夜来香と何日君再来

03-30,2017

2017_春(17)
今日の標題を
「夜来香と何日君再来」としましたが、
あの、両方とも、
第二次大戦中の歌だと思います。

・・・時代的に、私とはかけ離れた歌で、
でも、でも、何でしょう、
その歌を聴きますと、心がうれしくて、うれしくて、
懐かしくて懐かしくて・・・って言いましても、
「懐かしい」はずなんて、無いんですよね、
なぜなら、その時代に生きてなかった私ですから。

また、それらの歌ですけど、社会的にも、
当時の世の中、まあ、中国ですけどね、
ずいぶんもてはやされた歌なのかと思いますけど、
でも、そういうこととは全く関係なく、
つまり、歌の時代背景とか社会の様相とは、
無関係にですね、私はその歌が大好きです。

あの、それで、ちょっとしたことで、今日、私は、
大好きだったその曲を、また聞いたんですけど、
・・・良かったです、とても。

それで、「私はどうして、こんなにも、
これらの曲が好きなのか?」・・・って、
今日もまた、思ったことでしたが、以前からですね、
夜来香や何日君再来を、
私はどうしてこんなに好きなんだろうと、
自分のことながら不思議に思っていたことでして、
それで、今日はこんなことを書いてみました・・・が、
あの、別に、理由を「追求する」という気持ちでなく、
「とにかく好きだなあ」って気持ちを、
歌を聞いて再体験したってことの感動でした。


すごく良かったです、それらの歌を聞きまして・・・

心にかなう

03-29,2017

2017_春(16)
昨日は行事がありまして、
早朝から行動してましたので、
ブログを書くことができませんでしたけど、
まあ、良い日で幸せでした。

もちろん、行事そのものも良くできたんですけど、
多少の会話とか、ちょっとした交流とか、
そんな程度でも、人との出会いがまた、幸せでした。

そして今日もまた、日常の一つ一つのことが、
「心にかなう」ということの喜びで生きられる、
そのことに感謝です。


日々に日々に、幸せを享受して生きる、それで充分に。

忖度と過剰適応

03-27,2017

2017_春(15)
今、いわゆる森友学園関連の問題は、
社会的に大きな関心がもたれていると思うんですが、
テレビなどにたびたび登場した言葉に、
「忖度」があります。

まあ、森友学園の問題では、
官僚の忖度について言われてますけど、
別に民間企業の社員だって、一般社会の人だって、
「忖度」なんて、世の中、どこにでも見られるし、
私の考えでは、子ども、それも幼児だって、
忖度ということはあると思いまして、ただ、
子どもの場合は、「忖度」という言葉が使われずに、
たとえば親の「顔色をうかがう」とか、
そんな表現になることが多いですね、世間一般に。

でも、結局、相手の顔色を見るというのは、実質、
「忖度」と同じ心理なんですよね。

そして、親の顔色をうかがう子どもって、
多くの場合、親に対する過剰適応が起こりやすく、
そうなりますと、
子どもの不幸は底知れずになると思いますけど、
この問題、続けてまた後日、書ければと思います。

さて、明日は、朝から一日中、
出かける用事がありますから、
ブログを書く余裕がないと思いますので、
お休みということにさせていただく可能性が大です。


あのう、忖度なんて必要ない人間関係が幸福ですね。

好きだからこそ

03-26,2017

2017_春(14)
昨日の Yahoo トップページに、
「パン屋『郷土愛不足』で和菓子屋に
 道徳の教科書検定」という見出しの記事があって、
生きにくい世の中になってものだと思いました。

あのう、実は私、
パンが「食べられない」というのは言い過ぎですけど、
好きになれませんで、食事はもう、ご飯が主で、
そのほか、麺も食べます。

それから、ケーキは「食べなくてもいい」人間で、
その代わり、和菓子については、
茶の湯との関係もありますけど、好きですね。

さらに、日々に日々に、
長唄、清元などで踊りを稽古してますから、
それに伴って、和楽器も好きなんです。

それで、上記の記事なんですけど、
一部分だけを抜き出して、以下、紹介します。
__________

道徳教科書でついた主な検定意見と修正例

初めての小学校道徳の教科書検定が終わり、
8社の24点66冊が出そろった。

▽「にちようびのさんぽみち」という教材で
登場する「パン屋」を「和菓子屋」に(同、小1)

▽「大すき、わたしたちの町」と題して
町を探検する話題で、
アスレチックの遊具で遊ぶ公園を、
和楽器を売る店に差し替え(学研教育みらい、小1)

いずれも文科省が、道徳教科書の検定で
「学習指導要領の示す内容に照らして、
扱いが不適切」と指摘し、出版社が改めた例だ。
__________

あのう、私は日本文化が大好きです。
だからこそ、教科書で、
「パン屋」が「和菓子屋」に変更されたり、
「公園」が「和楽器を売る店」に替えられたことは、
とっても残念です。

・・・なぜなら、私の「大好きなもの」が、
人々に「強制される」ことを嫌うからです。

その、私が大好きなものについては、
他の人々もですね、
「自発的に」好きになってもらえましたら、
それこそうれしいわけでして、決して決して、
強制的にですね、あるいは、
「ねばならぬ」の気持ちで、本心に反して、
「好きなフリ」なんかして欲しくないわけです。

それに、「他律的に」行われることは、心の深部では、
自覚しなくてもですね、反発や嫌悪が発生すると、
私は思うからです。

私たちが住むこの社会は、個人が尊重され、
人それぞれが「自立的である」ことを、
良しとするような社会であって欲しいと念願します。

なお、今日の添付写真ですが、
生菓子に椿を添えてみました。


心から「好き」なら、言葉でも「好き」と言える幸せ。

完璧主義を離れる

03-25,2017

2017_春(13)
今の社会、私から見ますと、どうもね、
「完璧にできること」が重視されすぎてるって、
いやあ、ほんとにそう感じるんですけど、それは、
昨日までのブログに、「完璧を目指さない」こととか、
「余裕がある」ってことを書いてきたからでして、
「完璧に行うこと」を求められる世の中というのは、
何ときつく、生きにくいことだろうと思いました。

ところで、他の人から親切にされるとか、
良くしてもらえるってことは、
自分自身が「完璧であるかどうか」とは、
全く関わりないことであって、私の感想ですけど、
「完璧にできないと許さない」という完璧主義者は、
たぶん、他の人に親切にしたり、
他の人に良くしようって気持ちには、
なれないんじゃないか・・・って思ったことでした。

なぜなら、「相手が完璧でなければ」許せないからで、
それは、「自分自身にも完璧を求める」ってことで、
そういう人は、自分が完璧にものごとができない時は、
たぶん、自分自身にも不満なんじゃないかと、
想像したことでした。

それで私は、「親切を受ける」ことが心地よいし、
他の人から良くしてもらえたらうれしいのですから、
自分もまた、他の人に親切に・・・とか、
他の人に良くするようにって考えちゃいますね。

そうしますと、心の中に完璧主義がありますと、
「完璧でない」他人は許せないし、それは同時に、
「完璧でない」自分も許せないってことですから、
結局、「完璧さ」にとらわれる心を手放すことって、
幸福への道だと思ったことでした。


他律的な「○○であるべき」を手放して幸福に・・・

能力の範囲内

03-24,2017

2017_春(12)
今日もまた私は、
「今、しなければならないこと」がありまして、
否応なく、「しなければならないこと」を、
「行う」しかないんですけど、まあ、でも、それが、
自分の能力の範囲内でできることであれば、
気力的にも可能だし、また、楽しめるってことも、
あるわけですけどね。

ところが世の中、「自分の能力」の範囲を超えて、
しなければならない・・・ってことになる場合も、
現実にあるわけでして、そうなりますと、
「苦しみ」ばっかりの状況に陥ったりすることも。

それで、人は、社会生活を営んでますから、
所属している集団との関係で、
自分の都合とか、
自分の能力に合致した程度のことばっかりでなく、
「自分には難しい」ことでも、
しなければならないハメになることもありまして、
そうなりますと、まあ、気の毒なことになりますね。

まあ、今日は、そんなことを考えちゃいましたが、
私の場合、日々の活動もですね、
努力によって何とか達せられるような活動が多くて、
でも、「やっと」曲がりなりにもしている状況で、
だからこそ自分の成長にもなるわけですけど、
「たいへんだ」って面もありまして、
それで、「完璧を目指さない」から、
続けていけるのかもしれないと思ったことでした。


いろいろあっても「やっていける」ことは幸福です。

心明るく

03-23,2017

2017_春(11)
今日も多忙で、行事で出かけてまして、
帰宅後は昨日に続いて夜まで作業を行い、
ブログを書くのが今になってしまいましたけど、
まあそれでも、心明るく過ごせたってこと、
とても良かったです。

それで思いますけど、いろいろ悪条件があっても、
心の面で「軽やかにいられる」っていうのが、
気分もいいし、
それより何より、幸せでいられるってことが、
ありがたいことです。


心がどんな状態かということ、幸福感に影響しますね。

余裕を持てる

03-22,2017

2017_春(10)
今朝の段階では、忙しい中にも、
今日は少し余裕があるかと思いましたが、実際はもう、
とんでもなかったことで、作業がいっぱいでした。

また、途中で作業の資材を購入に行って時間をとられ、
でも、のべつ幕なし、根をつめて作業なんてことは、
どうせ、できないことですからね、
仕事量には、
おのずと限界があるということで・・・

