楽しみたいけど

02-20,2018

早春(17)
昨日は、「映画製作のテクニック」
なんて表現をしましたけど、私は、
映画「旅情」の冒頭部分で、
主人公のジェーン・ハドソンと、
向かい合わせの座席に座っていた、
一人の男性の言葉にですね、
映画のテーマが示されてるという、
その技法にびっくりしたことです。

その男性は、主人公が初めて、
ベネチアに来たことを知って、
彼女に言います。
「君も楽しめるといいね。」

主人公は、
「もちろん楽しみたいわ」って、
即答するんですけどね、でも、
その次がまた映画製作の手法だと、
私は思ったんですけど、彼女は、
「楽しめない可能性もある?」
・ ・ ・ って問い返しましてね、
いやあ、それ、それ、その反応、
意味深、意味深、心理がすごくて、
また、彼女にそう「問わせる」、
その脚本づくりが巧みだと・・・

あの、結局、この映画
主人公の彼女は、
「楽しめない」ことになりまして、
哀愁の結末を迎えるわけですけど、
全くこの映画、
世の中の多くの人々の心情に、
訴えかけるものがあったからこそ、
評判になったんだと思いますけど、
あの、「楽しむ」ってことですが、
人は社会生活を営んでますから、
その「楽しい行為」がですね、
世間的に「許されない」場合は、
そうした楽しみは「否定される」、
いや、否定される程度を超えて、
非難され、ひどいめにあわされる、
そんな結果になるようなことって、
世の中には、あるように思います。

それで、明日のブログなんですが、
「楽しめない可能性」って、
たとえばどんなことがあるのか、
そんなことから書いてみたいです。


喜びが許されないなら幸福でない。

ロマンスを求め

02-19,2018

早春(16)
2月16日に続いて、
映画「旅情」の話ですけど、
映画の冒頭に近いところで、
ベネチアの観光パンフレット(?)
・・・らしいものが写るんです。
それ、主人公の、
ジェーン・ハドソンの持ち物で、
表紙を見ますと、
次のような文字が見えました。

VENICE
City of
ROMANCE

その表紙が写ってる時間は、
7秒くらいと思いましたけど、
その7秒にですね、主人公が、
「何を求めているか」という、
深い深い心の内側の真実を、
映像として表現してるという、
映画製作のテクニックみたいなの、
いや、ほんと、勉強になりました。

そして、人は、
社会的に生きてますからね、
自分が真実、心の底から求めてる、
切実な願いは何かってことを、
世間の人に「察知されないよう」、
「隠してる」みたいなことって、
言い過ぎかも知れませんけど、
でも、そういうことって、
「ありませんか?」ということ、
聞きたいんですけど、私の場合は、
「あります」ね、ほんとのところ。

まあ、話が飛躍して、
本筋から逸れないよう、
元に戻しますけど、
「ロマンスを求める」って、それ、
「私だって」ほんとに心の底から、
ありますね、そういう気持ち・・・

まあ、続きはまた明日。


ロマンスは心躍り、輝く幸福感が。

今日も目いっぱい

02-18,2018

早春(15)
今日も出かけて、
いろいろ楽しい体験をして、
帰宅すればすることがいっぱいで、
まあ、フル活動でしたから、
ブログはまた明日ってことで、
「充実」と言えば充実ですけど、
だから一番幸せだったかと言えば、
「ゆっくりできる」ことも幸せで、
ですから、世の中、
「○○だったら幸せ」みたいには、
言えない面もあると思いまして、
でも、「くたびれた」こともまた、
楽しく活動したことの結果なので、
「よかった」一日と言えるでしょう。

そうですねえ、
間違いなく幸福だったことは、
社会的な「人との関り」で、
今日も楽しく過ごせたってことで、
そういうの、私としては、
最も望ましいことですね。


今日出会えた人々に感謝で、幸福。

責められる恐怖

02-17,2018

早春(14)
今日の平昌オリンピック、
フィギュアスケート男子フリー、
羽生結弦選手ですけど、
彼の演技が生中継放送される直前、
テレビの前を離れた人がいまして、
「見ることができなかった」って、
その理由を後で聞きましたけど、
まあ、何でしょうねえ、彼が、
「失敗する姿」が「見られない」、
あの、「見られない」というのは、
変な表現ですけど、その人は、
「失敗したらたいへんだ」という、
心配を通り越して「恐怖」、
まあ、まさに恐怖を感じたので、
テレビ中継が見られなかった、
どうも、そういうことみたいで、
それ、その人自身のことじゃなく、
「他人のこと」ですけどね、でも、
まるで「自分のこと」みたいに、
感じちゃったわけなんでしょうか、
その人、「失敗したら叱られる」、
その恐怖が半端じゃないみたいで、
ですから、「羽生選手」という、
自分と関係ない他人のことですが、
それでも、我がことみたいに感じ、
「極度の恐怖」に陥ったみたいで、
全くねェ、「感情」関連のことは、
理屈では判断できないことだって、
ほんとに思ったことでした。

羽生選手が金メダルでしたから、
その人はやっと、
羽生選手の演技を、
テレビで見ることができまして、
その実例によって、この世の中、
「できない」とか、
「期待に添えない」って理由で、
「責められる」と言うか、
精神的に負担を感じちゃう人が、
いるんだってことで、
その深刻さを考えたことでして。

あの、人は確かに、
社会的に生きてますけどね、でも、
「誰かの欲求をかなえるため」に、
他人の欲望を充足する道具として、
生きてるわけではないんですけど、
でも、世の中には、自分はですね、
たとえば、「親の願い」を、
「かなえなければならない」とか、
そんなふうに思ってる人って、
いませんか?
・ ・ ・ ってことなんですよね。

この続き、
明日書ければと思いますが、でも、
明日になってみなければ、
実際そうできるかどうか、
わかりません。


自分の願いで生きられるのが幸福。

ほんとの気持ち

02-16,2018

早春(13)
今日は旧暦元日ですから、
太陽を添付写真にしてみました。

さて、映画「旅情」というのが、
テレビで放送されましたので、
どんな映画なのか全く知らずに、
旅行の話(?)程度に思って、
たまたま見てしまいましたけど、
まず、最初のシーンが、
蒸気機関車の客室でしたから、
印象的でした・・・というか、
ずいぶん昔の映画なのかなあと、
それが最初の感想でしたけど、
なんか、いっぱい、
考えちゃうことがありました、
その映画を見たあとですけどね。

それで、昨日のブログに、
「自分が楽しい」ってこと、
書きましたけど、その映画は、
「自分の思いを断つ」ために、
旅行先から去るというのが、
最終シーンになってまして、
ええっと、今のところ、
何と言ったらいいかわからない
・ ・ ・ という状態です。

そうですねえ、
「ほんとの自分の気持ち」が、
社会的に許されないというか、
まあ、結局、
ヒロインが生きる世の中では、
彼女の恋心を叶えることって、
「許されない」からでしょうか、
彼女が「自粛」する格好で、
苦しい結末になってましてね、
旧正月元日ですから、
めでたい話だと良かったですが。

