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ブログタイトル変更

05-27,2018

(1).jpg
前回のブログに、
「自分が思うように生きられるのは幸せ。」
・ ・ ・ と書きました。

その後、話の続きを書くつもりでしたけど、
日々、することがたくさんありすぎて、
ブログを書く余裕がありませんでした。

また、「続きを書く」ことにこだわると、
その時その時に思うことを書くことが、
できなくなります。

それで、ちょっと方向性を変えまして、
ブログのタイトルも変えまして、
「幸せに生きてる」んだし、それは、
「自分が思うように生きてる」からなので、
その日その日に思うことを、そのつど、
好きなように書くことにしますけど、
でも、今までとあんまり変わらないです。

さて、
「自分が思うように生きられる」のが、
幸福なことですけど、だからこそ、
他人に対しては、
その人の思いと生き方を尊重すること、
まずそれが、社会生活では、
基本的に大切なことだと思いますし、
世の中、そうでなければ、
互いに楽しく生きることが、
難しくなると思います。


自分を大切に=他人を尊重する
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ある人の食事作法

05-12,2018

仲春(15)
昨日の続きを書きますけど、
ウマールさんが、
400円のコロッケ定食を食べる、
その、風変わりで特殊な食べ方です。

(1)ご飯にしょうゆをかけて食べる。
   あの、しょうゆをかけただけで、
   ご飯を全部食べ切っちゃいます。
(2)味噌汁だけを全部一挙に飲み切る。
(3)キャベツの千切りを食べる。
(4)コロッケを食べる。

ウマールさんは、このコロッケ定食を、
「コース料理」と考えているそうでして、
だからこそ、順番に食べるんでしょうね。

ところで、
ご飯にしょうゆをかけて食べることから、
私は、戦前の阪急梅田百貨店での、
ソーライスの話を思い出しますけど、
それはまた、後日、書きたいと思います。

さて、ウマールさんは、
自分独自のやり方で、
コロッケ定食を食べるんですけどね、
「自分のしたいように」できることは、
ほんとに幸せなことだと思います。

あの、世の中、
「自分がしたいように」は、
できないことが多くありませんか?
まあ、そうした制約が多いというのが、
社会生活なのかも知れませんけど、
だからこそ、「思うように」、
自分流が貫けることの幸せを思います。


自分が思うように生きられるのは幸せ。

良い人間関係

05-11,2018

仲春(14)
社会生活では、
「良い人間関係」ってこと、
大切だと思いますし、
人間関係がうまくいくってことは、
幸福の条件じゃないかと思います。

それで、「良い人間関係」のモデルを、
数日前、テレビで見ました。
「YOUは何しに日本へ?」
という番組の特別版かと思いましたが、
イギリスから来日した、
ウマールさんという男性が、
足利(栃木県)まで、
コロッケを食べに行きまして、そこは、
惣菜と弁当の店兼食堂みたいでしたが、
店主の人柄と態度に、
私は感動してしまいました。

こういう人が世の中にいっぱいいたら、
どんなに幸せだろうかと思いましたが、
明日は、
ウマールさんの食事のしかたが、
あんまり変わっていて独特だったので、
そのことを書きたいです。


良い人間関係は、幸せの源と思います。

今を楽しむ

05-10,2018

仲春(13)
このブログでは、ヴェルディの歌劇、
「ナブッコ」の話を、
何度か書いてきました。

それで私は、歌劇を聞く(見る)とき、
ストーリー展開を追うなんてことは、
全くいい加減にしてまして、
それより「歌を聞く楽しみ」のほうが、
大きいんですよね。

ですから、ナブッコ第3部で、
劇の進行を中断して、
ヘブライの捕虜たちの合唱が、
二度歌われるなんてことは、
とにかく歌が感動的なので、
繰り返し聞けるのは喜びですからね、
二度聞けたらうれしいことでして、
同じように人生もまた、私としては、
望ましい展開なんてストーリー性を、
ほとんど考えてませんで、
そんなことより、今、幸せが喜べる、
そういう状況を生きられるのが良くて、
でも、そういう生き方を批判する人も、
世の中には多いでしょうねェ、
なにしろ、
「人、遠き慮りなければ、
必ず近き憂いあり」と言われますから、
私の態度なんてのは、
ダメな態度なんでしょうねえ。

また、私のような考えや生き方では、
現代社会は、
うまく回っていかないんでしょうね。

ああ、だからこそ、現代社会は、
ストレス社会なんでしょうか?

さて、それはそれとして、私としては、
心優しく温かく、おだやかな気持ちで、
「今」を楽しめる生き方なんてのは、
とっても幸福だと思いますけどね。


「憂いあり」と断定するのは幸福の放棄。

筋書きづくり

05-09,2018

仲春(12)
世の中には、
「筋書きづくり」をして生きる人って、
多いのかも?
・・・って思いました。

どういうことかと言いますと、
自分は○○を成し遂げたいとか、
あるいは、自分の子は、
○○の学校に行かせ、
○○の職業につかせ、
○○の地位を獲得させるとか、
そういうシナリオを創作して、
自作のシナリオに合わせて、
人生を歩もうとする人ですね。

まあ、私は、そういうやり方は、
好きじゃないんで、
どうしてかってことは、
明日書ければと思います。

でも、結論的なことを言いますと、
プログラムをあらかじめ決めちゃうと、
その場その場で起こってくる、
「今の感情」を無視しちゃうってことが、
多くなるだろうと思いますし、
そうであればつらいことですし、
結局、自分で自分の首を絞めるみたいな、
哀れなことになる恐れが、
絶対あると思うからです。


今の思いや感情を大切にできたら幸福。

普遍的な感動

05-08,2018

仲春(11)
「歌劇を見る楽しみ」の中には、
「歌を聞く」喜びもあると思います。

でも、歌を聞くだけなら、
「歌だけ」の演奏会でも聞けますけど、
でも、歌劇で聞く歌というのは、
「歌だけ」を単体で聞く喜びの他に、
ドラマの中でこそ意味を持つ歌として、
ドラマ展開の中でですね、
歌の意味を味わって聞けるという、
歌劇ならではの楽しみもあると思いまして、
ですから、「歌を聞く喜び」が、
一層、増すという面もあると思います。
ストーリー展開の中で聞くわけですから。

でも、そういうストーリー展開も、
さらに「歌の意味」すらどうでもよくなり、
メロディーの美しさに酔えるってことも、
歌劇ではあるわけなので、
ストーリーを離れての、
そういう聞き方もすごくいいし、
喜びだと思います。

つまり、歌劇においては、
劇中でその歌が歌われる「意味があって」、
だから、そのストーリーの中でこそ、
意味を持つし、生かされる歌なんですけど、
でも、それにもかかわらず、
「劇を離れて」も、
単体で感動できる歌もありまして、
まあ、すばらしいものですね。

さて、別の話をします。
人の行動は、その場で何か意味があって、
だからこそ行われる行動だと思いますけど、
でも、その場を離れ、全く無関係の場でも、
「その行動自体」が人を感動させることも、
実際にあると思う私でして・・・

あの、そういったこと、
今日は説明の言葉が足りませんで、
思うように表現できませんでした。


態度や行動が感動的だっていうのは幸せ。

幸せな人間関係

05-07,2018

仲春(10)
すでに書いておきました記事を、
今日は掲載しますけど、でも、
今日思いましたことは、
「自分がうれしく、
喜びのうちに生きられる」ってことが、
結局は、他の人との関係でも、
幸せな関係が築けるってことでして、
でもまあそれは、また別の機会に、
詳しく書きたいと思います。

さて、以前に書いた記事の続きですけど、
パタゴニアで家に客が来た時の、
マテ茶の供し方のことなんです。

テレビで見た限りでは、
主人がマテ茶を容器に作り、
吸い上げる道具を使って主人が飲んで、
次に、それを客に手渡すんですね。

ですから、客は、主人が飲んだ容器から、
主人が使った吸い上げ道具で、
飲むことになるんですね。

ところで、日本の茶の湯なんですが、
濃茶をいただく場合は、
自分が飲んだ飲み口を「拭いて」から、
次の客に渡しますから、
「同じ茶碗」から、
「同じ茶」をいっしょに飲むといっても、
「口を付けた部分」を、
飲んだ後に「拭く」というところが、
マテ茶と異なる点だと思いますけど、
そんなことはたいした差異ではなく、
「同じ器から同じ飲み物を共に飲む」
・・・という点では同じだと思いました。

また、茶の湯での懐石、
その杯事においては、
相手の盃を乞うて、
相手の盃で酒をいただくということ、
つまり、「お流れ頂戴」が行われまして、
この「お流れ頂戴」は、
濃茶を一碗から共にいただくことよりも、
もっと濃密な関係だと思いますけど、
話が脱線して逸れすぎますので省略します。

それで、そういうことができるって、
例えば相手の人が「大嫌い」だったら、
不可能じゃないかと思いますから、
相手を「受けいれる」気持ちがあるって、
私は感じました。

そして、「回し飲み」のようなことが、
社会的に行われてるってことは、
人と人との分け隔てを、
あんまりしない世の中なんだろうと、
そんなふうに考えていいかなあって。

ところで、先日、
大奥に関するテレビ番組を見ましたが、
生まれた若君様(赤ちゃん)に、
お乳を与える役の女性ですけど、
若君様の尊顔を拝するなんて、
低い身分の女性にとっては、
畏れ多いってことなんでしょうか、
顔を布で覆うようにさせられて、
若君様を見ないように授乳したとか、
びっくりする話が紹介されてまして、
まあそれほどに、お乳をあげる女性と、
赤ちゃんを「分け隔て」するという、
それは、何と不幸な社会なんだろうか、
酷な環境なんだろうかと思いました。
私が赤ちゃんだったとしたら、
覆面の女性からお乳をもらうなんて、
嫌だと思うんですけどね。

ところで明日は、
「ナブッコ」の話に戻りまして、
続きを書きたいと思います。


人と人とを「分け隔てない」のは幸福。

お客様と楽しく

05-06,2018

仲春(9)
この連休中、お客様があったりで、
ブログを中断してしまいました。

それで、お客様が見えたとき、
どんなふうにするのがいいかってこと、
普段は全く無意識でしたけど、
今回、改めて考えてみました。

私が思いますところでは、
「すばらしいおもてなし」をするより、
「自分が」ですね、
お客様といっしょに、
「楽しく過ごす時間が持てる」という、
その喜びが享受できるよう、
そういう気持ちで接するのが、
一番かなあって思ったことでした。

あの、拙宅でのことですから、どうせ、
「すばらしいおもてなし」なんて、
不可能なんですから、
できないことを、
無理してしようと背伸びするより、
等身大の自分で、
素のままでいいかなあと思いました。