ですから、社会的な関係で、もう「どうしても」、
無理に無理を重ねても、
仕事を仕上げなければならないなんて立場の人は、
つらいことだと思いますし、私も以前は、
そういう状況だったことがあります。

それでやっぱり、世の中、「余裕がある」というのが、
すばらしく理想の状態だと思いましたし、
余裕がない中で行動せざるをえないって状況では、
幸福から遠ざかっちゃうと思います。

また、「自分が」余裕のない状況で動いてますと、
周囲の人にも悪い影響が伝播しちゃうってこと、
今日は感じました。

・・・でも、
「どうしてもせっぱ詰った事態」ってのは、
生きてる限り、あることなんですよね。

けれど、それでも「気持ちに余裕がある」状況ですと、
一時的にせっぱ詰まっても、
何とか切る抜けることができると思いまして、
そうしますと、やっぱり、
「心理的なゆとり」って、大切だと思いました。


いろいろあっても、「今日も幸福」ということで・・・

相手を尊重できる

03-21,2017

2017_春(9)
17日のブログに、私は、
「相手を動かそう」と意図する人の心理について、
こんな推測を書きました。

それは、「相手の自由に任せる」としたら、相手は、
自分の不利になることをするだろうという、
「人に対する不信」が根底にあるという考え方です。

そして、18日には、
「生きる喜び」ってことを書きましたけど、
人に対する不信が心の中にあって、そのため、
自分が不利にならない防護策として、
「相手を動かそう」と意図するなら、その人はまあ、
何と不幸な人であり、「生きる喜び」からは、
遠く離れている人だろうと思うことです。

それで、今日書きたいのは、
人を尊重することができるということは、
とても幸福なことだ・・・ってことなんですけど、
そういう心境になるためには、自分もまた、
他の人から尊重され、
良くしてもらえたという思いや感謝が必要であって、
もし仮に、他人からひどいめにあわされたという、
心の傷や痛みが解消されていないという状況なら、
もう、とても、他人を尊重する気分になんて、
なれないと思います。

それで、今ここに、
他人からひどいことをされ、心の傷が癒えてない人が、
実際に「いた」としてですね、
人間に対する警戒感から解放され、
人間に対する信頼感を得ていくためには、
どうしたらいいんだろうかって考えますけど、
まあ、それは、また明日書ければと思います。

最後に、今日の冷たい雨の中、
東京では桜の開花ということで、
全国で一番早いとテレビで言ってました。


雨の日も楽しく幸福に・・・

小学校卒業式の袴姿

03-20,2017

2017_春(8)
18日ですが、Yahoo Japanで、
「ナゼ? 小学校卒業式で袴姿 禁止する学校も」
・・・という標題の記事を見ましたから、それを、
NNNのニュースでも見てみました。
その内容を一部だけ紹介しますと、次のようでした。
_______________

小学校の卒業式に
“はかま姿”で出席する子供が増えていると
話題になっている。

16日、夜明け前の朝5時ごろ、名古屋市内の公民館。

この日、卒業式を迎えるたくさんの小学6年生が、
はかまの着付けを行っていた。
着付けを行っているのは
写真スタジオを運営しているお店。
着付けを始めた4年前はわずか6人だったが、
今年は170人にまで増えているという。

料金は
着物のレンタルと着付けがセットになったもので
3万円~6万円だということだ。
晴れ舞台を前に
はかま姿で写真撮影する子供も増えている。
神奈川・横浜市にある撮影スタジオでは
着物の貸し出しも行っていて
小学校の卒業式シーズンは
成人式よりも忙しいという。

実際に神奈川県や愛知県などの一部の公立学校では、
経済的な理由で
衣装にお金がかけられない子供もいることなどから
“華美な衣装は控えるよう”にと呼びかけたり、
“はかまを禁止にする”学校も出てきている。
_______________

あのう、私は着物を着ますけどね、そうすると、
お茶をしてるからですか?・・・とか、
日本舞踊をしてるからですか?・・・なんて、
聞かれることも多いですね。

でも、そういうことじゃなくって、もともと私は、
着物になじんでまして、それで、
茶の湯をするにも都合が良かったし、
日本舞踊にも都合が良かったということで、でも、
私が着ている着物というのは、日常着の木綿素材で、
茶の湯の稽古では、その木綿の普段着を着てますけど、
踊りの稽古では、化学繊維の「洗える着物」なんです。
・・・もちろん、茶会とか舞台では、
それなりの着物を着ることになりますけどね。

それで、踊りの場合ですけど、汗をかきますから、
洗濯機で洗える着物というのが絶対条件でして、
気温が高い季節は、春遅くから秋の初めまで浴衣で、
浴衣ですと、一度着たらすぐ洗うのが必須ですね。

そんなわけで、「高価な着物」というのは、
私の個人的な考えでは、特別の場合を除いて、
必要ないだろうというのが実情だと思いますし、
昔の日本は日常が着物姿だったのですから、
高価ですばらしい着物を着る・・・なんてのは、
「非日常」の「特別な場合」だとか、身分の高い人、
あるいは、金持ちの人だったんでしょうね、たぶん。

まあ、今日は、着物の話を書きましたけど、
私がびっくりしましたのは、
「はかまを禁止にする学校も出てきている。」
・・・ってことで、それが理由になって、
今日は、着物のことを書いてしまいました。

私は、着物を多くの人に着てもらいたいってことを、
とっても念願してますから、そのニュースを見まして、
ちょっと気になりましたので、
こんなことを書いてしまったわけですが、
まあ、小学校卒業式の袴姿が話題になったのは、
それだけ、着物が「特殊なもの」になっているからで、
私としては、日本の伝統的な着物が、
日常的に、もっと「普通のもの」であって欲しいと、
そういう念願から今日の記事となったわけです。

それで私は、普段着の粗末な着物も愛しますと同時に、
また、価値も感じている者です。

最後に、「一部の公立学校では、経済的な理由で
衣装にお金がかけられない子供もいることなどから
“華美な衣装は控えるよう”にと呼びかけたり、
“はかまを禁止にする”学校も出てきている。」
・・・という記事を読みまして、江戸時代には、
ひな祭りのひな人形の華美を禁じるお触れが、
たびたび出されたことを思い出しました。

あの、そういうことって、基本的に、
「着物がどうこう」という話ではないってことを、
書いておきたいと思います。


木綿の着物で膝が丸々に抜け色がはげても、着て幸せ。

許し、愛する

03-19,2017

2017_春(7)
先週のニュースでは、国会での証人喚問とか、
都議会での百条委員会とか、さかんに報道されまして、
まあ、世の中、「糾そう」なんてことが、
いっぱいあるんだなあと思いましたし、この社会、
「許されない」ってことで、攻撃しあうなんてことも、
日本ばかりでなく、全世界に見られるわけですね。

それで今日は、その反対のことを書きたいと思います。
・・・幸せに生きる為にですね。

あのう、「攻撃」とは正反対にですね、
人を「許し」、人を「愛する」場合、では、
真っ先に許し、愛すべき人は誰か、
・・・って言いましたら、それは、
「自分自身」だと思う私です。

そして、自分自身がですね、
「許される」し、「愛される」存在であるってことが、
しっかりと心に刻まれている人ならば、
そういう人は、他人のこともまた、
「許す」ことができるし、
「愛する」ことができるだろうと思う私です。

その反対に、自分は「許されない」と思っていれば、
「自分が許されない」のにもかかわらず、
「他人を許す」なんて心境には、そりゃあもう、
「なれない」と思います。

まあ、同じことですけど、
「自分が愛されない」にもかかわらず、
「他人を愛する」って心境にはなれないと、
それは、ほんとにそう思いますね。


許すことも愛することも、幸せの基本だと思います。

まずは生きる喜び

03-18,2017

2017_春(6)
このブログは、幸福について書いてますけど、
私たちは社会生活をしてますから、どうしてもですね、
人との関わりや世の中のことが、
その人の幸不幸と密接に関連してくるんですけど、
それでもなお、私は、まず第一に、
「生きる喜び」が感じられるっていうことが、
幸福の根底にあるのではないかと思いまして、
あの、今日書くことはそれだけです・・・が、
書く内容の重要性としては、
一番くらいかなあ・・・なんて思うことです。


生きる喜びを感じられることの幸福を思います。

信じられる幸福

03-17,2017

2017_春(5)
世の中には、相手の人がですね、
「私の思いどおりの行動をする」ことを求める人が、
実際にいますから驚きで、あのう、
「他の人」が、「私の思いどおりに動く」なんてこと、
ありえないんですし、それが人間社会なんですよね。

ところが、相手が自分の思いどおりに動かなければ、
不満な人っていうのは、結局のところ、
社会的にそんなことは「実現不能」なのですから、
心の中には、いらだちや怒りがいっぱいになるわけで、
「おもしろくない人生を生きる」しかなくなると、
まあ、必然的にそうなるだろうと思うことです。

そんなわけで、今日はつまんない話を書いてますけど、
「相手を動かそう」と意図するのは、私の推測では、
「相手の自由に任せる」場合、相手は、
自分の不利になることをするだろうという、結局は、
「人に対する不信」が根底にあるからだろうと、
いやあ、ほんとにそう思いますね。