でも、
「ほんとの気持ち」ってことを、
考えてみる材料になってまして、
明日、続きを書いてみたいですが、
「ほんとの気持ち」が、
「満たされる」ようでしたら、
幸福だと思いますけど、
社会生活を送る上では、
ほんとの気持ちが出せないような、
現実もいっぱいあると思います。


ほんとの気持ちで行動できる幸福。

自分が喜ばしく

02-15,2018

早春(12)
今日は、旧暦の大晦日ですね。
それで、「年越しソバ」、
食べてみようかなということで、
食べましたけど、悪縁や災いを、
「断ち切る」って意味のようで、
でも、今の私には悪縁もないし、
災いも特にありませんから、
ほんとに感謝で幸せなことです。

まあ、社会的なニュースには、
良くない事件もいっぱいですけど、
でも、だからといって、
それに合わせて自分もまた、
苦しまなきゃなんないなんてこと、
ありませんからね、それよりも、
世の中の「喜ばしいこと」に、
自分の意識を向けて、
周囲の人々といっしょに、
幸福に過ごすようにしていくのが、
一番いいかなあと思うことです。

そして、「自分自身の現状」が、
「いいなあ」と感じられる日々を、
自分で楽しめるってことでしたら、
他の人に対してですね、
険しい心で接するなんて態度には、
ならないはずですからね、
「自分が楽しい」ってことが、
他の人にとっても良いことだって、
そんなふうに考える私です。


「自分が幸福」=「他人も幸福」

犠牲が過ぎる人

02-14,2018

早春(11)
昨日は、体面を気にするってこと、
ちょっと書きましたけど、
「体面」って何でしょうね?

さて、世の中には、
いわゆる「世間体」を、
異常に気にする人がいまして、
実際私も、そういうタイプの人を、
何人か知ってますけど、共通して、
「他人の目」から見た自分の姿を、
意識しすぎのように感じられます。

あの、「自分がしたいこと」を、
優先するってことをしないで、
「他人はどう思うか」ってことを、
重視するんでしょうかね?

もしかしたら、
「自分がしたいこと」をするのは、
社会的に非難されることだとでも、
思っているのでしょうか。

そんなことを書きますのは、
ある人なんですけど、
「自分がしたいこと」をするのは、
「いけないこと」と思ってる人が、
いるんだという実例を知りまして、
いやあ、世の中、想像以上に、
いろんな人がいると思いました。

その人は、「親の言うとおり」に、
すべての行動を行う人で、
もう立派な大人なんですけどね、
でも、親の意に反する行為は、
犯罪行為だと思ってるようでして、
まあ私は、それほどまでに完璧に、
「子どもをしつけた」親というの、
そういう親が現実にいたってこと、
そっちの事実のほうが驚きです。

まあとにかく、
「自分の思い」は押し殺しても、
「他人の基準」に合わすという人、
ある程度、いるのかもしれません。

さらに、「自分の思い」を、
何と何と、「自分で否定」して、
「相手が都合いいように」とか、
「相手が利益を得る」ことばかり、
考える人がいるということで、
私の感想としては、ほんとにまあ、
そういう態度をとらなければ、
その人は、「生きることを」、
「許されなかった」過去があって、
そういう過酷な人間関係の中で、
「生きのびる」ためには、
たとえ自分を犠牲にしたとても、
相手を利する行動をしなければ、
生きてこれなかった環境だったと、
私は想像するんですけど、
人と人との社会関係の中には、
そういう例もあるんですね。


他人に操られないのが幸福の基本。

幸せの根本は

02-13,2018

早春(10)
人を大切にする、そのことって、
今、目の前にいる人を大切にする、
現実に、いっしょにいる人を、
大切にするってことなんだと、
私は思います。

つまり、
「今は」自分の前にいない人を、
大切にしようと思いましても、
それは、いわば「仮想の人」を、
「大切にしよう」という気持ちで、
その気持ちもまた、現実にですね、
その人が目の前にいないならば、
その気持ちそのものだって、
現実のものじゃなく、
「仮想のもの」だと思うことです。

それで、人は社会生活をしていて、
家族とか、職場とか、学校とか、
その他いろんなグループなどに、
所属してるのが普通でしょうけど、
たとえば自分は旧家である○○家、
その○○家の一員であるから、
○○家の人間としての誇りを持ち、
○○家の体面を損なわないよう、
家名を汚すことが無いようにとか、
そんな気持ちを持ったとした場合、
私の感想では、「家の体面」って、
仮想のもの、一つの幻想であって、
実体でないと思うんですね。

私としては、そういう幻想でなく、
現実に自分の目の前にいる家族、
その一人一人を大切にすること、
それが、幸福な家庭生活だって、
ほんとに思うことです。

さて、世の中には、
「家の体面」ってことを、
異常に気にする人がいますけど、
私としては、そんなことより、
家族の一人ひとりを大切にする、
それこそが幸せなことだと、
信じています。


現実に目の前にいる人を大切に。

泰明小標準服

02-12,2018

早春(9)
東京の泰明小学校が今春から採用の、
アルマーニ標準服について、
同小学校の保護者から、
メールが送られてきたそうでして、
今日書きたいのは、
その標準服の是非なんかじゃなく、
また、事実関係でもありませんで、
もちろん、私の意見でもなくって、
そのメールに「書かれている内容」、
書いた保護者の「考え方」に、
「なるほど」と思う点がありまして、
ですから、取りあげてみました。

それで、そのメールの一部分ですが、
次のように書いてありました。
__________

「学校は、子供達にとっては
『日常の場』です。
でもこの学校では、
一部の地域の関係者や保護者、
教職員といった、
大人たちが期待する『泰明らしさ』
がまずあり、
そこに子どもをはめて下さい、
となっている。
___________

あの、私が言いたかったことは、
「大人たちの期待」というものが、
まず最初にあって、
その期待に添うように、
子どもたちを「つくっていく」、
「つくっていく」というのは、
変な表現ですけど、要するに、
大人が考える理想の子どもに、
「子どもたちを仕立てる」という、
人権無視も甚だしい調教方法で、
「調教」というのは、
動物に対する扱いですけどね、
その調教を子どもに行うという、
まさに、悪魔の行為についてです。
でも、それは、
泰明小学校に関して、
書いてることじゃありませんで、
一般的に言って、
「○○しなさい」みたいに、
相手に強要するとか、
相手を「従わせる」態度について、
書いてることなんです。

泰明小学校の標準服問題は、
社会的に発生した問題であって、
その標準服にすることの効果が、
予測されるから選ばれたのかと、
そんな想像もできますけど。

まあ、世の中、相手に対して、
「○○であって欲しい」みたいな、
要求というか押し付けみたいのは、
あるんですよね、いつの時代も、
どんな社会にも・・・

でも、押し付けられた身になれば、
それ、つらいし、苦しいって面が、
絶対あると思いますね、なにしろ、
「自分の思い」なんて無視されて、
嫌でも「従わされる」んですから、
言わば、奴隷状態だと思うんです。

でも、一般に、世間は、
そういう奴隷状態を問題にせず、
是認するという風潮があるのかな?
・・・って感じでして、
そういうこと、また明日、
書いてみたいと思いますけど。