それで、次回こそ、マテ茶の話、
続きを書きたいと思います。


「気が楽」なのって、ほんとに幸せ。

マテ茶の供し方

05-03,2018

仲春(8)
昨日予告したのとは違う内容を書きます。
それは、パタゴニアでのマテ茶の飲み方を、
テレビで見たからです。

客として他人の家を訪問した時、
テレビで見たようにして茶を供されたら、
現代日本の人の中には、
「嫌がる」人が多いんじゃないかなあと、
想像したものですから、
その話題にしてみました。

まあ、パタゴニアに限らず、
アルゼンチンチンには、
そういう茶の供し方というか、
あるいは作法というのがあって、
テレビで初めて見ましたけど、
茶の湯での「濃茶」の作法と、
考え合わせちゃうことでした。

今日は時間的余裕が無いので、
これくらいにして、
明日、続きが書ければと思います。



茶の湯の濃茶作法に良さを感じる私です。

再びまた歌う

05-02,2018

仲春(7)
私は、ワーグナーが大好きですけど、
観客の拍手が鳴り止まず、
再びその歌を「もう一度」なんてことは、
想像できませんし、第一、そういうことは、
ワーグナー自身が意図することではないと、
私は想像します。

それで、ワーグナーを聞くときの心構えは、
おのずと、他の作曲家の作品を聞く時とは、
「異なる」んですよね、必然的に。

でも私は、例えばヴェルディも大好きで、
昨日書きました「ナブッコ」第3部、
ヘブライ人の捕虜たちの合唱なんか、
もう、心に染み入る感動の音楽でして、
それを聞きたいばっかりに、
ナブッコ全曲を聞くハメになるわけで、
じゃあ、その合唱部分だけ聞けば、
それでいいじゃないか・・・って、
そういうことでは全くないんですよね。

あの、「ナブッコ全曲を聞く」中で、
その部分があるっていうのがいいわけで、
「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」
とか、
「行け、思いよ、金色の翼に乗って」、
また、金色じゃなく「黄金の翼」とか、
そんなふうに邦訳される歌い出しの合唱、
それが、「劇中で」歌われるのが良いので、
たとえば歌劇とは無関係の演奏会で、
ヘブライ人の合唱部分だけが演奏されるの、
それも、感動は感動なんですけどね、
でも、でも、でも、
ナブッコの劇中で演奏される、
それがいいんであって、しかもですね、
「劇を中断して」、その歌だけを、
劇の進行なんか無視して、
感動のあまり、もう一度歌われるっての、
それ、すごくいいなあと思いますけど、
テレビで見ても感動ですから、
実際見ていた観客には、
さらに感動だったことだろうって、
想像しました。

この続き、また明日にします。


歌を聞いて感動できるのも幸せですね。

捕虜たちの合唱

05-01,2018

仲春(6)
https://youtu.be/xgMmBF5_EBs
上記で、ヴェローナ野外オペラ2017、
「ナブッコ」の第3部で歌われる、
ヘブライの捕虜たちの合唱を、
聞くことができます。

私は、テレビで、
ヴェローナでのナブッコ上演のうち、
去年のが放送されることを、
放送直前に知りましたので、
チャンスとばかりに・・・見ました。
特に、捕虜たちの合唱が良かったです。
・・・と言うより、
捕虜たちの合唱が聞きたいばっかりに、
ついでに他の部分も聞くと言うのが、
偽らざる心境です。

さて、その合唱は、
2回繰り返されて上演されましたが、
上記の動画には、最初の1回が、
記録されています。

なぜそんなに良かったのか、
また、感動したかということは、
明日、書きたいなあと思います。


音楽の喜びでも幸せ感って起こりますね。

今が心地良い

04-30,2018

仲春(5)
「今」が心地良いっていう感覚は、
すばらしいし、幸福なことだと思います。

それで、「今が心地よい」からこそ、
さらに高い段階を求める気持ちが、
起こってくるんだと思います。

いろんな用事が次々とありまして、
ブログをずいぶん中断してしまいましたが、
多忙でもブログを書くことは喜びなので、
また続けていければと思っています。

今の季節の写真を撮る暇もありませんから、
添付写真はまだ寒い頃撮影しておいたのを、
しばらく使わせていただきます。


余裕があれば幸せですが、暇が無くても。

地獄的生育環境

03-22,2018

s-仲春(4)
暴行する親は恐怖でしょうが、
「暴行しない」けど恐怖の親って、
世の中には、いっぱいいるだろうと、
それは想像すると言うより、
現実のことだし、社会の実態ですね。

世間には、ずるい人、陰険な人、
悪巧みを行う人、詐欺を働く人、
魔性を隠して善人を装う人なんて、
たくさんいますけど、そういう人は、
現世的な「利益を得る」という反面、
心を地獄に落としてるというか、
地獄の住人そのものなので、
いわば、生きてる今が地獄そのもの、
・ ・ ・ という人種だと思います。

あの、それじゃあ、幸福から遠くて、
不幸そのものなんですけど、それも、
当人が「自ら選んだ道」なので、
その人の責任ですね。

そして、気の毒なのは、
そういう人が、
親とか養育者だった場合ですね。
子どもは、どうしても、
不幸体質に育っちゃうかなあって、
ほんとに思うことです。

さて、こういう種類の話題は、
とてもたいへんと言いましょうか、
書くのに困難を感じますから、
今日はこれくらいで、
続きはまた後日に ・ ・ ・


親が健全だと、子どもにも幸福が。

恐怖の親

03-21,2018

仲春(3)
参院予算委員会集中審議の場で、
答弁に立った公務員について、
ある議員が、
「まさかとは思うが」と前置きし、
「アベノミクスを潰すために
 安倍晋三政権をおとしめるため、
 意図的に
 変な答弁してるのでないか」と
ただしたそうですけど、私は、
テレビでその場面を見ていません。

その公務員は、
「私は公務員としてお仕えした方に
 一生懸命お仕えするのが
 仕事なんで、それをやられると、
 さすがにいくらなんでも
 そんなつもりは全くありません。
 それはいくら何でも、
 それはいくらなんでも
 ご容赦ください」と言った、
・・・みたいですけど、
今日私が書きたいのは、
そのニュースのことではなく、
そこから私が連想したことです。

まあ、社会的な場面において、
政権を貶める目的で、
わざと変な行動をしてると、
公務員が認定されたとしたらです、
その公務員の職業人生って、
「終わり」になりません?

また、相手に対するそんな推定を、
相手に向かって問い詰めるっての、
? ? ? ですけどね、
私の感覚では・・・ですけど。

さて、全く別の話になりますけど、
日曜に見た韓国歴史ドラマの中に、
政敵グループを壊滅させるために、
ありもしない「謀反」を、
でっちあげる場面がありまして、
でも、世の中、そういうことって、
現実にいっぱいあると思います。

次に、家族間のことなんですけど、
親の中には、子どもに対して、
「絶対権」をふるいたい為に、
ほんのわずか、針の先ほどでも、
「親の意向に合わない気持ち」を、
子どもが持つことを厳禁する親が、
実際にいるんですよね。

そうしますと、子どもにとっては、
戦々恐々、日々が戦場そのもので、
親の意向にそぐわない態度は、
その場で断罪され、
「生きていけなくされる」恐怖で、
ガチガチに固まってる子っていうの、
広い世間ですから、例があります。

そういう子って、
親から「疑われないように」と、
その対策だけで生きてるのかな?
悲惨な状況だと思いますけど、
今日は、このへんで終わります。


「恐怖の親」は、子どもの大不幸。

服従人生の不幸

03-20,2018

仲春(2)
昨日は、
「○○してはいけない」ってことが、
人を苦しめる原因になることを、
ちょっと書きましたけど、
世の中には、
さらに残酷なことがありまして、
たとえば、「していけないこと」を、
「やれ」って命じられることですね。

一つの例ですが、
森友学園への国有地売却に関して、
決裁文書が改ざんされたそうでして、
自殺した財務省近畿財務局職員が、
上からの指示で、
「書き換えをさせられた」という、
メモを残していたということですね。

全く悲惨なことでして、社会には、
そういう側面が実際にありますけど、
家庭内ですと、さらに程度がひどく、
親が子どもに対して、
「○○してはいけない」ってことで、
日々に禁止事項を連発し、
子どもをがんじがらめに縛りながら、
その一方で、
「あれしなさい、これしなさい」と、
命令、命令、命令を重ねてる家庭が、
現実にありますからね、子どもには、
「地獄そのもの」でしょう、家庭が。

あの、公務員として、
「やってはいけない公文書改竄」、
それを「命じられて」行ったあげく、
自殺に至ったのが「大人」ですから、
ましてや子どもがですね、
親とか養育者の強大な権力によって、
「あれはダメ、これもダメ」と、
禁止事項に圧迫されながら、同時に、
「あれしなさい、これしなさい」と、
リモコンロボットと同じく、
意思に反して動かされる毎日では、
心が壊れていくのはあたりまえだと、
私は思いまして、今日は、
子どもの心が壊れていく不幸を、
ちょっと書いてみました。


「自分を生きられる」のが幸福だと。

日々に多忙で

03-19,2018

仲春(1)
日々に多忙で、
ブログを何日も休んでしまいました。

けれど、書きたいこともあるので、
今日はちょっとだけ書きますけど、
結局、「人を大切にする」ってのが、
幸せのために一番必要かなあって、
ここ数日は、ほんとに感じてます。
まあ、今までも、
「人を大切に」ってことは、
何度も書いてきことではありますが。

それで、
「人を大切にする」っていうのは、
「他人を大切にする」ことですけど、
同時にまた、
「自分を大切にする」ことであって、
そうですねえ、「自分の気持ち」を、
素直に感じてみるってことは、
とっても重要なことだと思います。

あの、「好いとか悪いとか」、
そういう善悪の判断や批判を離れ、
「ありのままの自分の気持ち」を、
感じてみるのがいいと思いますが、
今日はこのへんで。


「自分を批判する」のは不幸だと。

社会規範

03-13,2018

早春(23)
昨日に続いて映画の話ですけど、
マウロが呼んだゴンドラに乗って、
一夜の情事に出かける二人に、
マウロは挨拶します。
「ボナセーラ セニョーラ、
 ボナセーラ セニョール。」

その言葉を、映画の字幕では、
「二人とも楽しい夜を」って、
訳してるんですけどね、それ、
「意訳のしすぎ」だと、
私は思うことですけど、でも、
心情的には、
そんなことだろうと思いますし、
ここで書きたいことは、
二人の情事に対して
「肯定的だ」ということです。