まあ、それだけ、
世の中でひどいめにあってきたのかなあと、
想像することではありますが、それにしても、
すごく不幸であるってことで、その反対にですね、
他人を「信じることができる」タイプの人もまた、
たくさんいることで、人を信じることができるのは、
とても幸福なことだと思いました。


人を「信じられる幸福」ってことを、つくづく思います。

死んだ夢

03-16,2017

2017_春(4)
やっぱり昨日も、いろいろと用事がありまして、
ブログを書く時間の余裕がなく、
掲載できませんでしたけど、
話は変わりまして、昨日の夜明け方なんですけど、
自分が死んだ夢を見てました。

ところが、死んでますのに、意識はいつもどおりで、
死んでいるのに、周囲の世界も自分も、
今の現状と全く同じ・・・という夢でした。

それで、死んだことが怖いとか嫌だといった感覚が、
全くありませんで、それどころか、
「心地よい」中に、生前のままにいるという夢で、
それで、極楽世界に居ると言ったってですね、
他の人と仲良く楽しくいられるというのであれば、
それが、死後の極楽世界であろうと、
生きている今の現実社会であろうと、私としては、
どっちも望ましいことだし・・・って思いまして、
まあ、死んだのちはですね、
衣食住を得るために他の人と争い戦う必要も無く、
生きてる現実社会よりは幸福が得やすいか、
・・・なんて想像もありますけど、でも、それだって、
「死んでみなければ分からない」わけで、
まあ、結局、今生きてるこの世の中で、
他の人と融和できて喜びのうちに過ごせるってのが、
私の幸せです。


幸福を享受して生きていられるのは、喜びですね。

都合の良し悪し

03-14,2017

2017_春(3)
昨日のブログでは、この世の中、
「都合の良いこと」ばっかりは無いんだってこと、
書きましたし、今の社会状況を見ましても、
願わしくないことがいっぱいなんて書きましたけど、
だからといって、気分的に落ち込む必要は、
全く無いと思います。

反対に、「明るい方向で見ていく」というのが、
すごく幸せなことで、そうするのが良いと思います。

さて、世間には、「自分の利益」ばかり求めて、
そのために、他人をうまく操ろうとする人も、
実際、いるんですよね。

しかも、そういう人の中には、
他人にひどいことをしても、「悪い」って気持ちなど、
皆無も皆無、最初っから持ち合わせない人もまた、
現実にいるわけでして、そう言いますのは、
私が実際、そういうタイプの人を知ってるからで、
そうですねえ、そういう人からは「離れる」、
その「離れる」ってことが大切で、
関わりあったり交際してますと、
不幸が降りかかってくるばっかりだからです。

あのう、
「自分に都合よく」ってことだけ考える人って、
いるわけですけど、続きはまた次回以降に。

さて、当地では、今日は久しぶりの雨で、
作物の栽培や花を楽しむ人には恵みの雨ですけどね、
通勤通学の人や都市生活の人には、
うれしくない雨かもしれないってわけでして、
一つ一つのことを、
都合が良いか悪いかで一喜一憂する態度を離れて、
「晴れてよし、雨もよし」くらいの気持ちで、
余裕で生きるのがいいかなあと思いますけど。


苗木が雨で元気になればうれしく、うれしいのは幸福。

花粉アレルギーで

03-13,2017

2017_春(2)
花粉アレルギーの私ですが、
特に今朝からは鼻水がひどくて、
連続して流れ落ちる状態が続いてまして、
どうしようもないってことで過ごしています。

でも、くしゃみは出ても特別ひどくはないし、
目のかゆみも少ないので、
過去に体験した症状と比べれば「軽いもの」でして、
まあ、しかたないと思うばかりです。

そんなにそんなに、
「都合の良いこと」ばかり願ってもですね、
そうはいかないのが世の中の現実だし、また、
自分自身の現実ですからね、今の社会状況だって、
いろんなニュースを見れば、
願わしくないことがいっぱい、山盛りですけど、
それはそれとして、今、自分ができる楽しい計画を、
少しずつでも進めていくなんてのは、
喜ばしいことだなあと思いまして・・・


やっぱり心を明るく持って、楽しい計画の進行が幸福。

余裕がある幸福

03-12,2017

2017_春(1)
3日の金曜日に、しなければならない急な用事が、
いきなり発生しまして、それでなくても、
先週はいろんな用事が、特に鮨詰めになっていた週で、
全くたいへんなことでした。

それで、ブログの掲載ができませんで、今ようやく、
ブログが再開できますけど、とっても感じましたのは、
「余裕がある」って、まあ、
何と幸せなことか・・・ということでした。

それで、踊りの振付もですね、落ち着いた気持ちで、
一つ一つていねいに復習する時間が得られまして、
「踊りの稽古は楽しいなあ」と思えて、
喜びでした。


ゆったりした気持ちで、幸せを享受して過ごせる喜び。

用事激増で

03-04,2017

太陽(3)
これから一週間、私には、
いろんな行事が集中し、それだけでもたいへんなのに、
昨日、また一つ、時間を要する用事が出現しまして、
昨日は精神的にもいっぱいになり、
昨日のブログは掲載できませんでしたが、
今、用事を全部こなすだけでも精一杯の状況ですから、
このブログ、一週間ほどお休みします。

でも、「完璧にこなす」なんてことは、もともと、
「考えてない」私ですから、「できる範囲で」、
きちんとできないこととか、不十分なことは、
最初から「許容」のつもりですからね、
何とかやっていくしかありません。

さて、きちんとできなくてもいいとか、
不十分でもいいという私の考えは、
投げやりな態度だとか、怠ける考えとか、
そういうこととは全く反対でして、
私は、一生懸命、全身全霊をかけて行うのですが、
そのように行っても「力が及ばない」ことに対して、
「自分を責める」とか、「完璧を目指す」とか、
つまり、以前は神経症と表現されたみたいな状況とか、
完璧主義と言われるような状態には陥らないって、
そういうことなんですね。

まあ、気持ちを明るく持って、
次から次の用事でたいへんではあっても、
その時々を「楽しく」やっていきましょうと、
そんな気持ちです。

ではまた来週末か、再来週に・・・


忙しくても、たいへんでも、幸福は幸福で変わりなく。

必死の思いが

03-02,2017




太陽(4)
NHKテレビドラマ「おんな城主直虎」を、
どうしても見たいという気持ちではない私でして、
ですから、一応、録画しておく程度なんですが、
その第8回を、今日になって見たことです。

さて、第8回の感想ですけど、世の中には、
「必死の思い」で生きる人って、いるわけでして、
その例を、ドラマで見たっていう感想でした。

それで、人が「必死の思い」を抱くようになるのは、
社会的にですね、
「どうしてもそうしなければいけない」という、
非常な圧力が自分にかかっているということで、
それは、不幸なことなんだと思います。

そして、圧力をかけているのは「他の人」であって、
ですから、「必死の思い」で生きてる人というのは、
「他人の思い」を実現しようと、
「自分自身に負荷をかけている人」というふうに、
考えていいかなあと思いました。

でも、そのようにですね、「自分の思い」ではなく、
「他人の思い」を優先させなければならないという、
そうした社会的状況っていうのは、
世の中に生きてる限り、たくさんあるわけですけどね、
まあ、不幸な状況だと思ったことでした。


「自分の思い」を生きることができるのは、幸せです。

喜びを優先する

03-01,2017

太陽(2)
自分自身を批判することではなく、
自分自身の喜びを優先すること・・・っていうのが、
とっても大切だってこと、思いますね。

そしてそれは、
人々に幸福をもたらす態度でして、決して決して、
人々を「争わせ」、不幸をもたらすような態度では、
絶対にありませんけど、でも、不幸にして、
すごく誤解されてる向きもあろうかと思います。

あのう、「喜びを優先する」態度っていいますと、
社会的に受け取られるのは、自分だけが身勝手をして、
他の人に損害を与えたり、苦しめることで、つまり、
自分の利益だけを求める姿勢と受け取られる実態も、
世の中には、あろうかと思います。

しかしながら、
「自分自身の喜びを優先する」って言いましても、
それは、「自分自身の喜びを優先する」ためにですね、
他人をひどい目にあわせていい・・・なんてことは、
言ってないんですよね、実際。

それにもかかわらず、世間には、
「自分自身の喜びを優先する」というならば、当然、
「他人を犠牲にする」んだろうと考える人が、
いるんですね、それも大勢・・・

あのう、「自分自身の喜びを優先する」心情って、
相手の人がですね、相手の人が喜びを優先する態度を、
「肯定する」って心情ですからね、
つまりそのことを反対の視点からから見れば、
「自分が喜ぶことを禁じている」人は、
「他人が喜ぶことも許さない」態度に出るわけで、
結局ですね、
「自分の喜びを優先する」って態度を批判する人は、
「自分が喜ぶこと」を禁じられてきたという、
過去の心の痛み、心の傷が原因となって、
自分はひどいめにあわされてきたから、当然のことに、
他人が「自分の喜びを優先する」態度なんて、
絶対に「許せない」ってことなんじゃないか、
・・・なんて思う私でした。

あの、それ、正しい見方かどうかは分かりません。
でも、判断の正誤に関わらず、
「思ったことが書ける」っていうのが、
ブログのいいところでして、私としましては、
正しい見方だと思ってるから書けるわけですけどね。


