにしまして、
今日書きたかったことは、
やっぱり、男性であれば「大好きな女性」が、
女性であれば「大好きな男性」が現実にいて、
この「現実の中で」、
大好きって気持ちが発揮できて、
うれしく、喜ばしく生きることができるのって、
それはもう、ほんとに幸せなことだと思います。
まことの愛
04-18,2012
「まことの愛」は、何より一番っていうのが、
今日の話です。
そして、それこそ、幸福の源泉だって、ほんとに、
私は思います。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」ですが、
醜い小人のアルベリヒは、ラインの娘たちから、
馬鹿にされ、さんざんな目にあわされてしまいます。
そのアルベリヒは、ラインの娘たちの歌を聞いて、
ラインの黄金から指環をつくった人間には、
無限の力が与えられるってことを知るんですね。
そこで、アルベリヒは歌います。
「こいつを手に入れれば、俺は世界の覇者だって!
そうなりや、まことの愛とは無縁でも、
快楽をものにする手はあるわけだ。」
・・・ああぁ、その一句、すごいと思います。
ワーグナーって、よくそういう台本、書けましたね。
ほんとに、人は、真実、「まことの愛」を希求する、
そうなんです、そうなんです、醜い小人だって、
姿かたちが醜悪怪奇、あるいは病気や身体障害等、
いろんな不都合がある人間だったとしても、人は皆、
「まことの愛」を希求するものなんですよね。
それで、この続きはまた、次回に書くことにします。
今日の話です。
そして、それこそ、幸福の源泉だって、ほんとに、
私は思います。
それで、ワーグナー作曲「ラインの黄金」ですが、
醜い小人のアルベリヒは、ラインの娘たちから、
馬鹿にされ、さんざんな目にあわされてしまいます。
そのアルベリヒは、ラインの娘たちの歌を聞いて、
ラインの黄金から指環をつくった人間には、
無限の力が与えられるってことを知るんですね。
そこで、アルベリヒは歌います。
「こいつを手に入れれば、俺は世界の覇者だって!
そうなりや、まことの愛とは無縁でも、
快楽をものにする手はあるわけだ。」
・・・ああぁ、その一句、すごいと思います。
ワーグナーって、よくそういう台本、書けましたね。
ほんとに、人は、真実、「まことの愛」を希求する、
そうなんです、そうなんです、醜い小人だって、
姿かたちが醜悪怪奇、あるいは病気や身体障害等、
いろんな不都合がある人間だったとしても、人は皆、
「まことの愛」を希求するものなんですよね。
それで、この続きはまた、次回に書くことにします。




