ところが、映画の主人公、
ジェーンの気持ちとしては、
よその新婚夫婦の夫のほうと、
フィオリーニ夫人の情事ですから、
完全に否定的ですね。

あの、肯定的とか否定的と言うの、
それ、「社会的なこと」でして、
結局、世間に「認められる」か、
「認められないか」ってことが、
問題になってるかなあ?
・・・と私は思うんですけどね、
つまり、「結婚」という形とか、
社会規範みたいのが無ければ、
夫だとか妻だとか、あるいは、
他人の夫かどうかなんてことは、
問題にならないと思いますけど。

あのう、私が言いたいことは、
世の中のしきたりみたいのに、
人は、すごく影響を受けてると、
そういうことなんですね。

それで、行為の善悪問題を、
ここで議論したいわけじゃなく、
人は「規範」と「本心」の間で、
苦しんだりすることがあると、
そういうことが言いたいわけで、
続きはまた明日に。


本心が発揮できると幸せですけど。

ある倫理観

03-12,2018

早春(22)
映画「旅情」の話を続けますけど、
主人公のジェーンは、
フィオリーニ夫人が経営する、
ペンシオーネに投宿するんです。

そのペンシオーネには、
アメリカ人の客も滞在してまして、
滞在客の中には、画家のエディーと、
その妻もいるんですけど、二人は、
まだ新婚じゃないかと思いました。

そして、ある夜のことですが、
フィオリーニ夫人とエディーは、
共に一夜を過ごすために、
ゴンドラを呼んで出かけるわけで、
まあ、ベネチアですからね、
タクシーは走ってませんから、
「ゴンドラ」で行くんですよね。

そのゴンドラを呼ぶ役目をしたのが、
マウロという孤児で、
子どもにとっては多額の、
報酬をもらったわけですけど、
主人公のジェーンは、
そういうマウロを叱るんですね。

情事のためにゴンドラを呼ぶ、
マウロがそういう役をしたという、
そのことに対してなんですけど、
それは、ジェーン自身が、
「社会的に許されない」行為だと、
感じているからだし、世の中、
そういうことは「いけない」って、
倫理観を持ってるからかなあと、
私は思いました。

ところで、この話、
奥が深いので、また続けて・・・


「私は悪い」と錯覚するのは不幸。

個人を大切に

03-11,2018

早春(21)
「まるで異なる世界」っていうの、
体験するような機会は、日常では、
ほとんどないかなあと思いますが、
映画「旅情」は、主人公が、
「異なる世界」で体験したことを、
描いてるんだなあと思いました。

その「異なり方」なんですけど、
社会的なことがらとか考え方が、
主人公の暮らすアメリカとは、
あまりにも違っているというか、
そうですねえ、「異文化」社会に、
主人公が紛れ込んだみたいな、
そういう印象を受けた私でして、
映画の最初のほうでは、まず、
「視覚的に」主人公の社会とは、
「異なっている」様相を見せる、
そんな映画の作り方じゃないかと、
私は思いました。

駅で汽車を降りた主人公は、
ホテル(ペンシオーネ)に行こうと、
タクシーを探すわけですけど、
ベネチアにはタクシーが無く、
「ゴンドラ」か「バス」だって、
彼女は初めて知りまして、
結局、バスに乗るわけですけど、
その「バス」というのが、何と、
「船」なんですよね。

それで私は、日本舞踊の演目、
「乗合船恵方万歳」のことを、
すぐさま連想しましたけど、
江戸時代の乗合船って、まさに、
現代のバスそのものですよね。

話を元に戻しますけど、
水路には「信号機」があって、
信号に従って進むというの、私は、
びっくりしてしまったことでした。

あの、そういうの全部、
「目に見える」形で、
ベネチアが「他の地域」とは、
「異なった場所なんだ」ってこと、
印象付けようとしてるんだろうと、
私は想像しましたけど、映画では、
さらにダメ押しするように、
消防艇の出動風景が描かれます。
しかも、消防艇が2艘、念入りに。

あの、「水の都」ですからね、
水は豊富・・どころが有り余って、
でも、消火には水が必要で、
いやあ、おもしろいですねえ、
消防艇を2艘も出動させた演出、
あのう、VENICE 、それは、
City of ROMANCE だと、
そう言うわけでしょうけど、
個々の人って、ROMANCEを、
やっぱり、求めちゃうし、また、
必要なのかもね。

それで、ベネチアが、
「ロマンスの都」という、
「一般性」を持っていたとしても、
「一般性」というのは、
個人もそのようだということでは、
全くありませんから、それで、
「個人」はその人の独自性を持ち、
世間一般の中に、
うずもれる存在なんかじゃなくて、
あくまでも、その人だけの、
個性を持つ存在だってこと、
そのことを強く感じる私ですが、
でも、個人の考え方ってものは、
その人が生きてる社会の影響を、
ものすごく強く受けてるってこと、
それもまた、間違いないことで、
この「旅情」という映画、
「個人のほんとの思い」が、
社会の強い影響を受けることにより、
「達せられない」現実を描いてると、
私は思いました。

続きはまた明日、
書ければと思いますが・・・

個人が大切にされる社会ですと幸福。

年度末

03-10,2018

早春(20)
ここのところずっと、
日々に日々に多忙に多忙、
ブログどころではなかったんですが、
やっと今日は土曜日、
ホッと一息できまして、
そうしましたら、
春ですねえ、春ですねえ、
「春になった」って雰囲気いっぱいで、
そういう自然界に心を遊ばせるという、
わずかに心をゆったりさせるヒマ無く、
用事に追われてたってことでして、
そういうのはやっぱり、幸福からは、
ちょっと遠かったかな?

そんなわけで今日、「ちょっと一息」、
それはいいんですけど、私は花粉症、
症状がきつく出ていて、つらいです。

・ ・ ・ が、心は「春ののどけさ」を、
保ちたいところです。
(多忙で、それが叶いませんけどね。)

思いますけど、一番の幸せは、
「他の人が喜ぶ」ことを、
「自分の喜び」にできるってことで、
そういう気持ちを、身近な人に対して、
具体的には、家族だとか、仲間だとか、
恋人だとか、片思いの人だとか、
そういう人が、喜ばしく、
楽しく過ごせるように願う気持ちを、
自分自身の心の中に持てるってこと、
それは、ものすごく幸せなことだと、
私は思いまして、今日書くことって、
そんな程度ですけど、また明日、
ブログを書く時間的余裕が、
あればいいと思うことです。

「ゆったりできる」心境は幸せですね。

自分らしく生きる

03-03,2018

早春(19)
このブログ、一週間以上、
お休みしてしまいましたけど、
インフルエンザとかじゃなくって、
単純に「することがいっぱい」で、
ブログまで手が回らなかったので、
でも、余裕ができたわけじゃなく、
相変わらず次々と用事なんですが、
ブログを書く時間っていうのは、
気持ちの上で「ほっと一息」、
自分の思いに浸ってられる時間で、
それがまた、いいんですよね。

あの、「自分の思い」に従って、
「自分自身を生きる」っていうの、
それはすごく幸せなことなんだと、
ほんとに思う私でして、ですから、
「自分の思い」じゃなくって、
「他人の気持ち」を優先するって、
本末転倒の、不幸なことだなあと、
私は思います。

ですから「他人の目」を気にして、
「世間体を繕う」なんて生き方は、
自分をおろそかにして「他人中心」、
自分をないがしろにする態度なので、
自分で自分を不幸に追いやることと、
私は思います。

それで、先月22日は、
映画「旅情」で、主人公が、
ベネチアという「異界」に到着した、
そこまでを書きましたけど、
主人公の彼女にとって「異界」とは、
「他人の目」を気にすることなく、
「自分の思い」が優先できるという、
まさにその意味で、
「異界」だったのではないかと、
それは、映画を見終わってからの、
私の感想ですけど、その映画の話、
続けて書いていきたいです。

あの、人は社会生活を営みますから、
世の中のしきたりに反することって、
できない面もありますけどね、でも、
「世の中」と「自分自身」と、
どっちが大切なの?・ ・ ・ って、
その問題を問うことにしましょう。


「自分らしく」生きることの幸せ。

異界に到着

02-22,2018

早春(18)
映画「旅情」が始まって間もなく、
相席の男性が主人公に言います。
「人によって、
感じ方は違うものだ」・・・って。

いやあ、ほんとにそうですよネエ、
世の中、人は皆「違います」から、
同じできごとに対しても、それを、
「どう感じるか」ってことは、
人それぞれ、違って当然ですよね。

それで、その男性は言います、
「にぎやかだから、
 騒々しいと言う人もいるが、
 大半の人は気に入る」って・・・

すると主人公はすかさず反応します。
「私も、大半に属するでしょうね。」

そうですねえ、主人公の彼女、
にぎやかなベネチアを、
自分も気に入るだろうってことを、
「信じて疑わない」ですね、
この段階では ・ ・ ・

でも、でも、「違うんです」ね、
ドラマの展開は。

あの、「にぎやか」という一言で、
映画は、ベネチアの「特色」を、
端的に表現してるわけですけど、
実は、「にぎやか」っていうのは、
ベネチアの特色のごくごく一部分、
主人公が暮らすアメリカ社会とは、
「あまりにも異なる」異界であって、
特殊な社会なんだってことでして、
でも、ベネチア社会を読み解くのが、
この映画の目的じゃありませんから、
「にぎやか」って一言で済ませて、
非常に単純化させてるわけでして、
映画ではこの後、ベネチアの街が、
どれほど「異界」なのかってこと、
特に主人公が住むアメリカ社会とは、
あまりに隔たった社会だってことを、
映画は「目に見える形」で、
観客に示すわけで、いやあほんとに、
「映画作りの手法」っていうことを、
学ばせてもらえる作品だと思います。

あの、今日はこのへんで打ち切り、
また明日にしますけど、
主人公の乗った汽車が、
ベネチア・サンタ・ルチーア駅に、
まさに到着して停止した瞬間って、
蒸気機関車の車輪大写しの画面で、
その映像によって、異界に到着した、
その心理的興奮というか、高揚感を、
的確に表現してるんじゃないかって、
そんなふうに私は観ました。

以上の文章、
昨日掲載するはずでしたけど、
いろいろと用事ができまして、
インターネットに接続できず、
今日になってしまいました。

今日は曇って寒い日になりまして、
まあ、そういう日もあるわけで、
でも、楽しいこともあった今日で、
総合的には今日も幸福、
ありがたいことです。


「喜べる」ことはほんとに幸せ。

楽しみたいけど

02-20,2018

早春(17)
昨日は、「映画製作のテクニック」
なんて表現をしましたけど、私は、
映画「旅情」の冒頭部分で、
主人公のジェーン・ハドソンと、
向かい合わせの座席に座っていた、
一人の男性の言葉にですね、
映画のテーマが示されてるという、
その技法にびっくりしたことです。