自分の喜びを肯定できる人が、他人の喜びを肯定でき。

社会の影響力

02-28,2017

スペクトル(5)
人は、
社会からの影響をものすごく受けているんだって、
昨日、自分が体験したことで気づきました。

あの、私、NHKドラマ「おんな城主直虎」を、
日曜に見るだけの時間的余裕がないものですから、
まあ、一応、録画はとっときまして、昨夜なんですが、
2月12日放送の第7回を見たことでした。

そうしましたら、
今川家の検地奉行がやってきたシーンですけど、
検地奉行の岩松に対して、直盛が、
「では、岩松殿、お改め下さい。」と、
検地帳を差し出す場面があったんですね。

その検地帳は、四方に載せて差し出されたんですが、
ええっと、もしかしたら四方ではなく、
三方かも知れないんですけど、
テレビ画面にはその全体像が映ってませんから、
四方か三方かの区別がつきませんので、一応、
四方として話を進めさせていただきますけど、
「では、岩松殿、お改め下さい。」というシーンは、
何ということもなく過ぎたんですが、直後に、
検地帳を載せた四方が、アップの大写しになりました。

アレアレーッ・・・って思った私でして、
そのアップの場面だけなんですけど、四方の向きが、
前後ろ「逆」になってるんですね。

さて、その後、岩松が検地帳を見ているシーンでは、
四方の向きが正しくなっていましたから、
そのアップの場面だけが別に撮影されて、撮影時には、
小道具をセッティングする担当者も、撮影者も、
四方が逆向きであるということには、
誰も気づかなかったし、またその後の編集段階でも、
誰も気づかなかったんだろうと思ったことでした。

でも、四方を正面向きではなく、
反対向きにして奉行に差し出すなんてことは、
もう当然のことながら、「ありえない」ことでして、
仮にそんなことを実際に行ったとしたら、
「反逆のしるし」を、わざわざ今川家の奉行に、
見せつけることになりますからね・・・

そんなわけで、現代では、一般の人々がですね、
四方や三方の扱いを知ってるなんてことは、もう、
時代的に、普通はあんまり無いことで、私なんかは、
茶の湯を通してそういうことも知ってるだけでして、
しかしながら、「正面と背面を逆にして」相手に出す、
・・・なんて行為は、
相手に対して敵対する意思を示す宣戦布告と同等で、
ものすごいことなんですよね。

それで、今日思いましたことは、
「人の行動」っていうのは、
社会的に非常に、ものすごく、徹底的に、
影響を受けているってことでして、
あのう、現代では、四方や、特に三方なんかは、
神事は別としまして、使うことがめったに無いので、
その扱いについては、なじみがないでしょうけど、
昔はですね、
作法に従わなければ身に危険が及ぶほどのことで、
ただ単に「道具一つの扱い」をとってもですね、
そこには、人の感情や気持ち、意思までも表れると、
まあ、そんなふうなことを思ったことでした。


茶の湯は作法で心が表現できる面があって、幸いです。

今の時間を楽しむ

02-27,2017

スペクトル(4)
「今」、
そうです、今のこの時間を楽しく過ごすってことは、
まあ、何と幸福なことでしょう・・・

でも、そういうことが「できない」人っていうのが、
世の中には、現実にいるんだってことが分かりました。

あの、「楽しく過ごす」ことがですね、
犯罪行為みたいに思えちゃう人がいるってことで、
つまり、「必死で何かをしていない」とダメだって、
そういう感覚の人がいるってことなんですよね。

そして、そういう感覚っていうのは、
社会的に「つくられたもの」だと思いますね、私は。

ところで、2月25日、26日というのは、
国公立大学の2次試験が多くの大学で行われるとか、
ニュースで知りましたが、そういう受験生というのは、
「必死の毎日」だったのかも知れませんね。

そして、受験生に求められるような「必死の態度」、
その「必死の態度」というか、必死な生き方を、
他人、たとえば自分の子どもとか、社員とかに、
「求めちゃう」ような親や上司、あるいは経営者って、
世間には、ある程度の数、いるような気がします。

そうしますとね、「適応していく」ためには、人生、
「必死でがんばらなくちゃならないんだ」って、
誤った感覚を持つ人も現れると思いますけど、
今日はこのへんで話を打ち切りたいと思います。


少必死の人生が幸福を阻害する例は、世の中に多いです。

今日を楽しむ

02-26,2017

スペクトル(3)
今日もまた、気持ちのよい青空で、快晴です。

それで、「今日を楽しむ」って気持ちになれるのが、
とっても幸せなことで、でも、
ニュースなんかを見てますと、
「ひどい話」がたくさんありまして、
社会で生きていくのはたいへん・・・みたいな面も、
それは、あるんですけどね、でも、世の中、
心に喜びを感じることもいっぱいありますから、
そうですねえ、「喜ばしいこと」に同調して、
日々を「気分よく生きる」こともできるわけで、
そっちのほうがいいと思いました。


今日も心さわやかに、幸福を享受して生きましょう。

楽しい人間関係

02-25,2017

太陽(1)
「楽しい朝」っていう小曲が、ピアノ用にも、
バイオリン用にもありまして、
初心者が演奏するには、いいんじゃないでしょうかね。

まあ、とにかく、今朝も「楽しい朝」になりまして、
そういうのが幸せなことですけど、
人は社会生活を送りますから、何と言ってもですね、
他の人と楽しく過ごせるっていうのが、
幸福なことだと思います。

それで、世の中、「よい人間関係」っていうことが、
ほんとに大切だと思いますけど、そのためには、
まず、「自分が楽しくある」ことが必要だと思います。

あのう、自分自身が「楽しくない」状態でありながら、
他の人との関係を楽しくしようと思いましても、
それは無理というものですから、
そうですねえ、「楽しい人間関係」を築くためには、
まず、「自分自身の現状」を楽しめること、また、
喜べることが必要だと思いますし、
そういうふうにできてる・・・ってことであれば、
自分がそういう状況にあるってことに感謝ですね。


今日も幸せを享受して過ごしましょう。

昨日、忙しくて

02-24,2017

スペクトル(2)
昨日は忙しくて、このブログを、いつものように、
インターネット上に掲載することができなかったと、
今夜、自分のブログを自分で見まして、
気づきました。

あのう、「正常でない」しかたで、昨日は、
ブログを掲載しちゃったことに気づきましたので、
先ほど、正常な掲載のしかたに改めましたが、
自分の「状況が変わっても」ですね、
このブログは続けたいと思いましたので、添付写真は、
撮りためていたものを使うことにしまして、
まあ、とりあえず、今日の分は書きますけど、
この社会で生きていく上で、「幸せが一番」って、
ほんとに思ったことでした。

それで、現実にはですね、この世の中、
「幸せを阻害する」要因ってのが、まあ、
ほんとにほんとに、いっぱいあるんだってこと、
よくよく感じることですけど、でもねえ、まあ、
「だからこそ」と言ってもいいんですけど、
不幸をやっつける挑戦をしてもいいのかなあって、
思っちゃいましたね。

あのう、それで、「今、幸せ」って感じられること、
それって、不幸をやっつけるための挑戦としては、
一番の強力な武器かなあ・・・と思いました。

まあ、今日は・・・というより、今日からですが、
いろいろ忙しいので、ちょっとずつしか、
書いていけませんけど、でも、
「塵も積もれば」ってことがありますからね・・・


あのう、「幸せを感じる」って、すごい効果があると。

出かける用事で ・ ・ ・

02-23,2017

スペクトル(1)
すみません、緊急ですが、
出かける用事ができましたので、
急なことですが、このブログ、
しばらくお休みということに致します。

まあ、人生、
「何が起こるか分からない」
・・・ってことですね。

幸せな日々の持続は当然ですから、また後日 ・ ・ ・

誤った思い込み

02-22,2017

去年のクリスマス
今日の添付写真は、去年のクリスマスイブの撮影で、
絵皿の上にゼラニウムの花弁と折り紙なんですが、
すっかり季節はずれですから、
掲載すること自体が場違い・・・というか、
ふさわしくありませんけどね、でも、この世の中、
人の態度や行動を考えてみますと、
その場にふさわしくない態度、
場違いな行動なんてのは、実は、
「よく見られる」ことなんじゃないかと思いますし、
だいたい、「誤った思い込み」で行動してるってこと、
人間には、よくあることじゃないかと思います。
事実、私だって、
「誤った思い込み」によって行動してたなんてこと、
過去に、いっぱいあるんですよね。

それで、昨日の続きなんですが、
あるテレビドラマから、一馬のセリフを続けます。
「そうか、俺、悪くねえんだ。
 何が悪いのかなあって、ずうっと考えてきたのに。」

あの、主人公一馬のこのセリフですが、
彼は年齢を、「たぶん56歳くらい」と言ってまして、
家出をしたのが13歳とも言ってますから、
「43年も!」と、
ドラマの中で荒本達雄が言ってますけど、
そうしますと、43年よりももっと長い期間、
一馬は、「自分が悪い」と思い続けたわけですね。

それで、今の日本社会は、
親による子どもの虐待ってことが、
極端に言えば毎日のように報道されるという、
嘆かわしい世の中になってしまいましたけど、
あのう、そのドラマというのが、
「洞窟おじさん」の「完全版」ということで、
先日再放送された第3話と第4話を、
偶然に、私は見ることができました。

ところで私は、「洞窟おじさん」の短縮版を、
以前に見たことがあるんですけど、
その短縮版を見た時に、
「そうか、俺、悪くねえんだ。
 何が悪いのかなあって、ずうっと考えてきたのに。」
・・・っていうセリフがあったという記憶が、
全くないんです。