自分が尊重されるのはすごく幸福。

地獄状態から離脱

02-11,2018

早春(8)
人は社会生活を送ってますから、
対人関係が欠かせないわけで、
日々、関っている人からは、
大きな影響を受けるんですね。

それで、このブログでは、
ここのところずっと、
緊張させられたり、
不幸にさせられるような、
悪悪影を受ける結果となる、
望ましくない人間関係のこと、
いろいろ書いてきましたけど、
解決策としては、結局、
自分が悪影響を受ける人から、
「離れる」ってことが一番で、
相手が世間一般の人の場合は、
そういう人には「近づかない」、
それだけで済むことなんですが、
職場とか学校、そして一番は、
家族とか親戚関係なんですけど、
「逃れなれない」人間関係で、
自分を不幸にする人がいた場合、
どうすることもできないというなら、
気の毒ですけど、悩ましい限りで。

でも、世の中、
ほんとにいろんなことがあって、
強固な結びつきの人間関係でも、
解消できないこともないわけで、
職場の相手が問題となるなら、
闘って勝つ道もあるし、ダメなら、
やむなく退職する道しかないとか、
夫や妻が問題だったら離婚かな?
家族が問題の場合は家から脱出、
親が問題という深刻な状況では、
戸籍上の親子関係はあるにせよ、
縁を切り、絶縁状態にすることが、
実質、可能なわけですからね、
親子関係の「地獄」に留まらず、
「自分自身を生きる」天国に、
脱出するのがいいでしょうって、
それが私の提案なんですけど。

あの、子どもは親の所有物では、
もう、当然、ありませんからね、
「親から離れる」のはあたりまえ、
誰にも遠慮は要らないんです。

それなのに、子どもに対して、
親の期待に添うことを求めたり、
親の言うとおりの人生を、
子どもが歩むように求めたり、
失敗すれば責めたり叱ったり、
まあ、とにかく、親がですね、
子を「思いどおりに動かそう」
・ ・ ・ ということ自体、
子どもを「手放さない」ことで、
そんなことがあってはならず、
親というものは、自分の子が、
親元を離れて世の中に出て、
自由に飛翔することを望むのが、
本来の姿なんですよね。

ですから、子どもが親から離れ、
親から去っていくことは、
ほめられこそすれ、
非難されることなど無いのです。
あの、いつでしたか、
上野公園に行きました折、
野口英世の銅像を見ました。
野口英世という人は、
アメリカに渡り、
中南米にも行き、そして、
アフリカで亡くなったそうで、
そういう人もいるんですね。
母親のことを、
とても慕っていたと、
私は思いますけど。


地獄を去ることは非難されない。

神経ピリピリ

02-10,2018

早春(7)
「自分は偉大な人物だ」という、
すごい妄想を持ってる人って、
世の中には、実際、いるみたいで、
でも、「偉大な人物」にしては、
なぜか、社会的に、
くすぶってる存在というか、
パッとしないというか、ですから、
不満タラタラ、不愉快みたいで、
その憤懣が現れるのか、あるいは、
怒気が漂うとでも言ったらいいか、
名状しがたい不気味な雰囲気の人、
たまに見かけることがありますね、
私は。

でも、世間体を保つ為でしょうか、
異常にニコニコと「機嫌よく」、
あの、それは私が感じる推測で、
間違いかもしれませんけど、
仮に、不満や怒りを蔵しながら、
世間の人の目からは、
「何の不満も無い、幸福な人」
・ ・ ・ としか見えないように、
必死で演技してるとすれば、
すごく不幸な人と思うんですけど、
あの、やっぱり私の勘違いとか、
見当違いじゃなくって、実際、
そういう人が世の中にいるって、
思わざるをえませんで、
もちろん、他人の気持ちが、
私に判定できるはずがないので、
断定できないのではありますが。

それで、ほんとは自信が無いし、
それどころかですね、内心では、
自分はダメだなあって、
無意識のうちに思ってるけど、
でも、「自分はダメ」だってこと、
「意識する」なんてつらすぎて、
とてもできないでしょうから、
「自分で自分をごまかす」という、
曲芸飛行で世の中を飛び回る人、
いると思います、広い世間には。

・ ・ ・ で、曲芸飛行は、時々、
墜落するんですよね。
また、墜落しないまでも、
神経をすり減らす芸当ですから、
心のどかに、リラックス状態で、
楽しく人生を生きるなんてことは、
できないと思いますねェ。

あの、そういうタイプの人が、
家庭内で支配権を握るような場合、
緊張状態で神経ピリピリという、
すごい家族関係ができちゃったり、
そういうの、すごく不幸ですけど、
でも、見られますね、世間には、
そういう家庭って ・ ・ ・

まあ、そんなふうに、
緊張体質とでも言えるような人を、
時々見かけますけど、
社会生活上の不安とか、あるいは、
何かの恐怖を持ってるのかなあと、
私には想像されることです。

そして、幸福のためには、
当人にとって由来不明の不安とか、
恐怖というものは、どうしても、
取り除かなければならないって、
私は思うことです。


不安や恐怖があれば、幸福は無い。

親の影響

02-09,2018

早春(6)
人を好きになることができる、
また、愛することができるって、
究極的に幸福なことじゃないかと、
私は思います。

そして、自分のことが、それも、
今の自分のこの状況が、
「いいなあ」って思えるし、
楽しめるっていうのは、
とっても幸せだってこと、
結局、私は、
そういうことが言いたいんですね。

ところが世の中、そんなふうに、
幸せな状況ばかりじゃないし、
私としては、
「自分だけ幸福」を求めても、
周囲の人みんなが幸せじゃないと、
一人だけが幸福っていうわけには、
いかないっていうふうに、
社会はできているのかなあという、
そんな感じがしまして、ですから、
「みんな幸せ」な状況であれば、
自分も幸せ満点でいられるって、
ほんとにそう思います。

それで、昨日の続きなんですが、
今度は、「子どもの立場」で、
考えてみたいと思います。

世の中、受験に苦しむ子って、
多いかと思いますけど、
「親の影響」を受けて、
「勝ち残らなければならない」
・ ・ ・ みたいな考えに陥って、
結局、子どもは、
「自分自身の気持ち」というのが、
「意識もできない状態」に陥って、
「親の考え」を「自分の考え」と、
誤解してる面があるのかなあと、
私は想像するんですけど、
どうでしょうね?