その男性は、主人公が初めて、
ベネチアに来たことを知って、
彼女に言います。
「君も楽しめるといいね。」

主人公は、
「もちろん楽しみたいわ」って、
即答するんですけどね、でも、
その次がまた映画製作の手法だと、
私は思ったんですけど、彼女は、
「楽しめない可能性もある?」
・ ・ ・ って問い返しましてね、
いやあ、それ、それ、その反応、
意味深、意味深、心理がすごくて、
また、彼女にそう「問わせる」、
その脚本づくりが巧みだと・・・

あの、結局、この映画
主人公の彼女は、
「楽しめない」ことになりまして、
哀愁の結末を迎えるわけですけど、
全くこの映画、
世の中の多くの人々の心情に、
訴えかけるものがあったからこそ、
評判になったんだと思いますけど、
あの、「楽しむ」ってことですが、
人は社会生活を営んでますから、
その「楽しい行為」がですね、
世間的に「許されない」場合は、
そうした楽しみは「否定される」、
いや、否定される程度を超えて、
非難され、ひどいめにあわされる、
そんな結果になるようなことって、
世の中には、あるように思います。

それで、明日のブログなんですが、
「楽しめない可能性」って、
たとえばどんなことがあるのか、
そんなことから書いてみたいです。


喜びが許されないなら幸福でない。

ロマンスを求め

02-19,2018

早春(16)
2月16日に続いて、
映画「旅情」の話ですけど、
映画の冒頭に近いところで、
ベネチアの観光パンフレット(?)
・・・らしいものが写るんです。
それ、主人公の、
ジェーン・ハドソンの持ち物で、
表紙を見ますと、
次のような文字が見えました。

VENICE
City of
ROMANCE

その表紙が写ってる時間は、
7秒くらいと思いましたけど、
その7秒にですね、主人公が、
「何を求めているか」という、
深い深い心の内側の真実を、
映像として表現してるという、
映画製作のテクニックみたいなの、
いや、ほんと、勉強になりました。

そして、人は、
社会的に生きてますからね、
自分が真実、心の底から求めてる、
切実な願いは何かってことを、
世間の人に「察知されないよう」、
「隠してる」みたいなことって、
言い過ぎかも知れませんけど、
でも、そういうことって、
「ありませんか?」ということ、
聞きたいんですけど、私の場合は、
「あります」ね、ほんとのところ。

まあ、話が飛躍して、
本筋から逸れないよう、
元に戻しますけど、
「ロマンスを求める」って、それ、
「私だって」ほんとに心の底から、
ありますね、そういう気持ち・・・

まあ、続きはまた明日。


ロマンスは心躍り、輝く幸福感が。

今日も目いっぱい

02-18,2018

早春(15)
今日も出かけて、
いろいろ楽しい体験をして、
帰宅すればすることがいっぱいで、
まあ、フル活動でしたから、
ブログはまた明日ってことで、
「充実」と言えば充実ですけど、
だから一番幸せだったかと言えば、
「ゆっくりできる」ことも幸せで、
ですから、世の中、
「○○だったら幸せ」みたいには、
言えない面もあると思いまして、
でも、「くたびれた」こともまた、
楽しく活動したことの結果なので、
「よかった」一日と言えるでしょう。

そうですねえ、
間違いなく幸福だったことは、
社会的な「人との関り」で、
今日も楽しく過ごせたってことで、
そういうの、私としては、
最も望ましいことですね。


今日出会えた人々に感謝で、幸福。

責められる恐怖

02-17,2018

早春(14)
今日の平昌オリンピック、
フィギュアスケート男子フリー、
羽生結弦選手ですけど、
彼の演技が生中継放送される直前、
テレビの前を離れた人がいまして、
「見ることができなかった」って、
その理由を後で聞きましたけど、
まあ、何でしょうねえ、彼が、
「失敗する姿」が「見られない」、
あの、「見られない」というのは、
変な表現ですけど、その人は、
「失敗したらたいへんだ」という、
心配を通り越して「恐怖」、
まあ、まさに恐怖を感じたので、
テレビ中継が見られなかった、
どうも、そういうことみたいで、
それ、その人自身のことじゃなく、
「他人のこと」ですけどね、でも、
まるで「自分のこと」みたいに、
感じちゃったわけなんでしょうか、
その人、「失敗したら叱られる」、
その恐怖が半端じゃないみたいで、
ですから、「羽生選手」という、
自分と関係ない他人のことですが、
それでも、我がことみたいに感じ、
「極度の恐怖」に陥ったみたいで、
全くねェ、「感情」関連のことは、
理屈では判断できないことだって、
ほんとに思ったことでした。

羽生選手が金メダルでしたから、
その人はやっと、
羽生選手の演技を、
テレビで見ることができまして、
その実例によって、この世の中、
「できない」とか、
「期待に添えない」って理由で、
「責められる」と言うか、
精神的に負担を感じちゃう人が、
いるんだってことで、
その深刻さを考えたことでして。

あの、人は確かに、
社会的に生きてますけどね、でも、
「誰かの欲求をかなえるため」に、
他人の欲望を充足する道具として、
生きてるわけではないんですけど、
でも、世の中には、自分はですね、
たとえば、「親の願い」を、
「かなえなければならない」とか、
そんなふうに思ってる人って、
いませんか?
・ ・ ・ ってことなんですよね。

この続き、
明日書ければと思いますが、でも、
明日になってみなければ、
実際そうできるかどうか、
わかりません。


自分の願いで生きられるのが幸福。

ほんとの気持ち

02-16,2018

早春(13)
今日は旧暦元日ですから、
太陽を添付写真にしてみました。

さて、映画「旅情」というのが、
テレビで放送されましたので、
どんな映画なのか全く知らずに、
旅行の話(?)程度に思って、
たまたま見てしまいましたけど、
まず、最初のシーンが、
蒸気機関車の客室でしたから、
印象的でした・・・というか、
ずいぶん昔の映画なのかなあと、
それが最初の感想でしたけど、
なんか、いっぱい、
考えちゃうことがありました、
その映画を見たあとですけどね。

それで、昨日のブログに、
「自分が楽しい」ってこと、
書きましたけど、その映画は、
「自分の思いを断つ」ために、
旅行先から去るというのが、
最終シーンになってまして、
ええっと、今のところ、
何と言ったらいいかわからない
・ ・ ・ という状態です。

そうですねえ、
「ほんとの自分の気持ち」が、
社会的に許されないというか、
まあ、結局、
ヒロインが生きる世の中では、
彼女の恋心を叶えることって、
「許されない」からでしょうか、
彼女が「自粛」する格好で、
苦しい結末になってましてね、
旧正月元日ですから、
めでたい話だと良かったですが。

でも、
「ほんとの気持ち」ってことを、
考えてみる材料になってまして、
明日、続きを書いてみたいですが、
「ほんとの気持ち」が、
「満たされる」ようでしたら、
幸福だと思いますけど、
社会生活を送る上では、
ほんとの気持ちが出せないような、
現実もいっぱいあると思います。


ほんとの気持ちで行動できる幸福。

自分が喜ばしく

02-15,2018

早春(12)
今日は、旧暦の大晦日ですね。
それで、「年越しソバ」、
食べてみようかなということで、
食べましたけど、悪縁や災いを、
「断ち切る」って意味のようで、
でも、今の私には悪縁もないし、
災いも特にありませんから、
ほんとに感謝で幸せなことです。

まあ、社会的なニュースには、
良くない事件もいっぱいですけど、
でも、だからといって、
それに合わせて自分もまた、
苦しまなきゃなんないなんてこと、
ありませんからね、それよりも、
世の中の「喜ばしいこと」に、
自分の意識を向けて、
周囲の人々といっしょに、
幸福に過ごすようにしていくのが、
一番いいかなあと思うことです。

そして、「自分自身の現状」が、
「いいなあ」と感じられる日々を、
自分で楽しめるってことでしたら、
他の人に対してですね、
険しい心で接するなんて態度には、
ならないはずですからね、
「自分が楽しい」ってことが、
他の人にとっても良いことだって、
そんなふうに考える私です。


「自分が幸福」=「他人も幸福」

犠牲が過ぎる人

02-14,2018

早春(11)
昨日は、体面を気にするってこと、
ちょっと書きましたけど、
「体面」って何でしょうね?

さて、世の中には、
いわゆる「世間体」を、
異常に気にする人がいまして、
実際私も、そういうタイプの人を、
何人か知ってますけど、共通して、
「他人の目」から見た自分の姿を、
意識しすぎのように感じられます。

あの、「自分がしたいこと」を、
優先するってことをしないで、
「他人はどう思うか」ってことを、
重視するんでしょうかね?

もしかしたら、
「自分がしたいこと」をするのは、
社会的に非難されることだとでも、
思っているのでしょうか。

そんなことを書きますのは、
ある人なんですけど、
「自分がしたいこと」をするのは、
「いけないこと」と思ってる人が、
いるんだという実例を知りまして、
いやあ、世の中、想像以上に、
いろんな人がいると思いました。

その人は、「親の言うとおり」に、
すべての行動を行う人で、
もう立派な大人なんですけどね、
でも、親の意に反する行為は、
犯罪行為だと思ってるようでして、
まあ私は、それほどまでに完璧に、
「子どもをしつけた」親というの、
そういう親が現実にいたってこと、
そっちの事実のほうが驚きです。

まあとにかく、
「自分の思い」は押し殺しても、
「他人の基準」に合わすという人、
ある程度、いるのかもしれません。

さらに、「自分の思い」を、
何と何と、「自分で否定」して、
「相手が都合いいように」とか、
「相手が利益を得る」ことばかり、
考える人がいるということで、
私の感想としては、ほんとにまあ、
そういう態度をとらなければ、
その人は、「生きることを」、
「許されなかった」過去があって、
そういう過酷な人間関係の中で、
「生きのびる」ためには、
たとえ自分を犠牲にしたとても、
相手を利する行動をしなければ、
生きてこれなかった環境だったと、
私は想像するんですけど、
人と人との社会関係の中には、
そういう例もあるんですね。


他人に操られないのが幸福の基本。

幸せの根本は

02-13,2018

早春(10)
人を大切にする、そのことって、
今、目の前にいる人を大切にする、
現実に、いっしょにいる人を、
大切にするってことなんだと、
私は思います。

つまり、
「今は」自分の前にいない人を、
大切にしようと思いましても、
それは、いわば「仮想の人」を、
「大切にしよう」という気持ちで、
その気持ちもまた、現実にですね、
その人が目の前にいないならば、
その気持ちそのものだって、
現実のものじゃなく、
「仮想のもの」だと思うことです。