そして、今回「完全版」を見まして、
ああ、短縮版では、
大切な部分がカットされているなあって、
特に、最後の場面を見た時に、
すごく感じたものですから、「洞窟おじさん」の話を、
次回も続けたいと思いますけど、
親からひどい扱いを受けた子どもって、誰もが、
「自分が悪いんじゃない」にもかかわらず、
「自分が悪い」からひどく扱われるんだって、
勘違いしちゃうみたいですね。

そして、「自分が悪い」という誤った思い込みこそ、
その人を不幸に陥れる大きな原因と思いますが、
今日はこのへんでおしまいにして、
続きはまた後日にしたいと思います。


自分の良さと価値を信じられることは、幸せですね。

怒りをぶつける

02-21,2017

2017冬(53)
あるテレビドラマでの、二人の会話を紹介します。

次郎:「よく殴られてたもんな。」

一馬:「何で、俺ばっかりだったんだ?」

次郎:「理由なんか、ねえ。
    はけ口が必要だったんだ。
    それが、たまたまおまえだったってことだ。」

さて、世の中には、子どもに暴行する親って、
いっぱいいまして、そして、その理由の一つとして、
親が抱えている不満や怒りをですね、
わずかなりとも解消しよう、忘れようとして、
それで、自分の子を標的にして不満や怒りをぶつけ、
子どもに暴行するっていう構図が、
ずいぶんたくさん見られるように思います。

それだって、親のほうがですね、社会の中で、
誰か他人から不満な扱いを受け、あるいはひどくされ、
それで、憎悪が蓄積しているからだってこと、
あると思います。

それで私は、気の毒な子どものほうに目が向いて、
そういうことで不幸を背負ってしまった子どもが、
どのようにして幸福を得ていくかということを、
まあ、今までは考えてましたけど、でも、
子どもを不幸にする親が後を絶たない現状では、
親・・・というか、大人の心を健全にしていくことも、
考えていかなくちゃなんないなあって、
思うようになりましたが、今日書きたかったことは、
上記の会話の後に続く一馬の言葉なんですけど、
それはまた、明日ということにしたいと思います。


心が健全であるってことは、幸福の条件だと思います。

対等の人間関係

02-20,2017

2017冬(52)
先ほど、包丁を洗ってた時、
不注意で、ちょこっと指を切ってしまった私で、
軽傷ですから別にどうということもありませんが、
「平穏無事」ということのありがたさと幸せを、
ほんとに思ったことでした。
(包帯をして、防水手袋で水関係の仕事をするしか。)

さて、昨日の続きですけど、世の中には、
子どもをですね、
自分の都合を満たす道具として使うとか、あるいは、
自分の心に鬱積している不満や怒りをぶつける相手、
そうですねえ、まあ、つまりは、
攻撃対象ということですけど、
そんなふうに扱っちゃう親っていうのがいまして、
それ、親が不幸だからそうなっちゃうんですけど、
子どももまた、親によって不幸にされちゃいますね。

さて、昨日の文章を再掲しますけど、
「教育熱心な親の期待に沿うことができず
暴力や暴言をぶつけられてきた」って、
書いてある部分ですけど、彼女の親の考えでは、
自分の子ども(ハナさん)というのは、
親である自分の願いを叶える役割を担っていると、
「本気で」考えているんだろうと想像します、
あの、「疑いもなく」ですね。

さて、AさんとBさんという二人の人間がいたとして、
Aさんは、Bさんの願いを叶えなければならないし、
その役割を担っている人である・・・なんてことは、
社会的に、絶対にありえないことなんですね、
人は平等で、対等の関係なんですから。

ところが、実際にそのようなことがあるとすれば、
そういうAさんとBさんの関係というのは、
奴隷の所有者である主人と、
主人の「家畜」である奴隷の関係と同じですし、
また、絶対的支配者と奴婢や下僕の関係と、
同等だと思います。

でも、世間には、そういう関係の夫婦、また、姑と嫁、
さらに、親子なんてのがしばしば見られまして、
そういうのが不幸の原因になってる例も、
多いんじゃないかと思いますが、
そういうことについては、また別の機会に、
再び取り上げてみたいと思います。


平等、対等に人と関わることが重要だし、幸せですね。

親の期待

02-19,2017

2017冬(51)
私は、インターネットのトップページに、
Yahoo japan が出るように設定してまして、昨日、
「ニュース」欄の3番目の見出しなんですけど、
「大学の保健室  学生支える教諭」、
・・・って書いてあるのを見ました。

あれェ、今の日本社会は、
大学の保健室に教諭がいる時代なの?・・・って、
ちょっと意外でしたから、記事を読んでみました。

その記事の一部だけ紹介しますと、
次のような文があったんですね。
__________

ハナさんはきょうだいが
勉強のストレスで髪をむしっていて、
と直接関係のなさそうな話を始めた。
だが、富山先生が相槌を打つうち、
自らの悩みを語り出した。
教育熱心な親の期待に沿うことができず
暴力や暴言をぶつけられてきたこと、
進路に不安があり授業に身が入らないこと……。
__________

大学の保健室にいる富山先生のところに、
学生のハナさんが行ったわけですけど、
その文を読みまして、
ハナさんの惨状を思いました。

そして、ハナさんの親のことですけど、
「親の期待」って何なのか?・・・って、
思っちゃいましたね。

でも、そういう親って、世間には、もう間違いなく、
たくさんいるだろうと、私は感じていることです。

そして、子どもを「利用する」親ってことを考え、
また、親に「利用される」子どもの不幸のことを、
考えちゃいました。

そうですねえ、親自身の都合を満たす為に、
子どもに要求を突きつける親って、
世の中には多いと思いますけど、そういうのって、
子どもを奴隷扱いしてることだっていうことを、
親は「気づいてない」わけで、
そこに、親子両者の不幸があると思います・・・が、
難しい問題になりましたので、今日はこのへんで。


「他者に頼る」ことなく、自立できるのが幸福ですね。

張りぼての不幸

02-18,2017

2017冬(50)
社会生活上ですね、「中身がない」のに、
外見だけは「立派に見せかけようとする」人間って、
いると思いますし、まあ、そう言うより・・・むしろ、
「中身がない」からこそ、
外見を飾りたいってことになるのだろうと思います。

まあ、世間には、そういう人って、
少なくないと思いますけど、
「中身がない」のに外見を飾りますと、
それは、張りぼてと同じことになりまして、
それで、次のように思いました。
「張りぼての『自分』をどんどん作っていく果てに、
 これはやっぱり、『自分』が、
 内側から壊れていく。」

ところで、上記の言葉は、
ある人(姜尚中氏)の言葉のモジリでして、
元の言葉を、以下、ちょっと紹介しますけど、
紹介する前に、NHKテレビのETV特集に、
「漱石が見つめた近代~没後100年
 姜尚中がゆく」という番組がありまして、
それを見たんですけど、
その番組中に出てきた言葉なんです。

その番組の中にですね、姜尚中氏と、
黒川創氏の対話があったんですけど、
対話の一部分だけを紹介しますと、次のようでした。
_________

黒川:日露戦争、一応勝ったことになってるわけだ。
   すると日本中に凱旋門ってあるんですよ。
   パリの凱旋門みたいなね。
   新橋の駅前にもあるんですけど。
   あれ石造りに見えるんだけど、
   大体は中は「ほんがら」(からっぽ)で、
   竹で造ってあって、
   だからもう張りぼての凱旋門ですよね。
   だからそういうあさましさっていうのに、
   漱石は相当嫌だったというのは
   一つありますね。

姜 :僕もそう思います。

黒川:世の中、偏狭になっていく。
   こんなんでいいのかという
   漱石のフェアネス(公平さ)が働いている。

姜 :そういう点では、その張りぼての近代を
   どんどん作っていく果てに、
   これはやっぱり、人間が、
   内側から壊れていくんじゃないかという。
   それは漱石の中にあったんでしょうね。


張りぼての自分じゃなく、あるがままの自分が幸せ。

他人に依存はダメ

02-17,2017

2017冬(49)
人は社会の中で、人との関係によって生きてますから、
他人とどんなふうに関わるかということによって、
自分の幸不幸が影響を受ける場合があるってことは、
それはもう、確かなことではありますけど、でも、
「自分の幸福」は、
「他人によって決まるものである」なんて考えは、
間違いだと思います。
反対に、他人によって不幸にさせられる場合は、
それは、世の中にたくさん例があると、
私は思うんですけどね。

ところで、他人からですね、
自分はすばらしく立派な人間だと「思われたい」し、
良い評価を受けたいって思うような人って、
存外、多いのかもしれません。

でもねえ、「他人が自分のことをどう思うか」で、
自分の価値が決まるというようなことは、
決して決してあるはずないことで、なぜ今日は、
そんなことを書きましたかと言いますと、
ここのところ数日、「自分は偉い人間である」と、
「他人から」思われたい・・・という人間のことを、
話題にしてきたからなんですね。

それで、続きはまた明日以降にしたいと思いますが、
今になって風が強まってきまして、先ほど、
近所で火事がありまして、それですからなおさら、
平穏で心静かに居られることの、
ありがたさと幸福を思ったことでした。


今日の幸せと平安に感謝です・・・

酒依存だったの?