どうも、世間には、
そういう子どもが多いみたいに、
私の目からは見えまして、また、
受験競争を勝ち進まなければ、
子どもの将来も幸福も無いって、
親たちのそうした考えが、
そもそも誤りだし、
そんなふうに思っちゃうのは、
社会生活に対する親たちの不安、
さらには恐怖心に原因があるかと、
私は想像するんですけどね。


幸福は、自分の思いを生きること。

やらされる

02-08,2018

早春(5)
自分がしたいことをするというの、
実はそれ、すごく幸福なことだと、
私は思います。

なぜなら、世の中、
人との関係で生きてますから、
社会的に是とされることでないと、
「やりにくい」し、もっと言えば、
他人に「認められない」ようなら、
すること自体、困難に陥る事態も、
充分に考えられる、というより、
「非難されてもやるか?」という、
苦しい選択を迫られることがあり、
でも、選択できるならまだましで、
世間には、「選択の余地無し」で、
「したくてもできない」ことが、
多々あったりすると思います。

子どもの受験だってそうでして、
日々を楽しく過ごしたくても、
受験勉強を親から強要されれば、
「イヤでも」親の意向に沿うしか、
選択肢がないような子どもって、
多いんじゃないでしょうかね?
今、受験の時期ですから、
そういう例をあげてみました。

それで、受験に限らず、
「親の意向」が絶対という家庭は、
多いかと思いますが、そうすると、
子どもは自分の思いや意思でなく、
「親の意向」を実現するマシーン、
・ ・ ・ そうなんです、自由と、
人格を持つ一個の人間じゃなくて、
まさに「機械」、そしてロボット、
そのロボットというのは、親から、
リモートコントロールを受けて、
「親の意のままに」動くという、
絶対命令に服す以外にない存在で、
それ、不幸で悲惨だと思います。

あの、「子どものため」に、
親がそうしてやるんだっていうの、
それはウソでしてね、子どもには、
自由と人格を認めてあげるのが、
親ですよね・・・って思います。

昨日のブログに、
「子どもを大切にしてるフリ」
って書きましたけど、
受験で子どもを支配する実態は、
子どもを大切にするフリしてる、
そういう例の一つと思いますが、
今日はこのへんまでにします。


親の欲求を、子に強要する不幸。

見せかけの世話

02-07,2018

早春(4)
世の中には驚くような人がいて、
たとえば、他人に対して、
ありえないような身勝手な要求を、
平気で行う ・ ・ ・ というか、
「身勝手だ」という意識そのものが、
欠けてる人って、いるものでして、
そうですねえ、社会的な観点からは、
「身勝手な行為」とされることでも、
その当人にしてみれば、まさに、
「あたりまえのこと」って認識で、
そういうタイプの人も、世間には、
ある程度の数、いると思う私です。

そして、さらにタチが悪いのは、
他人に身勝手な要求をつきつけて、
それがあたりまえと思ってるくせに、
自分が他人に何かをしてやることは、
もう、絶対イヤだし、仮にですね、
人のために何かをするハメになると、
その何倍もの見返り・・・というか、
「お返しをしろ」という憤懣の人、
そういう人も見かけますね、時々。

まあ、そうしたタイプが親になると、
子どもに「してやる」のがイヤで、
でも、世間体をつくろう必要上、
子どもをよく世話してやってるフリ、
その「フリ」ってところが重要で、
結局、それ、「見せかけ」なんです。

私の感想ですけど、
子どもが嫌いだという親がですね、
「嫌い」ってことを表現していて、
自分は親に嫌われてるってことを、
子どもが認識できる状況であって、
世間の人もまた、あの親ってのは、
子どもが嫌いなんだってわかる、
そういう状態にありますと、
子どもが受ける被害の大きさは、
まだ少なくて済むかと思うんです。

それで、深刻な事態が起こるのは、
子どもが嫌いな親が、本心を隠し、
子どもを大切にしてるフリをして、
また、かいがいしく世話する姿を、
「演出」してる場合だと思います。

まあ、この話、長くなるので、
今日はこのへんで ・ ・ ・


心を偽るのは不幸の一大原因だと。

信義の重要性

02-06,2018

早春(3)
昨日の続きですけど、
子どもに遺産をやりたくない場合、
自分の全財産を、生前に、
誰かに「寄付してしまう」と、
もう必然的に、子どもは、
もらえる遺産がなくなりますよね。
実例としては、宗教団体に、
遺産全額を寄付して、子どもには、
一円も遺産が相続できないよう、
画策した親がいるということで、
実はその子どもというのが、
金銭的に困っていた人でして、
ですから、子どもに対する憎悪が、
ものすごいって思いましたけど、
世の中にはそういう親がいるんで、
でも、そういう人間であっても、
寄付を受けた宗教団体からは、
「立派な人」と尊ばれるし、また、
社会的に尊敬されてる場合だって、
あると思いますね。

まあ、自分の子とか、配偶者とか、
そういう「内輪の人」を攻撃して、
世間体は聖人君子みたいに見せる、
偽善の人というか、虚飾の人って、
心が魔性化してますけど、その分、
全力で「自分を偽る」演技をして、
正体を隠してる不幸極まりない人、
いると思いますけどね、でも、
それは「自分が選択した道」だし、
その人の人生選択ですからね・・・

あの、子どもや配偶者というのは、
その人の「ほんとうの姿」に、
感づいてる場合があるでしょうし、
その上、同居して暮らすとなれば、
自分の正体を「隠し通す」のは、
至難の業ですからね、そうなれば、
攻撃して相手を壊滅、無力化させ、
自分が絶対権を握るという手法は、
とても巧みなやり方だと思います。

それで、仮に、自分の真実の姿を、
隠し通すことができるたとしても、
そういう態度をとる不幸状態から、
もう決して、逃れられないわけで。

そして、そういう人は、結局、
自分の子どもや配偶者だけでなく、
世間の人々を騙そうとしますけど、
騙すというより「反社会」、
そうですねえ、反社会的態度だと、
そういう表現をしても、あながち、
間違いではないかと思います。
私は、社会を成り立たせる為には、
信義が必要だと思いますから。


信頼に基づく社会関係なら、幸福。

子どもを裁判に

02-05,2018

早春(!) (2)
世の中には、親が自分の子どもを、
訴訟を起こして攻撃するってこと、
実際にありますから驚きですけど、
その実例の中には、自分の遺産を、
子どもにやりたくないのが本心で、
裁判に至った例を知ってまして、
まあ、訴えの表向きの形態は、
遺産のことを避けてるんですけど、
結局親側がその訴訟に勝利すれば、
子どもは遺産が受け取れないので、
「目的を達する」わけなんですが、
その親というのが、他人に対して、
「してあげる」ということが、
どうしてもできないタイプみたいで、
でも、世間体があるからでしょう、
「気前のいい人」のように振舞い、
いかにも社会貢献してるって、
世間の人からは「見えるように」、
必死に繕ってるタイプの典型で、
「内実と外見が違う」という人の、
見本みたいに思えることです。

あの、それで、
「子どもにしてやること」を、
徹底的に避けてきたような人で、
それでいながら、世間体を繕い、
子どものために献身してるように、
「外見だけは見せつける」のが、
得意技だったんでしょうかね、
裁判の被告となった人というのは、
世の中の人から見た目、外見は、
「親からよくしてもらっている」と、
誰の目にも映ってたみたいですが、
実際には、食べ物も衣類も、
満足に与えられなかったそうで、
でも、「外出着の一点」なんかは、
飛びぬけて豪華、高価なもので、
「人前に出る時」はそれを着て、
ふだんは洗濯もしない襤褸を着て、
そのギャップがすごいんだとか。

まあ、その親の気持ちですけど、
子どものために金がかかったから、
子どもの「犠牲になった」わけで、
その「元を取る」ため、子どもに、
贅沢三昧をさせてもらい、また、
至れり尽くせり、奉仕してもらう、
それが当然と期待していたのに、
子どもがそうしてくれないうちに、
自分が死を迎えそうな病気となり、
そうしますと、子どもは労せずに、
遺産がタダ取りできるというので、
そんなことは許せない・・・って、
まあ、そういうことのようですね。
いやあ、すごいです、すごいです、
その心情。