それで、人は社会生活をしていて、
家族とか、職場とか、学校とか、
その他いろんなグループなどに、
所属してるのが普通でしょうけど、
たとえば自分は旧家である○○家、
その○○家の一員であるから、
○○家の人間としての誇りを持ち、
○○家の体面を損なわないよう、
家名を汚すことが無いようにとか、
そんな気持ちを持ったとした場合、
私の感想では、「家の体面」って、
仮想のもの、一つの幻想であって、
実体でないと思うんですね。

私としては、そういう幻想でなく、
現実に自分の目の前にいる家族、
その一人一人を大切にすること、
それが、幸福な家庭生活だって、
ほんとに思うことです。

さて、世の中には、
「家の体面」ってことを、
異常に気にする人がいますけど、
私としては、そんなことより、
家族の一人ひとりを大切にする、
それこそが幸せなことだと、
信じています。


現実に目の前にいる人を大切に。

泰明小標準服

02-12,2018

早春(9)
東京の泰明小学校が今春から採用の、
アルマーニ標準服について、
同小学校の保護者から、
メールが送られてきたそうでして、
今日書きたいのは、
その標準服の是非なんかじゃなく、
また、事実関係でもありませんで、
もちろん、私の意見でもなくって、
そのメールに「書かれている内容」、
書いた保護者の「考え方」に、
「なるほど」と思う点がありまして、
ですから、取りあげてみました。

それで、そのメールの一部分ですが、
次のように書いてありました。
__________

「学校は、子供達にとっては
『日常の場』です。
でもこの学校では、
一部の地域の関係者や保護者、
教職員といった、
大人たちが期待する『泰明らしさ』
がまずあり、
そこに子どもをはめて下さい、
となっている。
___________

あの、私が言いたかったことは、
「大人たちの期待」というものが、
まず最初にあって、
その期待に添うように、
子どもたちを「つくっていく」、
「つくっていく」というのは、
変な表現ですけど、要するに、
大人が考える理想の子どもに、
「子どもたちを仕立てる」という、
人権無視も甚だしい調教方法で、
「調教」というのは、
動物に対する扱いですけどね、
その調教を子どもに行うという、
まさに、悪魔の行為についてです。
でも、それは、
泰明小学校に関して、
書いてることじゃありませんで、
一般的に言って、
「○○しなさい」みたいに、
相手に強要するとか、
相手を「従わせる」態度について、
書いてることなんです。

泰明小学校の標準服問題は、
社会的に発生した問題であって、
その標準服にすることの効果が、
予測されるから選ばれたのかと、
そんな想像もできますけど。

まあ、世の中、相手に対して、
「○○であって欲しい」みたいな、
要求というか押し付けみたいのは、
あるんですよね、いつの時代も、
どんな社会にも・・・

でも、押し付けられた身になれば、
それ、つらいし、苦しいって面が、
絶対あると思いますね、なにしろ、
「自分の思い」なんて無視されて、
嫌でも「従わされる」んですから、
言わば、奴隷状態だと思うんです。

でも、一般に、世間は、
そういう奴隷状態を問題にせず、
是認するという風潮があるのかな?
・・・って感じでして、
そういうこと、また明日、
書いてみたいと思いますけど。


自分が尊重されるのはすごく幸福。

地獄状態から離脱

02-11,2018

早春(8)
人は社会生活を送ってますから、
対人関係が欠かせないわけで、
日々、関っている人からは、
大きな影響を受けるんですね。

それで、このブログでは、
ここのところずっと、
緊張させられたり、
不幸にさせられるような、
悪悪影を受ける結果となる、
望ましくない人間関係のこと、
いろいろ書いてきましたけど、
解決策としては、結局、
自分が悪影響を受ける人から、
「離れる」ってことが一番で、
相手が世間一般の人の場合は、
そういう人には「近づかない」、
それだけで済むことなんですが、
職場とか学校、そして一番は、
家族とか親戚関係なんですけど、
「逃れなれない」人間関係で、
自分を不幸にする人がいた場合、
どうすることもできないというなら、
気の毒ですけど、悩ましい限りで。

でも、世の中、
ほんとにいろんなことがあって、
強固な結びつきの人間関係でも、
解消できないこともないわけで、
職場の相手が問題となるなら、
闘って勝つ道もあるし、ダメなら、
やむなく退職する道しかないとか、
夫や妻が問題だったら離婚かな?
家族が問題の場合は家から脱出、
親が問題という深刻な状況では、
戸籍上の親子関係はあるにせよ、
縁を切り、絶縁状態にすることが、
実質、可能なわけですからね、
親子関係の「地獄」に留まらず、
「自分自身を生きる」天国に、
脱出するのがいいでしょうって、
それが私の提案なんですけど。

あの、子どもは親の所有物では、
もう、当然、ありませんからね、
「親から離れる」のはあたりまえ、
誰にも遠慮は要らないんです。

それなのに、子どもに対して、
親の期待に添うことを求めたり、
親の言うとおりの人生を、
子どもが歩むように求めたり、
失敗すれば責めたり叱ったり、
まあ、とにかく、親がですね、
子を「思いどおりに動かそう」
・ ・ ・ ということ自体、
子どもを「手放さない」ことで、
そんなことがあってはならず、
親というものは、自分の子が、
親元を離れて世の中に出て、
自由に飛翔することを望むのが、
本来の姿なんですよね。

ですから、子どもが親から離れ、
親から去っていくことは、
ほめられこそすれ、
非難されることなど無いのです。
あの、いつでしたか、
上野公園に行きました折、
野口英世の銅像を見ました。
野口英世という人は、
アメリカに渡り、
中南米にも行き、そして、
アフリカで亡くなったそうで、
そういう人もいるんですね。
母親のことを、
とても慕っていたと、
私は思いますけど。


地獄を去ることは非難されない。

神経ピリピリ

02-10,2018

早春(7)
「自分は偉大な人物だ」という、
すごい妄想を持ってる人って、
世の中には、実際、いるみたいで、
でも、「偉大な人物」にしては、
なぜか、社会的に、
くすぶってる存在というか、
パッとしないというか、ですから、
不満タラタラ、不愉快みたいで、
その憤懣が現れるのか、あるいは、
怒気が漂うとでも言ったらいいか、
名状しがたい不気味な雰囲気の人、
たまに見かけることがありますね、
私は。

でも、世間体を保つ為でしょうか、
異常にニコニコと「機嫌よく」、
あの、それは私が感じる推測で、
間違いかもしれませんけど、
仮に、不満や怒りを蔵しながら、
世間の人の目からは、
「何の不満も無い、幸福な人」
・ ・ ・ としか見えないように、
必死で演技してるとすれば、
すごく不幸な人と思うんですけど、
あの、やっぱり私の勘違いとか、
見当違いじゃなくって、実際、
そういう人が世の中にいるって、
思わざるをえませんで、
もちろん、他人の気持ちが、
私に判定できるはずがないので、
断定できないのではありますが。

それで、ほんとは自信が無いし、
それどころかですね、内心では、
自分はダメだなあって、
無意識のうちに思ってるけど、
でも、「自分はダメ」だってこと、
「意識する」なんてつらすぎて、
とてもできないでしょうから、
「自分で自分をごまかす」という、
曲芸飛行で世の中を飛び回る人、
いると思います、広い世間には。

・ ・ ・ で、曲芸飛行は、時々、
墜落するんですよね。
また、墜落しないまでも、
神経をすり減らす芸当ですから、
心のどかに、リラックス状態で、
楽しく人生を生きるなんてことは、
できないと思いますねェ。

あの、そういうタイプの人が、
家庭内で支配権を握るような場合、
緊張状態で神経ピリピリという、
すごい家族関係ができちゃったり、
そういうの、すごく不幸ですけど、
でも、見られますね、世間には、
そういう家庭って ・ ・ ・

まあ、そんなふうに、
緊張体質とでも言えるような人を、
時々見かけますけど、
社会生活上の不安とか、あるいは、
何かの恐怖を持ってるのかなあと、
私には想像されることです。

そして、幸福のためには、
当人にとって由来不明の不安とか、
恐怖というものは、どうしても、
取り除かなければならないって、
私は思うことです。


不安や恐怖があれば、幸福は無い。

親の影響

02-09,2018

早春(6)
人を好きになることができる、
また、愛することができるって、
究極的に幸福なことじゃないかと、
私は思います。

そして、自分のことが、それも、
今の自分のこの状況が、
「いいなあ」って思えるし、
楽しめるっていうのは、
とっても幸せだってこと、
結局、私は、
そういうことが言いたいんですね。

ところが世の中、そんなふうに、
幸せな状況ばかりじゃないし、
私としては、
「自分だけ幸福」を求めても、
周囲の人みんなが幸せじゃないと、
一人だけが幸福っていうわけには、
いかないっていうふうに、
社会はできているのかなあという、
そんな感じがしまして、ですから、
「みんな幸せ」な状況であれば、
自分も幸せ満点でいられるって、
ほんとにそう思います。

それで、昨日の続きなんですが、
今度は、「子どもの立場」で、
考えてみたいと思います。

世の中、受験に苦しむ子って、
多いかと思いますけど、
「親の影響」を受けて、
「勝ち残らなければならない」
・ ・ ・ みたいな考えに陥って、
結局、子どもは、
「自分自身の気持ち」というのが、
「意識もできない状態」に陥って、
「親の考え」を「自分の考え」と、
誤解してる面があるのかなあと、
私は想像するんですけど、
どうでしょうね?