02-16,2017

2017冬(48)
世の中、酒を求める人って、
いっぱいいると思いますけど、
酒が欲しくなる気持ちはどうして起こるの?
・・・って思いまして、
インターネットでいろいろ検索してみました。

そしたら、次のような言葉が見つかりました。
_______________
久しぶりに飲んだお酒は美味しく、
日頃の鬱憤から解放されて気分爽快、
何もかも大したことじゃない、
そう思えました。
その時「これだ」と思いついたのです。
お酒を少し飲めば気を紛らわせるかも、と。
_______________

そうですねえ、結局人は社会生活をしてますから、
人との関係で「鬱憤」が蓄積してるってことだって、
あるでしょうね。

それで、「自分が偉い」ということでないと、
ガマンできなかった男性が亡くなった話、
二日連続で書いてきましたが、
その男性のお姉さんという方の話では、
その男性、もう何年も酒を飲み続け、
酒依存で、ある日、台所で倒れ、
亡くなっているのが発見されたというんですが、
その男性は、妻や高齢の母親と同居してましたそうで、
でも、その男性が酒を飲むからなんでしょう、
家族と「仲良く」日々を過ごすのとは、
反対の状態だったみたいですし、台所で倒れても、
誰にも気づいてもらえなかったようでして・・・

それで、
「偉くなくてはいられない」気持ちで生きてきた、
その男性って、酒を飲まずにはいられないほど、
何か、心に苦しいものがあったんでしょうね、
・・・って思いますけど、でも、世間には、
酒でまぎらわせなければ居られないほど、
心に鬱憤や問題をためている人って、
多いかもしれないと思いますね。

まあ、この続きは、また明日にしたいですが、
心の中に蓄積している悪感情を解消させることは、
幸福のために絶対必要だと思ったことでした。


心の底に潜む悪感情に気づき、解消することで幸せに。

偉さを求める苦しみ

02-15,2017

2017冬(47)
「自分が偉い」ということでないと、
ガマンできない人間ってことを、昨日書きましたが、
そういう男性の一人が亡くなり、
その男性のお姉さんという人が語った話を、
私は「又聞き」で聞きましたけど、
その男性の妻という人もですね、夫と同じで、
「偉くないといられない」というタイプだそうで、
世の中には、そういう似たもの夫婦っていうのは、
いるものだと思う私でして、それは、私もまた、
そういう夫婦の実例を知ってるからなんです。

まあでも、そういうタイプの人って、社会的には、
ある程度「成功者」と見られてる人も多いかなあ?
・・・と、私は感じます。

それで、自分が「偉い」ところを見せたい人って、
自分が「すごいだろう」と「人に見せる」ために、
必死の努力をした結果じゃないか・・・なんて、
私は想像するんですけどね。

でも、「ある程度まで」の社会的な評価しか得られず、
「満足できる」レベルまで達しないとすればですね、
その苦しみはどれほどだろうか・・・なんて、
想像したことでした。

それで、続きはまた明日にしたいですけど、
「今の現状を喜べる」っていう心情は、だから、
ほんとに幸せなことだなあって、
つくづくと感じますね。

そして世の中には、「今の現状の自分」を、
喜び楽しんで生きている人も多いわけでして、
そういうのこそ幸福だと思うことです。


今日もまた、自分の幸せを享受し、味わいましょう。

偉さを求める人

02-14,2017

2017冬(46)
私が知らない人のことなんですけど、
ある人が亡くなりまして、その人って、
「偉くなくてはいられない」人だったような話、
ちょっと聞きまして、まあ、世の中には、
そういうタイプの人って多いなあと思いましたのは、
私が知ってる人の中にも、「他人と違って」ですね、
自分は特別すばらしい人間なんだと、
・・・その次が問題なんですけど、
そう思わずには生きていけない人間がいるという、
そのことなんですね。

それで、その亡くなった人というのは、
誰も友達・・・というか、
交際する相手が「いなかった」ようでして、まあ、
社会生活において、「自分が偉い」ということを、
認めてくれない人間とか、
自分を崇め、褒めそやすことをしない人間なんて、
「許せない」なんて態度でしたら、
他の人は寄ってこないでしょう・・・と思いますね。

まあ、その亡くなった人の話、
明日また書ければと思いますが。


「すばらしい自分」を願う必要なんて、無いのが幸せ。

その必要がない

02-13,2017

2017冬(44)
昨日は、「偉ぶる必要がない」人ってことを、
ちょっと書きましたけど、ではなぜ、
「偉ぶる必要がない」のかってことですが、
それは、自分が「偉くなくても」ですね、十分に、
この社会の中で生きていけるし、また、
自分の思いに従って行動できるし、
それよりも何よりも、この世の中で、
自分は好意をもって接してもらえるし、愛されるし、
また、他の人々から助けてもらえるし、そして、
もっと重要なことは・・・ですね、
人に対する自分の好意や愛情を、
相手の人や不特定の人々に、つまり、世間の人々に、
「受けいれてもらえる」という自信ではないかと、
私は思うんですけど、この話、
次回以降も続けて書いていければと思います。


今日も幸せを享受し、他の人々と共に喜びの中で・・・

偉ぶらない人

02-12,2017

s-DSC00164.jpg
昨日の続きですけど、
「偉ぶらない人」っていうのは、つまり、
「心が健全な人」だと、私は思います。

まあ、世の中には、
ちっとも偉ぶらない人がいますけど、それは、
人格者だから・・・とか、そういうことじゃなくって、
「偉ぶる必要がないから」だと、私は思います。

関連して書きますけど、私は、
「人格者」っていう言葉は好きになれません。

けれども、なぜ嫌いかってことを説明するのは、
とっても難しいし、また、短文では書けません。

でも、無理に一言で言えば・・・ですね、
「人格者」というからには、
「人格者でない」人も居るってことでしょうが、
私はそのように、人を、
「人格者」とか、「人格者でない」というように、
「分けて考える」こと自体が、誤りだと思いますし、
それに、「人格者」というような見方自体が、
勘違いというか、正しい認識とは言えないと思います。

それで、人は、社会生活をしているわけですから、
孤独に過ごす時間以外は、「他人と関わる」わけで、
その場合、「相手の出かた」というか、
相手の態度とか行動によってですね、
自分の態度や行動を変更するっていうのは、それ、
あたりまえのことでしてね、ですから、
「誰に対しても」・・・つまり、
心優しく、温かく、精神が健全な人に対する時も、
また、魔性の人に対する時も、
同じ態度や行動をとるってことはないのであって、
ある人Aさんが、
相手によって「異なる対応をする」ってことが、
当然のことなんですよね。
たとえば、サイコパス対して親切を尽くすようだと、
犠牲者として食い尽くされる以外にはないからです。

ああ、でも、話題があらぬ方に飛翔しましたので、
この話は打ち切りといたします。


心の健全な人々と交際して、喜びのうちに幸福に・・・

優劣

02-11,2017

2017冬(43)
この人間社会、人と人との間には、まあ確かに、
「優劣」ということはあるでしょうね、
何かの基準を持ち出して「比べてみれば」ですけど。

でも私は、
たとえAさんBさんの間に優劣はあったとしても、
「優劣を問題にしない」人間関係というのが、
「あるべき」本来の人間関係だし、
それでこそ、世の中が幸福なものになると思います。

そして、優劣を問題にするのではなく、
相手を尊重し、大切にする気持ちや態度で生きるのが、
幸せな生き方だと思います。


心を健全に保って、今日もまた幸せを享受しましょう。

謝罪を求める人

02-10,2017

2017冬(42)
社会的な関係において、
相手の人から「詫びられる」ということは、
その時点では、
自分のほうが相手より上位に立つということだと、
私は思います。

それで、相手に「謝罪を要求する」人というのは、
心のどこかに、「相手の上に立ちたい」という、
隠された要求があるのかなあ・・・と想像します。

あの、動いている車同士の衝突事故の例なんですけど、
損害賠償とは別に、相手からですね、
「詫びに来い」としつこく言われた人の話を、
ちょっと聞いたことがありまして、その相手はですね、
金銭的な賠償ではおもしろくないようでして、
「両者共に事故の責任がある」にもかかわらず、
自分のほうが、責任の割合が少し軽かったという、
そのことを理由にしてですね、
責任の割合が少し上回った人に対して、
自分の家を訪問して謝罪させたいと、
頑迷に要求し続けたという事例がありまして、
そうなりますと、結局その相手というのは、
金銭的な賠償では不満で、事故を理由としてですね、
「謝罪」を得て、自分が上位である気分を味わいたい、
まあ、それがほんとうのところじゃないかと、
私は想像したことでした。


なお、余談ですが、車の衝突事故で、
責任の割合が高いと判定された人のほうが、
責任の割合が少し低かった相手側の自宅に出向いて、
一方的に謝罪しなければならないなんてことは、
社会的な慣例なんかじゃありませんし、
車両の傷による損害は金銭的に賠償すればよいので、
まあ、この事例の場合、
「一方的な謝罪」という事態には至らなかったので、
その点は、対応が良かったと思います。

それで、世の中、何かというと人の落ち度をとらえ、
相手に食って掛かるというタチの悪い人間が、
世間にはたくさんいますけどね、
そういうタイプの人というのは、
心理的に問題を持つ人ですから、たとえば、
事を大きくしないで収めたいなんて気持ちから、
言われるがままに、
不当で過大な要求に従うような行動は、
禍根を残しかねないし、間違った対策であって、
悪くすると、後々までですね、
そのことをきっかけとして、
さらにいろんな要求を突きつけられるとか、
あるいは、何かと嫌がらせを受けるとか、
そういうことになる可能性も大だと思います。