いや全く、世間にはそういう人も、
現実にいるってことでして、
この続きはまた明日に。


子ども嫌い=自分嫌い、不幸の極。

ガマンの蓄積

02-04,2018

早春(!)
今朝は寒さが緩み、
おだやかな立春の夜明けとなり、
ゆったりした気持ちで一服の煎茶、
こうして、今の状況を楽しめるの、
「いいなあ」と思いますけど、
今、テレビではちょうど、
寒気と大雪に関するニュースです。

まあ、世の中、
気持ちよく過ごせないことも多く、
昨日は、トラブルのことについて、
ちょっと書きましたけど、
トラブルというものは、
人と人との関係で、
社会的に生じるものなんですが、
気分的にイヤなものですからね、
「避けたい」というのが人情で、
でも、「避けられない」場合って、
世の中にはいっぱいあると、
私は思います。

さて、「相手に対する要求」を、
強く持つタイプの人っていうのが、
いると思う私です。

それで、タチが悪いのは、
相手に対する要求は強いのに、
自分が相手に対して、
してあげるのがイヤだという人で、
そういう人と付きあうってのは、
まあ、なかなかたいへんですけど、
悲惨なのは、子どもの場合、
そういうタイプの人が、
親とか養育者だという場合ですね。

あの、世間には、
子どもに「してあげる」ことが、
もう、絶対にイヤでして、
でも、子どもを育てるには、
金もかかるし、手間もかかるしで、
世間体を考えますと、
「立派に子育てしてる」みたいに、
「見られたい」タイプの人もいて、
そういう親や養育者の場合は、
深刻な問題が起こると思います。

そして、そういう親や養育者が、
子どものために自分は犠牲になり、
身を挺し、献身してるんだって、
自分のことを思ってるような例が、
多いんじゃないかと思うんです。

それで、そういう親や養育者は、
「自分が犠牲になってる」分、
子どもに対して、
「見返りを求める」思いというの、
それは、まるで子どもに対して、
損害賠償を要求するのとですね、
同じような気持ちというか、まあ、
親の自分が犠牲になったという、
激しい怒りだと思うんですけど、
そうしますと、子どものほうは、
精神的にたまらないわけでして、
でも、親とのトラブルなんてのは、
子どもには耐えられませんから、
子どものほうが「ガマンする」、
あの、ガマンしたくないとしても、
それ以外の選択肢は無いかなあと、
私は思います。

そして、ガマンは蓄積していき、
その蓄積こそが、やがて時を経て、
大問題に発展すると思うんですが、
今日はこれくらいで。


ガマンや苦は、解放しないと不幸に。

邪気を払う

02-03,2018

寒の内(27)
節分の豆撒きってことで、
邪気みたいなものは、
生じるたびに払っちゃうっての、
ああ、やっぱり、それが大切って、
ほんとに思いました。

世の中、生きてる限り、
いろんなことでトラブルみたいの、
どうしたって起こりますからね、
一人孤立して他人と関らないなら、
社会生活をするからこそ発生する、
トラブルは発生しないでしょうが、
それでは「生きる喜び」もまた、
放棄することになりますからね。

それで、「トラブルは避けがたい」、
しかし、発生した邪気みたいのは、
そのつど払って無くしちゃうのが、
実際的で賢明な生き方かな?

あの、たとえトラブルが生じても、
その人と楽しく、仲良くできるの、
それは当然のことですから、
トラブルはそのつどそのつど、
「悪い思いを残すことなく」、
流れ去らせちゃうのがいいですね。


トラブルがあっても、幸福は続く。

子どものしつけ

02-02,2018

寒の内(28)
今朝もまた積雪となりましたから、
行く予定だった行事が中止となり、
ちょっと一息といったところです。

なにしろ、日々の忙しさのあまり、
「準備ができてない」状況なので、
正直なところ、助かりましたけど、
世の中、あんまり忙しすぎるのは、
ダメなんですけどね、でも、
いろんなことをしてるので、勢い、
そうなっちゃう私でして、まあ、
「自分の責任」だし、
「したいことをしている」ので、
「苦にはならない」ですね、当然。

ところが、受験生に限らずですね、
親などから、息つくひまもなく、
ああしなさ、こうしなさいとか、
言われたらたまんないと思います、
「自分がしたいと思う」のでなく、
「他人から強要される」ことって、
たいへんな苦痛だと思うんです。

その上、受験に失敗したら、
「将来は無い」みたいに脅され、
恐怖状態で必死にガンバルなんて、
精神的にすごく悪いと思います。

でも、大学受験くらいの年齢なら、
まだ耐えられるでしょうけど、
高校受験、中学受験、小学校受験、
まあ、子どもの年齢が低いほど、
「受験で責められる」ってことは、
責め苦じゃないか想像しますけど、
さらに、まだ幼児の頃からですね、
苛烈な「しつけ」をする親もまた、
世間には実際にいるわけでして、
そういうのはもう、不幸も不幸、
子どもはもちろん不幸の極ですが、
そういうしつけをする親ってのが、
精神的に不幸を抱えてるために、
子どもをそんなふうに扱うんだと、
私は想像しちゃいます。

それで、親とか養育者がですね、
精神的に「安心」できてる状況、
そして、自分たちの人生は、
「だいじょうぶなんだ」という、
予測 ・ ・ ・ とでも言うか、
とにかく、取り越し苦労のない、
安定した心理状態にありましたら、
狂気じみたしつけに走るなんて、
ありえないと思うわけでして、
さらに掘り下げて考えますと、
社会生活を送る上で、
「自信が持てるかどうか」という、
個人と社会との関係にも波及する、
複雑な問題かと思います。


不安や恐怖が無いってことは幸せ。

恐怖を煽る

02-01,2018

寒の内(26)
以前もこのブログに書きましたが、
ある高校の進路指導の先生ですけど、
大学に行かないと、
まともな人生を送れなくなるって、
生徒を脅すんだそうでして、でも、
同じように子どもを脅す親だって、
世間には、いっぱいいると思う私で、
あの、そういう実例をたくさん、
知ってる私です。

まあ、この世の中、
何か狂ってる面があるという感じで、
でも、「親となれば」、どうしても、
必死になっちゃうんでしょうかね、
知り合いのあの人もこの人も、
今の時期、「子どもの受験」だから、
いろんな活動に参加できないとか、
そういう話、多いですよ。

だいたい、社会そのものが、
「競争する」ようにできてるのかも?
・ ・ ・ って感じですけど、
そうしますと、親としましてはネェ、
子どもを叱咤しちゃうのかなあって、
不幸なことですけどね。