どうも、世間には、
そういう子どもが多いみたいに、
私の目からは見えまして、また、
受験競争を勝ち進まなければ、
子どもの将来も幸福も無いって、
親たちのそうした考えが、
そもそも誤りだし、
そんなふうに思っちゃうのは、
社会生活に対する親たちの不安、
さらには恐怖心に原因があるかと、
私は想像するんですけどね。


幸福は、自分の思いを生きること。

やらされる

02-08,2018

早春(5)
自分がしたいことをするというの、
実はそれ、すごく幸福なことだと、
私は思います。

なぜなら、世の中、
人との関係で生きてますから、
社会的に是とされることでないと、
「やりにくい」し、もっと言えば、
他人に「認められない」ようなら、
すること自体、困難に陥る事態も、
充分に考えられる、というより、
「非難されてもやるか?」という、
苦しい選択を迫られることがあり、
でも、選択できるならまだましで、
世間には、「選択の余地無し」で、
「したくてもできない」ことが、
多々あったりすると思います。

子どもの受験だってそうでして、
日々を楽しく過ごしたくても、
受験勉強を親から強要されれば、
「イヤでも」親の意向に沿うしか、
選択肢がないような子どもって、
多いんじゃないでしょうかね?
今、受験の時期ですから、
そういう例をあげてみました。

それで、受験に限らず、
「親の意向」が絶対という家庭は、
多いかと思いますが、そうすると、
子どもは自分の思いや意思でなく、
「親の意向」を実現するマシーン、
・ ・ ・ そうなんです、自由と、
人格を持つ一個の人間じゃなくて、
まさに「機械」、そしてロボット、
そのロボットというのは、親から、
リモートコントロールを受けて、
「親の意のままに」動くという、
絶対命令に服す以外にない存在で、
それ、不幸で悲惨だと思います。

あの、「子どものため」に、
親がそうしてやるんだっていうの、
それはウソでしてね、子どもには、
自由と人格を認めてあげるのが、
親ですよね・・・って思います。

昨日のブログに、
「子どもを大切にしてるフリ」
って書きましたけど、
受験で子どもを支配する実態は、
子どもを大切にするフリしてる、
そういう例の一つと思いますが、
今日はこのへんまでにします。


親の欲求を、子に強要する不幸。

見せかけの世話

02-07,2018

早春(4)
世の中には驚くような人がいて、
たとえば、他人に対して、
ありえないような身勝手な要求を、
平気で行う ・ ・ ・ というか、
「身勝手だ」という意識そのものが、
欠けてる人って、いるものでして、
そうですねえ、社会的な観点からは、
「身勝手な行為」とされることでも、
その当人にしてみれば、まさに、
「あたりまえのこと」って認識で、
そういうタイプの人も、世間には、
ある程度の数、いると思う私です。

そして、さらにタチが悪いのは、
他人に身勝手な要求をつきつけて、
それがあたりまえと思ってるくせに、
自分が他人に何かをしてやることは、
もう、絶対イヤだし、仮にですね、
人のために何かをするハメになると、
その何倍もの見返り・・・というか、
「お返しをしろ」という憤懣の人、
そういう人も見かけますね、時々。

まあ、そうしたタイプが親になると、
子どもに「してやる」のがイヤで、
でも、世間体をつくろう必要上、
子どもをよく世話してやってるフリ、
その「フリ」ってところが重要で、
結局、それ、「見せかけ」なんです。

私の感想ですけど、
子どもが嫌いだという親がですね、
「嫌い」ってことを表現していて、
自分は親に嫌われてるってことを、
子どもが認識できる状況であって、
世間の人もまた、あの親ってのは、
子どもが嫌いなんだってわかる、
そういう状態にありますと、
子どもが受ける被害の大きさは、
まだ少なくて済むかと思うんです。

それで、深刻な事態が起こるのは、
子どもが嫌いな親が、本心を隠し、
子どもを大切にしてるフリをして、
また、かいがいしく世話する姿を、
「演出」してる場合だと思います。

まあ、この話、長くなるので、
今日はこのへんで ・ ・ ・


心を偽るのは不幸の一大原因だと。

信義の重要性

02-06,2018

早春(3)
昨日の続きですけど、
子どもに遺産をやりたくない場合、
自分の全財産を、生前に、
誰かに「寄付してしまう」と、
もう必然的に、子どもは、
もらえる遺産がなくなりますよね。
実例としては、宗教団体に、
遺産全額を寄付して、子どもには、
一円も遺産が相続できないよう、
画策した親がいるということで、
実はその子どもというのが、
金銭的に困っていた人でして、
ですから、子どもに対する憎悪が、
ものすごいって思いましたけど、
世の中にはそういう親がいるんで、
でも、そういう人間であっても、
寄付を受けた宗教団体からは、
「立派な人」と尊ばれるし、また、
社会的に尊敬されてる場合だって、
あると思いますね。

まあ、自分の子とか、配偶者とか、
そういう「内輪の人」を攻撃して、
世間体は聖人君子みたいに見せる、
偽善の人というか、虚飾の人って、
心が魔性化してますけど、その分、
全力で「自分を偽る」演技をして、
正体を隠してる不幸極まりない人、
いると思いますけどね、でも、
それは「自分が選択した道」だし、
その人の人生選択ですからね・・・

あの、子どもや配偶者というのは、
その人の「ほんとうの姿」に、
感づいてる場合があるでしょうし、
その上、同居して暮らすとなれば、
自分の正体を「隠し通す」のは、
至難の業ですからね、そうなれば、
攻撃して相手を壊滅、無力化させ、
自分が絶対権を握るという手法は、
とても巧みなやり方だと思います。

それで、仮に、自分の真実の姿を、
隠し通すことができるたとしても、
そういう態度をとる不幸状態から、
もう決して、逃れられないわけで。

そして、そういう人は、結局、
自分の子どもや配偶者だけでなく、
世間の人々を騙そうとしますけど、
騙すというより「反社会」、
そうですねえ、反社会的態度だと、
そういう表現をしても、あながち、
間違いではないかと思います。
私は、社会を成り立たせる為には、
信義が必要だと思いますから。


信頼に基づく社会関係なら、幸福。

子どもを裁判に

02-05,2018

早春(!) (2)
世の中には、親が自分の子どもを、
訴訟を起こして攻撃するってこと、
実際にありますから驚きですけど、
その実例の中には、自分の遺産を、
子どもにやりたくないのが本心で、
裁判に至った例を知ってまして、
まあ、訴えの表向きの形態は、
遺産のことを避けてるんですけど、
結局親側がその訴訟に勝利すれば、
子どもは遺産が受け取れないので、
「目的を達する」わけなんですが、
その親というのが、他人に対して、
「してあげる」ということが、
どうしてもできないタイプみたいで、
でも、世間体があるからでしょう、
「気前のいい人」のように振舞い、
いかにも社会貢献してるって、
世間の人からは「見えるように」、
必死に繕ってるタイプの典型で、
「内実と外見が違う」という人の、
見本みたいに思えることです。

あの、それで、
「子どもにしてやること」を、
徹底的に避けてきたような人で、
それでいながら、世間体を繕い、
子どものために献身してるように、
「外見だけは見せつける」のが、
得意技だったんでしょうかね、
裁判の被告となった人というのは、
世の中の人から見た目、外見は、
「親からよくしてもらっている」と、
誰の目にも映ってたみたいですが、
実際には、食べ物も衣類も、
満足に与えられなかったそうで、
でも、「外出着の一点」なんかは、
飛びぬけて豪華、高価なもので、
「人前に出る時」はそれを着て、
ふだんは洗濯もしない襤褸を着て、
そのギャップがすごいんだとか。

まあ、その親の気持ちですけど、
子どものために金がかかったから、
子どもの「犠牲になった」わけで、
その「元を取る」ため、子どもに、
贅沢三昧をさせてもらい、また、
至れり尽くせり、奉仕してもらう、
それが当然と期待していたのに、
子どもがそうしてくれないうちに、
自分が死を迎えそうな病気となり、
そうしますと、子どもは労せずに、
遺産がタダ取りできるというので、
そんなことは許せない・・・って、
まあ、そういうことのようですね。
いやあ、すごいです、すごいです、
その心情。

いや全く、世間にはそういう人も、
現実にいるってことでして、
この続きはまた明日に。


子ども嫌い=自分嫌い、不幸の極。

ガマンの蓄積

02-04,2018

早春(!)
今朝は寒さが緩み、
おだやかな立春の夜明けとなり、
ゆったりした気持ちで一服の煎茶、
こうして、今の状況を楽しめるの、
「いいなあ」と思いますけど、
今、テレビではちょうど、
寒気と大雪に関するニュースです。

まあ、世の中、
気持ちよく過ごせないことも多く、
昨日は、トラブルのことについて、
ちょっと書きましたけど、
トラブルというものは、
人と人との関係で、
社会的に生じるものなんですが、
気分的にイヤなものですからね、
「避けたい」というのが人情で、
でも、「避けられない」場合って、
世の中にはいっぱいあると、
私は思います。

さて、「相手に対する要求」を、
強く持つタイプの人っていうのが、
いると思う私です。

それで、タチが悪いのは、
相手に対する要求は強いのに、
自分が相手に対して、
してあげるのがイヤだという人で、
そういう人と付きあうってのは、
まあ、なかなかたいへんですけど、
悲惨なのは、子どもの場合、
そういうタイプの人が、
親とか養育者だという場合ですね。

あの、世間には、
子どもに「してあげる」ことが、
もう、絶対にイヤでして、
でも、子どもを育てるには、
金もかかるし、手間もかかるしで、
世間体を考えますと、
「立派に子育てしてる」みたいに、
「見られたい」タイプの人もいて、
そういう親や養育者の場合は、
深刻な問題が起こると思います。

そして、そういう親や養育者が、
子どものために自分は犠牲になり、
身を挺し、献身してるんだって、
自分のことを思ってるような例が、
多いんじゃないかと思うんです。

それで、そういう親や養育者は、
「自分が犠牲になってる」分、
子どもに対して、
「見返りを求める」思いというの、
それは、まるで子どもに対して、
損害賠償を要求するのとですね、
同じような気持ちというか、まあ、
親の自分が犠牲になったという、
激しい怒りだと思うんですけど、
そうしますと、子どものほうは、
精神的にたまらないわけでして、
でも、親とのトラブルなんてのは、
子どもには耐えられませんから、
子どものほうが「ガマンする」、
あの、ガマンしたくないとしても、
それ以外の選択肢は無いかなあと、
私は思います。

そして、ガマンは蓄積していき、
その蓄積こそが、やがて時を経て、
大問題に発展すると思うんですが、
今日はこれくらいで。


ガマンや苦は、解放しないと不幸に。

邪気を払う

02-03,2018

寒の内(27)
節分の豆撒きってことで、
邪気みたいなものは、
生じるたびに払っちゃうっての、
ああ、やっぱり、それが大切って、
ほんとに思いました。

世の中、生きてる限り、
いろんなことでトラブルみたいの、
どうしたって起こりますからね、
一人孤立して他人と関らないなら、
社会生活をするからこそ発生する、
トラブルは発生しないでしょうが、
それでは「生きる喜び」もまた、
放棄することになりますからね。

それで、「トラブルは避けがたい」、
しかし、発生した邪気みたいのは、
そのつど払って無くしちゃうのが、
実際的で賢明な生き方かな?