まあ、今日は、
「相手に詫びさせたい」気持ちについて、
ちょっと、私の想像を書いてみました。

それで、「相手に詫びさせたい」っていうのは、
心に問題を持ってる人の気持ちだということだけは、
言っておきたいと思います。


心に問題を持つ人の策略には乗らないで、幸福を維持。

怒気をなだめる

02-09,2017

2017冬(41)
子どもの虐待ってこと、世の中には多いですけど、
親が子どもに暴行してる時ですが、子どものほうは、
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」って、
「自分が悪くないにもかかわらず」詫びるってこと、
まあ、世間では普通に見られるように思われます。

それで私の考えなんですが、子どもって、
どの子もどの子も、皆「判で押したように」、
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」なのは、
いったいなぜなんだろうか?
・・・という疑問なんですね。

あの、誰かを見てそのマネをするというんじゃなく、
ごく「あたりまえのように」、自然とそういうことで、
親から暴行を受けてる間、
子どもは誰もが一様に、
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」って言っちゃう、
その気持ちを考えてみまして、私の個人的推測ですが、
明日、書いてみたいと思います。

まあ、結局、それは、
親の怒気をなだめようってことなんだと思いますが、
では、どうして「ゴメンナサイ」と言うことが、
親の怒気対策になるのか・・・ってことですね。

今朝は朝から暗い話題ではありますが、
不幸を去って幸福を得る為には、
不幸の原因を考えてみることも必要なので、
お許しいただきたいと思います。

それで、今までの私は、
「親が原因となって不幸な子ども」のことを、
いろいろ考えてましたけど、
今朝、上記のようなことを書きながら、
「親のほうの問題」を何とかする道もまた、
考えなきゃ・・・と思ったことでした。


怒気を去り、和気を得る努力は、幸せな努力ですね。

怒気が噴出

02-08,2017

2017冬(39)
人を愛して生きることの喜びっていうものを、
つくづくと感じることですけれど、この人間社会、
そういう幸せが得られないという人もまた、
少なくないというのが、世の中の実情だと思います。

それで、篠原涼子主演のテレビドラマ、
「愛を乞うひと」ですけど、主人公の豊子は、
自分の子どもである照恵をぶったり叩いたり、
まあ、とにかく、暴行するんですよね。

まあ、世間には、そういう親だって居るわけで、
理由はいろいろあるのかもしれませんけど、
そのうちの一つの理由としては、
親自身の心の中に蓄積している怒りや憎悪、あるいは、
怨恨といったものを、子どもを標的にしてぶっつけて、
発散してるのかもしれないという推測もできますが、
もしそうだとすれば、
過去に、「自分をひどいめにあわせてきた、
憎い相手」に対してではなく、
自分に対して何も悪いことをしてないし、
何の罪もない自分の子に向かって、まさに、
全く不当で、理不尽極まりない虐待だと思いまけど、
でも、「怒りをぶつける」相手がいなければ、
自分自身の心に蓄積された憤怒によって、
もしかしたら、自分自身を傷つけるってことしか、
ないからなのかもしれませんね、分かりませんけど。

陰惨な話題ですけど、
続きは明日ということにしまして、やっぱりねえ、
心の中にある「悪いもの」を解消すること無しには、
幸福な気分にはなれないだろうと思ったことでした。


心、晴れ晴れとしていられることの幸福を思いました。

家族に支えられ

02-07,2017

2017冬(38)
人が社会的に活動する時・・・ですね、
仮に、その人が、
自分の家庭内で苦しい状況にあったとしたら、
世の中に出て、十分に自分の力が発揮できるか?
・・・と言いましたら、私としては、疑問に思います。

特に、家庭内に困った大問題を抱えていて、
その問題に、常時心をかき乱されているような人なら、
まずはですね、「家庭内の問題」を解決したいって、
まっ先に思うんじゃないかなあ・・・と考えます。

それで、大人だってそうなんですから、
ましてや子どもがですね、
家庭内で、心理的に不安や恐怖の毎日を過ごすなら、
それこそ、「地獄の日々」だと思うんですけど、
どうでしょうか。

そんなわけで、家族に好意が持てるし、だから、
楽しく日々を過ごせるなんていうのは、ほんとにそれ、
幸せなことだと思うことです。


今日も幸せを享受して、喜びのうちに過ごしましょう。

家族を愛せる

02-06,2017

2017冬(37)
世の中、人間関係ってほんとにさまざまで、
「楽しい人間関係」っていうのが一番幸福かなあと、
私は思うんですが、その楽しい人間関係が、
毎日顔を合わせる「家族間で」実現できてたら、
すごくいいなあと思います。

それで、
家庭内での人間関係が楽しいものではなくっても、
家族以外の社会集団とか、交友関係の中で、
喜びの人間関係が築けるというなら、
心理的に救われるという面があるとは思いますが、
やっぱりどうしても、
人生の基盤となる「家庭」においてですね、
人間関係がおもしろくないということですと、
「晴れ晴れとした心境」にはなれないみたいだと、
世間のさまざまな人間模様を見て感じる私です。

まあ、そうですねえ、ですから、
夫婦が好意を持ち合える、愛しあえるとか、
親が子どもを好きになれる、愛せるっていうことは、
幸福な人生の基盤ではないかと思う私です。

そして、「家庭内で」夫を愛せるようなら、
その妻は、他の男性に対しても良い関係が築けるし、
夫にしても、妻を愛せる男性だからこそ、
他の女性と楽しく喜ばしい交流もできるのだろうと、
私は想像します。

同じように・・・ですね、
親から「愛されている」子どもだからこそ、
よその子と良い人間関係が築けることになるんだと、
それはほんと、確信的にそう思われることです。


日々に日々に、幸福を享受して生きていきましょう。

仲良く、喜ばしく

02-05,2017

2017冬(36)
今日は朝早くから出かけてまして、
一日中たっぷり活動しましたけど、
その用事とはまた別に、
人々の会話などの中から、
新たに認識できたこともありまして、
今日思いましたことは、人っていうのは、
自分の人生、自分の個性を生きることができるのが、
幸せなことだってことでして、そう思いましたのは、
この世の中、社会的な関係でですね、
「自分を生かす」ことが全くできなくって、
「自分を殺して」生きるしかできなかった境遇を、
耐えて、耐えて、
耐え続けて生きてきた人もいるんだってことを、
認識できたからでした。

そうですねえ、自分自身の人生であるにもかかわらず、
自分が「主人公になれない」人生を送らされるって、
そういう境遇の人も、世の中には現実に居まして、
まあ、それ、何と悲惨なことかと思いました。

それで、この続きは・・・ですね、明日ではなく、
後日、機会があれば書きたいと思いますが、
「自分の思いに従って自分の人生を生きる」って、
あたりまえのことのようではありますけど、実は、
何とすばらしいことなのかと思いましたし、
だからこそ、自分も幸せに、他の人も幸せに、
人と仲良く、喜ばしく生きるってことを、
心がけ、そんなふうに「してみる」ことの価値を、
改めて思ったことでした。


みんな幸せに・・・つまりそれ、自分も幸せってこと。

上下関係

02-04,2017

2017冬(35)
私たちが生きてるこの社会は、
極楽浄土とはまるで違う面もまた、あるのが現実で、
地獄のような状況だって見られるというのが、
この世の中なんではありますけど、
それでもなお幸福に、喜びのうちに生きていく為には、
「交流する人」を選ばなければならないってことが、
どうしても必要だろう・・・というのが私の感想です。

さて、相手が自分に対して「あやまる」とか、
「わびる」といったことは、世間一般の常識では、
わびる人のほうが悪いってことで、またそれは、
立場上、わびる人のほうが、
上下関係では「下位になる」だろうと思います。

それで、社会的にですね、
指導的な立場にいる人が「おわびをする場面」って、
近頃、しばしばテレビでも見ることで、
たとえば、社長が、自社製品の不都合によって、
消費者に不利益を与えたとか、まあそれ以外にも、
いろんな場面がありますけどね、要するに、
世の中では「上の立場」にいる人が、
上役として責任を取って公衆におわびする場面、
・・なんてのが、テレビでしばしば見られます。

そうしますと、
いつもは「立派な人」と目されている人を、
「貶めた」ような気分になって、
溜飲を下げるような人も、世の中には、
いるのかもしれません。

なぜ溜飲が下がるかといえば、その時だけですけど、
わびをする人のほうが「下位に立つ」ものですから、
そういう立場関係の比較上、
「自分のほうが上位」って感覚になれるという、
まあ、そんなことかなあ・・・と想像します。

それで私が思いますに、人の中には、
「上下関係」を異常に気にするタイプっていうのが、
世間には「いまして」ですね、まあ、そういう人って、
「自分が偉くないといられない」みたいな性向が、
実に強烈だって気がしますし、そういう人とは、
「柔和な気持ちを持って」は交際できないですね、
私の感想は・・・ですけど。

あの、私でしたら、そういうタイプの人とはですね、
できるだけ「関わらない」方策を採りますけど、
それは、(1)その人と闘争して勝利を目指すか、
(2)その人に隷属して言いなりになるか、
・・・という二者択一を迫られるような事態は、
回避したいってことなんですね。
あの、そういう人と「関わらなければ」、
現実にその人は「居たとしても」ですね、
私にとっては「居ないも同然」の状況だからです。