まあでも、「恐怖を煽る」手法で、
子どもを何とか動かそうなんてのは、
不幸も不幸、すごく不幸だってこと、
認識して欲しいと思う私です。


子どもが持つ力を信じられる幸福。

人も自分も喜び

01-31,2018

寒の内(25)
あの、昨日の予告とは違う内容で、
今日は書かせていただきますけど、
「したいこと」をするってのは、
すごく幸せなことでして、しかも、
他の方々に喜んでいただけるなら、
とてもうれしいことだってことを、
喜ばしく感じる私ですけど、それ、
「自分がしたいことをする」のが、
「他の人にも喜んでもらえる」と、
そういう幸福に恵まれてることで、
そのことをよく考えてみますと、
「自分が」したいことといっても、
それは、「他の人」の喜びに、
直結することでしてね、ですから、
「自分がしたいことをして」ですね、
しかも「他の人に喜んでもらえる」、
そういうことって、あるの?
・ ・ ・ みたいに考える方々だって、
世の中には多いと思いますけど、
だいたいねえ、
「他の方に喜んでもらえるように」
自分が行為したい・・・って、
そんなふうに思えるとしたら、
すごく幸福な人だと思います、
私は。

この世の中、現実を考えれば、
今日私が書いたことなんてのは、
夢想も夢想、現実離れがひどくて、
社会生活では夢物語の夢物語、
「何、馬鹿なことを言ってんの!」
・・・って、叱られそうですけどね、
でも、ほんとのほんとの真実では、
「他の人の喜び」を願う気持って、
「自分を大切にする」気持ちの変形、
・ ・ ・ というか、あの、
他の人の喜びを願う気持というのは、
「自分を大切にする」気持ちと同源で、
そのことを反対から言えばですね、
他人を貶める気持ちの人ってのは、
実は実は、「自分をひどく扱ってる」
・ ・ ・ ってことなんですけどね、
まあ、そういうこと、少しずつ、
気長に書いていきたいと思いまして、
つまり、「一挙に書こう」としても、
ただちに結論を求めるなんてことは、
不可能な問題ですからね。


幸せの道は「一挙に」でなく徐々に。

社会生活上の恐怖

01-30,2018

寒の内(24)
このブログでは、韓国TVドラマ
「火の女神ジョンイ」のこと、
たくさん書いてきましたけど、
主人公の柳井はじめ、登場人物は、
陶磁づくりに関る人々なんですね。

それで、柳井と養父の柳乙潭、
そして師匠の文師承などの面々は、
陶磁を愛し、
磁器づくりを喜びとする人々で、
でも、官窯のトップである李江天、
そして、その息子である李睦道は、
陶磁に対する愛着というのでなく、
社会的な自分の出世とか肩書きを、
激しく求めていたんですね。

ですから、磁器づくりというのは、
彼らにとっては、社会的に、
自分が「のし上がる」ための、
「手段」だったと思います。

あの、ですから、同じことで、
大学受験に必死になるというのも、
「学問を愛し、学問がしたい」、
そういう意欲からではなくって、
将来、世の中に出て出世するため、
その手段としての一つの段階であり、
もちろん、大学入学が目的じゃなく、
大卒の資格を得ることによって、
世間の人々がうらやむ職業に就き、
「出世したい」っていうことが、
本来の目的だということでしょう。

ところが昨日書いた林屋晴三先生は、
焼物を愛していて、だからこそ、
焼物の研究がしたい・・・という、
自分の素直な気持ちを大切にしてる、
そこのところが偉いと思う私です。

それで、林屋晴三先生は、
夜間大学に通って大卒の資格を得て、
その資格により給料を上げてもらい、
さらに、職階を上げてもらうことを、
「しなかった」わけですけど、実は、
上司からそうするように勧められて、
でも、その勧めを「断った」という、
世間の人の感覚からは、もうとても、
考えられないことなんですけど、
あの、上司の親切心に逆らっても、
自分の給料は上がらないし、
職階も上がらないという道を、
自ら選択するんですけど、それも、
「焼物の研究をしたい」という、
自分の気持ちを優先するからでして、
主体性を発揮して自分の道を求める、
その姿を見まして、私は、
てすごい方だと思い、尊敬ですね。

ですから、人は、
自分が「したいこと」を行って、
そこに喜びを見出すというのが、
ほんとに幸せなことだと思います。

それで、青春を捧げて受験勉強し、
さらに、学問したいからじゃなく、
「就職を有利にしたい」目的で、
大学生活を送るって、あの、それ、
「自分がしたいこと」をしないで、
若い時代を送ることになますから、
なんか哀れな感じがするんですね。

・ ・ ・ というか、
社会的にのし上がらないと、
自分の人生がダメになるっていう、
その「恐怖」が人を駆り立てると、
私は想像するんですけど、続きは、
また明日。


恐怖の回避行動は幸福から遠いと。

自分の心に素直

01-29,2018

寒の内(23)
このブログでは、中国、安徽省に、
毛坦廠中学という学校があって、
「アジア最大の大学合格工場」と、
呼ばれている話を書きましたけど、
世の中、大学進学に青春を捧げ、
必死になってる生徒がいますけど、
でも、そういう生徒ばかりだとは、
言えませんよね。

それで今日は、
林屋晴三という方のことを、
ちょっと書かせていただきます。

林屋先生は、昭和22年5月に、
18歳で京都から東京に出ていって、
昭和23年2月に、「雇員」として、
東京国立博物館職員となりましたが、
学歴が旧制中学の卒業でしたから、
雇員としてしか、
採用されない立場だったようです。

その後、昭和24年頃のようですが、
職場の上司から、
「林屋君、君、夜学でも行かないか」
・ ・ ・ つて言われたそうです。
「どうしてですか?」と聞いたら、
「大学でも行かないと
 給料を上げてやれないんだよ」と。

すると、林屋先生の返答なんですが、
「ああそうですか。
 上げなくてもいいですよ。
 僕は大学へは行きません」って、
言ったそうですけどね、その理由は、
「大学なんて
 つまらないと思っていた」
ということでした。

そして、
「学歴をもらうために、
 大学なんか行こうとは
 思っていなかったですから」
と語っています。

あのう、人がうらやむような学歴、
そういうのを、世間の多くの人は、
「価値あるもの」と考える傾向って、
強いような気がしますけど、でも、
私自身は、学歴を重視する気持ちが、
あんまりありませんで、ですから、
いっしょに活動したり交際する人の、
「学歴に関心を持ったこと」って、
ないんですね。

まあ、でも、今日書きたかったのは、
林屋晴三先生って、
学歴のような社会的な価値観には、
ほんとに影響されずに、
「自分がしたい」焼物の研究に、
邁進された方だということでして、
それで、社会的に有意義な研究を、
ずっと継続されれ、世の中に、
多大な貢献をされたってことでして、
その、「自分の心に素直」ってこと、
すばらしいことだと思います。


自分の気持ちに素直に生きる幸福。

子に厳しい親

01-28,2018

寒の内(22)
昨日書きましたXiangさんですけど、
私は Xiangさんじゃありませんから、
彼の気持ちはわかりませんけどね、
勝手な「推測」はできるわけなので、
以下は、何の根拠も無い想像ですが。

それで、世の中、人情としてですね、
母は自分に対して、優しく、そして、
温かくあってほしいというのが、
普通の気持ちじゃないでしょうか?