あの、たとえトラブルが生じても、
その人と楽しく、仲良くできるの、
それは当然のことですから、
トラブルはそのつどそのつど、
「悪い思いを残すことなく」、
流れ去らせちゃうのがいいですね。


トラブルがあっても、幸福は続く。

子どものしつけ

02-02,2018

寒の内(28)
今朝もまた積雪となりましたから、
行く予定だった行事が中止となり、
ちょっと一息といったところです。

なにしろ、日々の忙しさのあまり、
「準備ができてない」状況なので、
正直なところ、助かりましたけど、
世の中、あんまり忙しすぎるのは、
ダメなんですけどね、でも、
いろんなことをしてるので、勢い、
そうなっちゃう私でして、まあ、
「自分の責任」だし、
「したいことをしている」ので、
「苦にはならない」ですね、当然。

ところが、受験生に限らずですね、
親などから、息つくひまもなく、
ああしなさ、こうしなさいとか、
言われたらたまんないと思います、
「自分がしたいと思う」のでなく、
「他人から強要される」ことって、
たいへんな苦痛だと思うんです。

その上、受験に失敗したら、
「将来は無い」みたいに脅され、
恐怖状態で必死にガンバルなんて、
精神的にすごく悪いと思います。

でも、大学受験くらいの年齢なら、
まだ耐えられるでしょうけど、
高校受験、中学受験、小学校受験、
まあ、子どもの年齢が低いほど、
「受験で責められる」ってことは、
責め苦じゃないか想像しますけど、
さらに、まだ幼児の頃からですね、
苛烈な「しつけ」をする親もまた、
世間には実際にいるわけでして、
そういうのはもう、不幸も不幸、
子どもはもちろん不幸の極ですが、
そういうしつけをする親ってのが、
精神的に不幸を抱えてるために、
子どもをそんなふうに扱うんだと、
私は想像しちゃいます。

それで、親とか養育者がですね、
精神的に「安心」できてる状況、
そして、自分たちの人生は、
「だいじょうぶなんだ」という、
予測 ・ ・ ・ とでも言うか、
とにかく、取り越し苦労のない、
安定した心理状態にありましたら、
狂気じみたしつけに走るなんて、
ありえないと思うわけでして、
さらに掘り下げて考えますと、
社会生活を送る上で、
「自信が持てるかどうか」という、
個人と社会との関係にも波及する、
複雑な問題かと思います。


不安や恐怖が無いってことは幸せ。

恐怖を煽る

02-01,2018

寒の内(26)
以前もこのブログに書きましたが、
ある高校の進路指導の先生ですけど、
大学に行かないと、
まともな人生を送れなくなるって、
生徒を脅すんだそうでして、でも、
同じように子どもを脅す親だって、
世間には、いっぱいいると思う私で、
あの、そういう実例をたくさん、
知ってる私です。

まあ、この世の中、
何か狂ってる面があるという感じで、
でも、「親となれば」、どうしても、
必死になっちゃうんでしょうかね、
知り合いのあの人もこの人も、
今の時期、「子どもの受験」だから、
いろんな活動に参加できないとか、
そういう話、多いですよ。

だいたい、社会そのものが、
「競争する」ようにできてるのかも?
・ ・ ・ って感じですけど、
そうしますと、親としましてはネェ、
子どもを叱咤しちゃうのかなあって、
不幸なことですけどね。

まあでも、「恐怖を煽る」手法で、
子どもを何とか動かそうなんてのは、
不幸も不幸、すごく不幸だってこと、
認識して欲しいと思う私です。


子どもが持つ力を信じられる幸福。

人も自分も喜び

01-31,2018

寒の内(25)
あの、昨日の予告とは違う内容で、
今日は書かせていただきますけど、
「したいこと」をするってのは、
すごく幸せなことでして、しかも、
他の方々に喜んでいただけるなら、
とてもうれしいことだってことを、
喜ばしく感じる私ですけど、それ、
「自分がしたいことをする」のが、
「他の人にも喜んでもらえる」と、
そういう幸福に恵まれてることで、
そのことをよく考えてみますと、
「自分が」したいことといっても、
それは、「他の人」の喜びに、
直結することでしてね、ですから、
「自分がしたいことをして」ですね、
しかも「他の人に喜んでもらえる」、
そういうことって、あるの?
・ ・ ・ みたいに考える方々だって、
世の中には多いと思いますけど、
だいたいねえ、
「他の方に喜んでもらえるように」
自分が行為したい・・・って、
そんなふうに思えるとしたら、
すごく幸福な人だと思います、
私は。

この世の中、現実を考えれば、
今日私が書いたことなんてのは、
夢想も夢想、現実離れがひどくて、
社会生活では夢物語の夢物語、
「何、馬鹿なことを言ってんの!」
・・・って、叱られそうですけどね、
でも、ほんとのほんとの真実では、
「他の人の喜び」を願う気持って、
「自分を大切にする」気持ちの変形、
・ ・ ・ というか、あの、
他の人の喜びを願う気持というのは、
「自分を大切にする」気持ちと同源で、
そのことを反対から言えばですね、
他人を貶める気持ちの人ってのは、
実は実は、「自分をひどく扱ってる」
・ ・ ・ ってことなんですけどね、
まあ、そういうこと、少しずつ、
気長に書いていきたいと思いまして、
つまり、「一挙に書こう」としても、
ただちに結論を求めるなんてことは、
不可能な問題ですからね。


幸せの道は「一挙に」でなく徐々に。

社会生活上の恐怖

01-30,2018

寒の内(24)
このブログでは、韓国TVドラマ
「火の女神ジョンイ」のこと、
たくさん書いてきましたけど、
主人公の柳井はじめ、登場人物は、
陶磁づくりに関る人々なんですね。

それで、柳井と養父の柳乙潭、
そして師匠の文師承などの面々は、
陶磁を愛し、
磁器づくりを喜びとする人々で、
でも、官窯のトップである李江天、
そして、その息子である李睦道は、
陶磁に対する愛着というのでなく、
社会的な自分の出世とか肩書きを、
激しく求めていたんですね。

ですから、磁器づくりというのは、
彼らにとっては、社会的に、
自分が「のし上がる」ための、
「手段」だったと思います。

あの、ですから、同じことで、
大学受験に必死になるというのも、
「学問を愛し、学問がしたい」、
そういう意欲からではなくって、
将来、世の中に出て出世するため、
その手段としての一つの段階であり、
もちろん、大学入学が目的じゃなく、
大卒の資格を得ることによって、
世間の人々がうらやむ職業に就き、
「出世したい」っていうことが、
本来の目的だということでしょう。

ところが昨日書いた林屋晴三先生は、
焼物を愛していて、だからこそ、
焼物の研究がしたい・・・という、
自分の素直な気持ちを大切にしてる、
そこのところが偉いと思う私です。

それで、林屋晴三先生は、
夜間大学に通って大卒の資格を得て、
その資格により給料を上げてもらい、
さらに、職階を上げてもらうことを、
「しなかった」わけですけど、実は、
上司からそうするように勧められて、
でも、その勧めを「断った」という、
世間の人の感覚からは、もうとても、
考えられないことなんですけど、
あの、上司の親切心に逆らっても、
自分の給料は上がらないし、
職階も上がらないという道を、
自ら選択するんですけど、それも、
「焼物の研究をしたい」という、
自分の気持ちを優先するからでして、
主体性を発揮して自分の道を求める、
その姿を見まして、私は、
てすごい方だと思い、尊敬ですね。

ですから、人は、
自分が「したいこと」を行って、
そこに喜びを見出すというのが、
ほんとに幸せなことだと思います。

それで、青春を捧げて受験勉強し、
さらに、学問したいからじゃなく、
「就職を有利にしたい」目的で、
大学生活を送るって、あの、それ、
「自分がしたいこと」をしないで、
若い時代を送ることになますから、
なんか哀れな感じがするんですね。

・ ・ ・ というか、
社会的にのし上がらないと、
自分の人生がダメになるっていう、
その「恐怖」が人を駆り立てると、
私は想像するんですけど、続きは、
また明日。


恐怖の回避行動は幸福から遠いと。

自分の心に素直

01-29,2018

寒の内(23)
このブログでは、中国、安徽省に、
毛坦廠中学という学校があって、
「アジア最大の大学合格工場」と、
呼ばれている話を書きましたけど、
世の中、大学進学に青春を捧げ、
必死になってる生徒がいますけど、
でも、そういう生徒ばかりだとは、
言えませんよね。

それで今日は、
林屋晴三という方のことを、
ちょっと書かせていただきます。

林屋先生は、昭和22年5月に、
18歳で京都から東京に出ていって、
昭和23年2月に、「雇員」として、
東京国立博物館職員となりましたが、
学歴が旧制中学の卒業でしたから、
雇員としてしか、
採用されない立場だったようです。

その後、昭和24年頃のようですが、
職場の上司から、
「林屋君、君、夜学でも行かないか」
・ ・ ・ つて言われたそうです。
「どうしてですか?」と聞いたら、
「大学でも行かないと
 給料を上げてやれないんだよ」と。

すると、林屋先生の返答なんですが、
「ああそうですか。
 上げなくてもいいですよ。
 僕は大学へは行きません」って、
言ったそうですけどね、その理由は、
「大学なんて
 つまらないと思っていた」
ということでした。

そして、
「学歴をもらうために、
 大学なんか行こうとは
 思っていなかったですから」
と語っています。

あのう、人がうらやむような学歴、
そういうのを、世間の多くの人は、
「価値あるもの」と考える傾向って、
強いような気がしますけど、でも、
私自身は、学歴を重視する気持ちが、
あんまりありませんで、ですから、
いっしょに活動したり交際する人の、
「学歴に関心を持ったこと」って、
ないんですね。

まあ、でも、今日書きたかったのは、
林屋晴三先生って、
学歴のような社会的な価値観には、
ほんとに影響されずに、
「自分がしたい」焼物の研究に、
邁進された方だということでして、
それで、社会的に有意義な研究を、
ずっと継続されれ、世の中に、
多大な貢献をされたってことでして、
その、「自分の心に素直」ってこと、
すばらしいことだと思います。


自分の気持ちに素直に生きる幸福。

子に厳しい親

01-28,2018

寒の内(22)
昨日書きましたXiangさんですけど、
私は Xiangさんじゃありませんから、
彼の気持ちはわかりませんけどね、
勝手な「推測」はできるわけなので、
以下は、何の根拠も無い想像ですが。

それで、世の中、人情としてですね、
母は自分に対して、優しく、そして、
温かくあってほしいというのが、
普通の気持ちじゃないでしょうか?