悪魔が居たとしたら、幸福の為には、関わらないこと。

看過できない

02-03,2017

2017冬(34)
今日も私は用事がいっぱいで、
ブログが今になってしまいましたけど、
あのう、「自分は悪くない」にもかかわらず、
「ゴメンナサイ」とわびなければならないなんて、
そういうことは、不当も不当、
社会的に「あってはいけないこと」ですけどね、
でも、世の中の現実を見ますと、
そうせざるをえない状況に陥る場面もありまして、
まあ、そういうの、気の毒ではありますけど、でも、
「対抗したら自分が破壊される」ような状況では、
そうせざるをえないって現実もあったりしましてね、
「自分は悪くない」にもかかわらず、
「相手におわびをする」みたいな状況に陥ることも、
あったりするんですね、現実社会に生きてる限り。

でも、悔しいでしょうね、怒りでしょうね、
そしてまた、「自分は悪くない」のにもかかわらず、
「悪くない自分」が「ゴメンナサイ」を言わされる、
もし、そういう状況でしたら、
「はらわたが煮えくり返る」心境にもなるでしょう、
・・・と思いますね。

それでですね、親が子どもを利用して、
親の都合を満たす為に、
子どもに犠牲を強要するという親子関係もまた、
現実社会には実際にありまして、そういう場合ですが、
「親の犠牲にならない」という選択をした子どもを、
親が「悪い子」だと非難しまして、そうしますと、
子どものほうは、親に対してですね、
「自分は悪くない」のに「おわびをする」って図式、
世間にはあるんですよね、そういう構図っていうのが。

まあ今日は、話が脱線気味でして、
続きは明日にしたいと思いますが、
「悪くない」人が「ゴメンナサイ」を言う不幸は、
看過できないと思いましたので。


他人を痛めつける不幸、人と喜びを共にできる幸福。

優しく温かく

02-02,2017

2017冬(33)
まあ今日は風が猛烈で、また、冷え冷えとして、
外出先も凍るように寒かったんですけど、
帰宅して午後遅くからの室内は陽が射して暖かく、
その点は良かったです。

それで、世の中も、
ぬくもりが感じられるなんていうのが最高で、
でも、人との関係、そうばっかりはいかない面だって、
「ある」っていうのが人間社会ですけどね、
ですからせめて、家庭内とか、
親密な間柄の人々の間では、
楽しく仲良く日々が過ごせるっていうの、
それは、すごく良いこと・・・というより、
もう、「そのようにあって欲しい」ことの第一です。

でも、テレビドラマ「愛を乞うひと」に登場する、
豊子のような人だって、まあ、男女に限らず、
世間には「いる」というのが現実で、そうしますと、
子どもの悲惨は途方もないことだと思いますが、
子どもに暴行して「ゴメンナサイ」を言わせる、
その気持ちについて、勝手な想像をしてみましたが、
それはまた明日ということで。


心が優しく温かいことは、幸福の条件だと思いますが。

暗い話題ですが

02-01,2017

2017冬(32)
今日もまた私は、いっぱい用事がありまして、
ブログを書く時間が圧迫されておりますから、
短文で失礼しますが、
親から虐待されてる子、特に、暴行を受けてる子って、
「ごめんなさい」って親に詫びてる姿がですね、
世の中、普通に見られると思いますけど、そこで、
私の疑問なんですが、まあ、どの子もどの子も、
みんながみんな、一様に「ごめんなさい」と言ってる、
あの、それ、なぜなんだろうか?
・・・って、私は疑問に思っていたことでした。

あの、「ごめんなさい」っていうのはですね、
社会関係の中で、「悪いことをした」立場の人が、
「悪くない」立場の人に言う言葉なんですけどね、
でも、子ども虐待で親が子どもに暴力をふるうとき、
悪いのは親のほうで、子どものほうはと言いますと、
「悪くない」っていう場合も、現実には、
すごく多いんですよね。

でも、親から暴行されてる子っていうのは、
自分が「悪くない」にもかかわらず、
「ごめんなさい、ごめんなさい」って言うんですが、
それはいったいなぜかってことを考えてみますと、
すごい事実が浮かび上がってくる・・・と、
私は思うんですけど、それはまた明日以降に。

でもまあ、世間には「あたりまえのように見えて」、
実は、とんでもないことって、実は、あるわけでして、
子どもが親に対して、
「ごめんなさい」って詫びてる姿を見たら、
世の中一般に、
「子どもが何か悪いことをしたのかなあ」って、
「思っちゃう」みたいな傾向って、ありませんか?

それで、子どもを虐待する悪魔のような親がいて、
「ごめんなさい」と言ってる子どものほうは、
全く悪くない場合がある・・・っていう、
正しい認識を持つことができにくい場面なんてのも、
現実社会には、いっぱいあるように思う私です。


幸福への道を探る為、悲惨な現実も書かせて下さい。

身内にはひどく

01-31,2017

2017冬(31)
今日はまあ、私は、
公共の用事をいっぱい行いまして、
・・・って言いましても、
それは私の怠慢によってそうなりましたもので、
私は自分のことで忙しいあまりに、
「溜めておいた」仕事でしたからね、
今日はブログどころではありませんでしたから、
今になってしまいました。

さて、世の中、
不思議な態度の人って、いるものですね。
デパートなどで催し物が行われるときに、
アルバイトに行ってる知人がいまして、
先日、その知人から聞いた話なんですけど、
ある催し物で、その知人が担当していた売り場の人は、
他の売り場の、まあ、いわゆる「部外者」に対しては、
とっても「いい顔」をして、いろいろと物をあげたり、
親切な態度で接して、
すごく「良い人」と見せかけるようなアピールを、
熱心にするそうですけど、
肝心の「自店の売り場」で働くその知人には、
不親切だし、厳しい態度で接するってことなんですが、
その知人に対してだけではなくって、
その売り場につく販売員に対しては、誰に対しても、
同じような扱いをする人のようですね。

まあ、その話を聞きまして、私が思いましたことは、
世間には同じようなタイプの人がいまして、
たとえばですね、自分の妻にはひどくあたるくせに、
よその女性には親切そうに振る舞う人とか、また、
自分の家族以外の「外の社会」に出かけますと、
「すばらしい人」のように振る舞うタイプで、そのくせ、
家族に対してはとても冷淡で、身勝手に振る舞うとか、
そういうタイプの人がいるということは、
よく見聞することでして、実は私自身、
そういう人を知ってるんですけどね、でも、
私が知ってる人の実例っていうのは、
公開のブログですから、書けませんけどね・・・

それで、今日の話題は、標題にもしましたけど、
「身内にはひどく」、それなのに・・・ですね、
よその人(あんまり関係のない人)には親切にって、
それ、どういうこと?
・・・っていう疑問ですね。

ああ、でも、このブログは、
そういう心理の探求が目的ではないんでして、
あの、そういう態度は「不幸だなあ」ってことでして、
そして、そういう態度を「される」立場の身内の人は、
当然ですけど、さらに不幸でして、まあ要するに、
「身内にひどく」すること自体、不幸の極みだし、
また、そういう態度の人と暮らす身内の人は、
不幸を撒き散らされ、受けとめさせられる被害者で、
ですから、要するに、
「ひどくする人」も、また、「ひどくされる人」も、
共に不幸だと思いますけど、それにもかかわらず、
「ひどくする人」のほうは、
そういう態度を改めることができないわけでして、
また一方、「ひどくされる人」のほうもですね、
身内ですから、人間関係を解消させることもできず、
あのゥ、そしたら、そういう不幸な関係というのは、
どちらかが死ぬまで、解決できないことになるの?
・・・ってことですけどね、いいえ、いいえ、
私はですね、
「幸福をテーマとするブログ」を書く立場として、
不幸を離れる道を書いていければと、
あのう、それはまあ、希望であり、願いなんですけど、
でも、現実にできるかといいましたら、
? ? ? ではありますけど、でも、でも、
「死ぬまで不幸」の人生を継続する・・・なんて、
そういう人生からは脱するということが必須だと、
いやあ、ほんとにそう思いますね。

あの、不幸を背負ったまま死んでですね、
死後は地獄に行くなんて、そういう事態は回避して、
「生きてるうち」にこの現実社会の人生で、
幸福を実現してですね、死後はまっすぐに極楽浄土へ。


好意や慈愛というものは、幸福への道だと確信します。

今日は春めいて

01-30,2017

2017冬(30)
「自分は愛され、そして、
大切にしてもらえる存在」なんだって、それをですね、
言語的に明確に意識してるってことじゃなくても、
無意識のうちにですね、
そんな確信が心の内にあるっていうこと、
そして、そういう人々が集まってこそ、
健全な社会が形成され、
人と人とが幸福に生きることができるんだって、
いやあ、ほんとに私は思います。

話は変わりますが、
今朝は何と春めいた感じが充満し、そして、
空気に暖かく柔らかい湿り気もありまして、
すばらしく良い日になったことだと思います。

今は陽も燦燦で、それだけでも心はうれしく、
ああ、世の中、日々こんなふうであって欲しいし、
人の心もまた、やさしく温かくさわやかだったら、
極楽世界にいるみたいだなあ・・・と思いました。


今日も幸せを十分に享受して、喜びを生きましょう。