でも、Xiangさんは20歳というので、
乳幼児じゃないわけですから、別に、
「大人の扱い」を受けてつらくても、
充分耐えられるかも知れませんけど、
世間には、幼児、子どもに対しても、
「厳しく接する」親とか養育者って、
いるわけでして、ほんとうの問題は、
「厳しいか甘いか」とかじゃなくて、
「慈しみがあるのかどうか」だと、
私は思います。

それで、Xiangさんが生まれて以来、
充分、母の慈しみを受けて育ったなら、
深刻な心の傷は生じないで済むかと、
私は思いますけどね、問題は、
子どもを愛することができない親に、
育てられる境遇の子どもなんです。

あの、世間には、子どもを愛せない、
好きになれない親というのが、実際、
いっぱいいるというのが現実でして、
そういう親の中には、
子どもを「利用して」、
親自身の欲求を満たそうとする人が、
いるんですね、ほんとにいるんです。

あの、そして、
子どもに対する慈愛が無いからこそ、
子どもを「利用できる」わけでして、
そういう親って、ほんとにほんとに、
子どもに対して残虐になれるって、
厳しい親の事例を見てきて思います。

ですからねえ、幸福感が持てるとか、
不幸感でいっぱいなんていうことを、
「個人の心の問題」だと考えるのは、
違うだろうと思う私で、社会の中での、
他の人との関係によってですね、
個人の幸不幸が左右されることって、
多いと思うことです。


温かく優しくしてもらえたら幸福感が。

自覚できない怒り

01-27,2018

寒の内(21)
今日も「怒り」について、
続きを書きますが、李江天の息子は、
「父親の期待をかなえる人間」
であることを要求されてるんですね。

そして、世間には、彼と同じように、
親の期待を一身に背負う子どもって、
いっぱいいると思います。

それで、22日のブログでは、
中国、安徽省の毛坦廠中学のこと、
ちょっと書きましたけど、
「全校の約半数の生徒が
保護者に付き添われており、
高校3年生の場合は8割弱に達する。
家に受験生がいれば、
一家全員が大忙しだ。」という、
記事を見てびっくりした私です。

また、別の記事には、
その学校の一生徒について、
以下のように書いてありました。
__________

「母は仕事を辞めて、
私と一緒にいるために
ここに来てくれた」と、
2度目の高考に準備するために
毛坦廠に来たXiang Lichengさん
(20)は言う。
彼は、この学校で
忍耐を学んだという。
「勉強したくない時でも、
母が私のために
どれだけ苦労しているか見れば、
怠けることはできない」と、
Xiangさんは言う。
__________

それを読んでの私の感想ですが、
「忍耐を学んだ」そうですから、
どんなにイヤでもやるってわけで、
すごい意志力だと思いますけどね、
「怠けることはできない」って、
彼自身が言ってるわけですから、
もう、相当に「無理してる」って、
私は思ったことでした。

そして、彼自身は「怒り」なんて、
全く自覚してないと思いますけど、
私の、全く根拠の無い推測で、
勝手な見方で偏見かも知れませんが、
そういう状況では、無意識ですが、
「怒り」が心に生じているだろうと、
私は考えるんですね。

でも、彼は、自分の「怒り」を、
「感じないようにしてる」し、
そもそも自分には、
「怒りなんて無い」と、
思ってるだろうと推測する私です。

そして、世の中には、
親に対する怒りの感情を、
「感じないようにしてる」人って、
多いように思われますし、また、
そういう人というのは、自分が、
「怒りの感情を持ってる」なんて、
全く気付けない場合が多いようです。

あの、「怒りが無い」って、
幸福なことなんですけどね、でも、
「ほんとは怒りを持ってる」のに、
怒りを持ってる自覚が無い場合は、
きわめて解決困難な不幸状態に、
陥ることになると思う私ですけど、
こういう話っていうのは複雑で、
とても一挙になんか書けませんから、
少しずつ書いていくことにします。


自分のことがわかるのは幸福への道。

怒りは不幸の原因

01-26,2018

寒の内(20)
昨日は、
「恐怖」のことを書きましたから、
今日は「怒り」について書きますが、
どっちも不幸をもたらすものでして、
でも、社会生活上、どうしても、
多かれ少なかれ、誰もが、
体験せざるをえないことですからね、
恐怖も、また、怒りも ・ ・ ・

それで、どこから「怒り」の話を、
切り出そうかと思案するわけですが、
そうですねえ、昨日、
李江天のことを書きましたから、
その李江天は、息子に対して、
「怒りを感じていた」だろうという、
私の推測から、話を始めたいです。

それで、李江天の息子である睦道は、
磁器作りの腕前にかけて、
ドラマの主人公である柳井よりも、
劣っちゃう面が、ドラマの展開上、
いろんな場面で露呈しちゃうんです。

それで、父親である李江天ですけど、
ドラマを見てますと、息子に対して、
「怒り」の気持ちがすごかったと、
私は、そういうふうに感じましたね。

あの、ドラマでは、李江天がですね、
息子に怒りを感じてるような映像は、
皆無でしたけどね、でも私としては、
李江天の「ほんとうの気持ち」を、
ドラマ展開から読み取ったんですね。

李江天は、自分という人間が、
「偉い人」でありたかったんですね。

その心理的理由を探りますと、実は、
「自分に自信が無い」からなんだと、
私は思うわけですけど、世の中には、
「自分に自信が無い」からこそ、
ほんとは「ダメ」な自分だという、
真実の姿を世間の目から覆い隠そうと、
隠蔽工作に腐心するあまり、ことさら、
「偉い自分」の姿を演技し、演出して、
世の中の人々に「見せつけよう」と、
あの、そういう事例って、世の中には、
ここかしこに見られることなのでは?

まあ、そういうのって、
「ダメな自分」という「真実」が、
世間に知られたら、もうそれで、
「自分は終わり」っていうふうに、
とんでもない誤解、そして恐怖に、
「とらわれちゃってる」からだと、
私は思いますけどね。

あの、それで、李江天にしてみれば、
自分の息子が「ダメ人間」だと、
世間に知られるということになれば、
親である自分自身の価値というか、
世間の評判が下がっちゃうって感覚、
まあ、その思いが強いんでしょうね。

ですから、「自分の評判を下げる」、
つまり、自分の虚飾をぶち壊す息子、
そういう息子は「許せない」という、
その心情によるものだと思うんです。

つまり、息子がですね、
親である自分の評価を下げることを、
「許せない」ってことでして、
つまりそれは、「怒り」なんですね。

あの、今日は、「怒り」に関して、
親子関係の特殊な状況においての、
子どもに対する親の怒りってこと、
ちょっと触れましたけど、
「火の女神ジョンイ」という、
韓国ドラマを見ましたおかげで、
世の中に見られる父息子関係の、
一つのパターンが認識できまして、
ドラマを見ることがですね、
娯楽だけで終わらなかったってこと、
ほんと、有意義でした、このドラマ。

最後に書きますけど、
「ダメな自分」という思いこそ、
全く、全然、不必要なものでして、
そんな「余計なもの」を堅持すると、
自分を不幸にしちゃうと思います。


自分を否定する気持ちは、不幸の源。

恐怖が心にあると

01-25,2018

寒の内(18)
自分が「やりたいこと」ってのが、
その人にあって、社会の中で、
その「やりたいこと」を実行して、
自分も生きがいを感じるし、
世間の人々からも、
自分がしてることを認めてもらえる、
さらには、喜んでもらえるとしたら、
その人はとても幸せだと、
私は思います。