でも、Xiangさんは20歳というので、
乳幼児じゃないわけですから、別に、
「大人の扱い」を受けてつらくても、
充分耐えられるかも知れませんけど、
世間には、幼児、子どもに対しても、
「厳しく接する」親とか養育者って、
いるわけでして、ほんとうの問題は、
「厳しいか甘いか」とかじゃなくて、
「慈しみがあるのかどうか」だと、
私は思います。

それで、Xiangさんが生まれて以来、
充分、母の慈しみを受けて育ったなら、
深刻な心の傷は生じないで済むかと、
私は思いますけどね、問題は、
子どもを愛することができない親に、
育てられる境遇の子どもなんです。

あの、世間には、子どもを愛せない、
好きになれない親というのが、実際、
いっぱいいるというのが現実でして、
そういう親の中には、
子どもを「利用して」、
親自身の欲求を満たそうとする人が、
いるんですね、ほんとにいるんです。

あの、そして、
子どもに対する慈愛が無いからこそ、
子どもを「利用できる」わけでして、
そういう親って、ほんとにほんとに、
子どもに対して残虐になれるって、
厳しい親の事例を見てきて思います。

ですからねえ、幸福感が持てるとか、
不幸感でいっぱいなんていうことを、
「個人の心の問題」だと考えるのは、
違うだろうと思う私で、社会の中での、
他の人との関係によってですね、
個人の幸不幸が左右されることって、
多いと思うことです。


温かく優しくしてもらえたら幸福感が。

自覚できない怒り

01-27,2018

寒の内(21)
今日も「怒り」について、
続きを書きますが、李江天の息子は、
「父親の期待をかなえる人間」
であることを要求されてるんですね。

そして、世間には、彼と同じように、
親の期待を一身に背負う子どもって、
いっぱいいると思います。

それで、22日のブログでは、
中国、安徽省の毛坦廠中学のこと、
ちょっと書きましたけど、
「全校の約半数の生徒が
保護者に付き添われており、
高校3年生の場合は8割弱に達する。
家に受験生がいれば、
一家全員が大忙しだ。」という、
記事を見てびっくりした私です。

また、別の記事には、
その学校の一生徒について、
以下のように書いてありました。
__________

「母は仕事を辞めて、
私と一緒にいるために
ここに来てくれた」と、
2度目の高考に準備するために
毛坦廠に来たXiang Lichengさん
(20)は言う。
彼は、この学校で
忍耐を学んだという。
「勉強したくない時でも、
母が私のために
どれだけ苦労しているか見れば、
怠けることはできない」と、
Xiangさんは言う。
__________

それを読んでの私の感想ですが、
「忍耐を学んだ」そうですから、
どんなにイヤでもやるってわけで、
すごい意志力だと思いますけどね、
「怠けることはできない」って、
彼自身が言ってるわけですから、
もう、相当に「無理してる」って、
私は思ったことでした。

そして、彼自身は「怒り」なんて、
全く自覚してないと思いますけど、
私の、全く根拠の無い推測で、
勝手な見方で偏見かも知れませんが、
そういう状況では、無意識ですが、
「怒り」が心に生じているだろうと、
私は考えるんですね。

でも、彼は、自分の「怒り」を、
「感じないようにしてる」し、
そもそも自分には、
「怒りなんて無い」と、
思ってるだろうと推測する私です。

そして、世の中には、
親に対する怒りの感情を、
「感じないようにしてる」人って、
多いように思われますし、また、
そういう人というのは、自分が、
「怒りの感情を持ってる」なんて、
全く気付けない場合が多いようです。

あの、「怒りが無い」って、
幸福なことなんですけどね、でも、
「ほんとは怒りを持ってる」のに、
怒りを持ってる自覚が無い場合は、
きわめて解決困難な不幸状態に、
陥ることになると思う私ですけど、
こういう話っていうのは複雑で、
とても一挙になんか書けませんから、
少しずつ書いていくことにします。


自分のことがわかるのは幸福への道。

怒りは不幸の原因

01-26,2018

寒の内(20)
昨日は、
「恐怖」のことを書きましたから、
今日は「怒り」について書きますが、
どっちも不幸をもたらすものでして、
でも、社会生活上、どうしても、
多かれ少なかれ、誰もが、
体験せざるをえないことですからね、
恐怖も、また、怒りも ・ ・ ・

それで、どこから「怒り」の話を、
切り出そうかと思案するわけですが、
そうですねえ、昨日、
李江天のことを書きましたから、
その李江天は、息子に対して、
「怒りを感じていた」だろうという、
私の推測から、話を始めたいです。

それで、李江天の息子である睦道は、
磁器作りの腕前にかけて、
ドラマの主人公である柳井よりも、
劣っちゃう面が、ドラマの展開上、
いろんな場面で露呈しちゃうんです。

それで、父親である李江天ですけど、
ドラマを見てますと、息子に対して、
「怒り」の気持ちがすごかったと、
私は、そういうふうに感じましたね。

あの、ドラマでは、李江天がですね、
息子に怒りを感じてるような映像は、
皆無でしたけどね、でも私としては、
李江天の「ほんとうの気持ち」を、
ドラマ展開から読み取ったんですね。

李江天は、自分という人間が、
「偉い人」でありたかったんですね。

その心理的理由を探りますと、実は、
「自分に自信が無い」からなんだと、
私は思うわけですけど、世の中には、
「自分に自信が無い」からこそ、
ほんとは「ダメ」な自分だという、
真実の姿を世間の目から覆い隠そうと、
隠蔽工作に腐心するあまり、ことさら、
「偉い自分」の姿を演技し、演出して、
世の中の人々に「見せつけよう」と、
あの、そういう事例って、世の中には、
ここかしこに見られることなのでは?

まあ、そういうのって、
「ダメな自分」という「真実」が、
世間に知られたら、もうそれで、
「自分は終わり」っていうふうに、
とんでもない誤解、そして恐怖に、
「とらわれちゃってる」からだと、
私は思いますけどね。

あの、それで、李江天にしてみれば、
自分の息子が「ダメ人間」だと、
世間に知られるということになれば、
親である自分自身の価値というか、
世間の評判が下がっちゃうって感覚、
まあ、その思いが強いんでしょうね。

ですから、「自分の評判を下げる」、
つまり、自分の虚飾をぶち壊す息子、
そういう息子は「許せない」という、
その心情によるものだと思うんです。

つまり、息子がですね、
親である自分の評価を下げることを、
「許せない」ってことでして、
つまりそれは、「怒り」なんですね。

あの、今日は、「怒り」に関して、
親子関係の特殊な状況においての、
子どもに対する親の怒りってこと、
ちょっと触れましたけど、
「火の女神ジョンイ」という、
韓国ドラマを見ましたおかげで、
世の中に見られる父息子関係の、
一つのパターンが認識できまして、
ドラマを見ることがですね、
娯楽だけで終わらなかったってこと、
ほんと、有意義でした、このドラマ。

最後に書きますけど、
「ダメな自分」という思いこそ、
全く、全然、不必要なものでして、
そんな「余計なもの」を堅持すると、
自分を不幸にしちゃうと思います。


自分を否定する気持ちは、不幸の源。

恐怖が心にあると

01-25,2018

寒の内(18)
自分が「やりたいこと」ってのが、
その人にあって、社会の中で、
その「やりたいこと」を実行して、
自分も生きがいを感じるし、
世間の人々からも、
自分がしてることを認めてもらえる、
さらには、喜んでもらえるとしたら、
その人はとても幸せだと、
私は思います。

ですが、世の中の現実を見ますと
そんな人ばかりじゃないと思います。
中には、仕事にしても、あるいは、
日々の暮らしとか自分の状況が、
不本意だったり、嫌だったり、
それで、ガマンして生きてるとか、
もっと気の毒なのは、
耐えて生きてる人もいるでしょうね。

そういう人は幸福からほど遠いし
もっと悲惨なのは、こんなことでは、
自分の人生はダメになるみたいな、
不安とか、さらには、
恐怖を心に抱えるようになりますと、
かなり深刻になると思いますね。

あの、この人生って、たとえば、
人がうらやむような学歴がないと、
ダメなんでしょうか?
結婚相手の条件みたいなことで、
世間の人がよく話題にすることは、
相手の男性はどんな職業か、地位か、
収入はどうかっていうようなこと、
女性だったら年齢とかルックスが、
重視される傾向があるのかなあ?
それで白雪姫のママなんかは、
「世界で一番美しい」ってことを、
かなえられなければ殺人を犯すほど、
求めていた ・ ・ ・ という表現は、
正確な表現じゃなくって、実は、
「美しくない」自分であることを、
「恐怖していた」んじゃないかと、
私は思いますけどね。

また、このブログでは、韓国ドラマ、
「火の女神ジョンイ」のことを、
いっぱい書いてきました。
それで、不幸の元凶となってるのが、
李江天という登場人物でして、
出世の為に極悪非道を重ねる人生で、
また、息子を出世させる為に、
息子を「厳苛管理」するんですが、
そういうのって、私の感じでは、
彼自身の「欲望」というより、
出世しなければ、この世の中を、
「渡っていけない」というような、
「恐怖」によって、
突き動かされてるんじゃないかと、
私は想像するんですけどね。


恐怖を去らないと幸福はきませんね。

苛烈に扱うのは

01-25,2018

寒の内(17)
社会生活上の「大人の感覚」って、
人間関係の多くの体験をとおして、
少しずつ身についていくのかなあと、
私は思ったことでした。

それで、もう幼少の頃からですね、
「手のかからない子」というか、
「聞き分けの良い子」というか、
とにかく、しっかりした子だと、
世間の人から言われるような子を、
時々見かけるんですけど、私は、
不幸だと思うんですね、そういう子。

あの、子どもとして不自然というか、
子どもっぽいところが無いというか、
そうですねえ、「無理してる」のか、
いいえ、無理してるんじゃなくって、
「無理させられてる」っていうのが、
正確な言い方かなあと思いますけど、
要するに、親や養育者が、それこそ、
中国の言葉で言う「厳苛管理」を、
強力に推し進めますと、子どもが、
そんなふうになっちゃうと思います、
そういう子たちの親に関して、
子どもに対する接し方を見てますと。

それで私は、どうして自分の子を、
それほど苛烈に扱って、むごいほど、
必死に厳格教育を敢行するんだろう?
・・・って、疑問ですね、ほんとに。

そして私は、そういう親や養育者は、
心の奥底に、恐怖や怒りを潜ませて、
でも、自分が抱えてる恐怖や怒りに、
「気付いてない」かも知れないって、
そんな推測をしてまして、世間には、
そういう親もたくさんいるだろうと、
まあ、そんな感じに過ぎませんけど、
こういう話題は書くのがたいへんで、
長くなりますから、今日のところは、
このへんでおしまいにします。


優しく親切にできる気持ちなら幸福。
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