ですが、世の中の現実を見ますと
そんな人ばかりじゃないと思います。
中には、仕事にしても、あるいは、
日々の暮らしとか自分の状況が、
不本意だったり、嫌だったり、
それで、ガマンして生きてるとか、
もっと気の毒なのは、
耐えて生きてる人もいるでしょうね。

そういう人は幸福からほど遠いし
もっと悲惨なのは、こんなことでは、
自分の人生はダメになるみたいな、
不安とか、さらには、
恐怖を心に抱えるようになりますと、
かなり深刻になると思いますね。

あの、この人生って、たとえば、
人がうらやむような学歴がないと、
ダメなんでしょうか?
結婚相手の条件みたいなことで、
世間の人がよく話題にすることは、
相手の男性はどんな職業か、地位か、
収入はどうかっていうようなこと、
女性だったら年齢とかルックスが、
重視される傾向があるのかなあ?
それで白雪姫のママなんかは、
「世界で一番美しい」ってことを、
かなえられなければ殺人を犯すほど、
求めていた ・ ・ ・ という表現は、
正確な表現じゃなくって、実は、
「美しくない」自分であることを、
「恐怖していた」んじゃないかと、
私は思いますけどね。

また、このブログでは、韓国ドラマ、
「火の女神ジョンイ」のことを、
いっぱい書いてきました。
それで、不幸の元凶となってるのが、
李江天という登場人物でして、
出世の為に極悪非道を重ねる人生で、
また、息子を出世させる為に、
息子を「厳苛管理」するんですが、
そういうのって、私の感じでは、
彼自身の「欲望」というより、
出世しなければ、この世の中を、
「渡っていけない」というような、
「恐怖」によって、
突き動かされてるんじゃないかと、
私は想像するんですけどね。


恐怖を去らないと幸福はきませんね。

苛烈に扱うのは

01-25,2018

寒の内(17)
社会生活上の「大人の感覚」って、
人間関係の多くの体験をとおして、
少しずつ身についていくのかなあと、
私は思ったことでした。

それで、もう幼少の頃からですね、
「手のかからない子」というか、
「聞き分けの良い子」というか、
とにかく、しっかりした子だと、
世間の人から言われるような子を、
時々見かけるんですけど、私は、
不幸だと思うんですね、そういう子。

あの、子どもとして不自然というか、
子どもっぽいところが無いというか、
そうですねえ、「無理してる」のか、
いいえ、無理してるんじゃなくって、
「無理させられてる」っていうのが、
正確な言い方かなあと思いますけど、
要するに、親や養育者が、それこそ、
中国の言葉で言う「厳苛管理」を、
強力に推し進めますと、子どもが、
そんなふうになっちゃうと思います、
そういう子たちの親に関して、
子どもに対する接し方を見てますと。

それで私は、どうして自分の子を、
それほど苛烈に扱って、むごいほど、
必死に厳格教育を敢行するんだろう?
・・・って、疑問ですね、ほんとに。

そして私は、そういう親や養育者は、
心の奥底に、恐怖や怒りを潜ませて、
でも、自分が抱えてる恐怖や怒りに、
「気付いてない」かも知れないって、
そんな推測をしてまして、世間には、
そういう親もたくさんいるだろうと、
まあ、そんな感じに過ぎませんけど、
こういう話題は書くのがたいへんで、
長くなりますから、今日のところは、
このへんでおしまいにします。


優しく親切にできる気持ちなら幸福。

仲良くできる

01-24,2018

寒の内(16)
昨日のテレ朝ニュースなんですけど、
「また五輪不参加ちらつかせ
抗議活動に猛反発」というのがあり、
22日に○○○の事前視察団が、
ソウルを訪れた際、
○○の保守系団体が○○○の
オリンピック参加に反対して
○○○委員長の写真や
○○○の旗を燃やすなどの
抗議活動を行いました。
これに対して○○○は、
参加中止もちらつかせ、
○○側を批判する談話を出しました。
談話で○○○は、謝罪や
保守系団体への処罰を求めています。

私がこのニュースを話題にするのは、
個人の幸不幸に関することがらを、
社会的に考えるのに、
関連する話と思ったからです。

さて、昨日は、「厳苛管理」という、
中国の言葉を話題にしましたけど、
人々が何かの抗議活動を行って、
世の中に訴えることに関して、
相手国の人々が行った行動を、
他国が批判したり、相手国政府が、
そういう国内活動を許したとして、
相手国に謝罪や処罰を求めるのは、
相手国に対して、
自国の考え方に添った行動を、
求めているということでは?
もっと言えば、相手国を、
思うように操作したいのでは?

あの、A国がB国を、
思いのままに動かそうとするとか、
CさんがDさんを、
思うように動かそうとするのは、
「相手を尊重してない」態度だと、
私は思います。

でも、今の世の中、相手国を、
「自国に都合の良い国にしよう」、
また、個人のレベルでは、
相手の人を、「自分にとって、
都合の良い人間」にしたいという、
身勝手な思いを正当化する傾向が、
あるように思われるんですけどね。

「厳苛管理」ということだって、
相手の人権なんか無視も無視、
無理やり相手を、
自分に従わせるという手法であり、
そういうの、「不幸の源」だと、
私は思いますけど、明日は、
「子どもの将来のためとか」、
もっともらしい理由をつけて、
子どもを厳苛管理する不幸のこと、
書いてみたいと思います。

あの、国と国も、人と人も同じで、
「仲良くできる」っていうのが、
とっても幸福なことなんですけど、
そうじゃないことも社会には多く、
それで、今日は、
仲良くできない不幸について、
書いてしまいました。


相手を管理すれば両者共に不幸に。

子どもを厳苛管理

01-23,2018

寒の内(17)
まず、添付写真なんですが、
バックミラーの上に積もった雪に、
山茶花を挿してみました。
車の屋根に雪が山になってまして、
でも、先ほど、今日最初のバスが、
うちの前を通り過ぎましたから、
交通的には、まあ、何とかですね。

ところで、昨日「厳苛管理」という、
中国の言葉を見まして、いやあ、
表現が現実を的確に表していると、
ほんとに思いましたね。

ところで、世の中には、
自分の子どもに対して、
乳幼児の時から「厳苛管理」を、
徹底して行う親とか養育者って、
現実にいると思いますし、
しかも、「子どものため」と、
信じて疑わない場合が多くて、
それは不幸の原因として、
大きい問題だと思う私です。

まあ、親としては、この社会に、
「上手に適応してうまくやり」、
子どもが利を得るようにしようと、
それが目的かもしれませんけどね、
でも、でも、子どもにとっては、
「厳苛管理」されること自体が、
ものすごい苦しみと不幸であると、
私は思います。


心に余裕を持てるってことが幸せ。

受験勉強マシーン

01-22,2018

寒の内(15)
中国、安徽省に、
毛坦廠中学というのがあるそうで、
その学校は、
「“高圧苦読、厳苛管理
(情け容赦ない厳しい管理の下で、
苦しみに耐えて勉学に励む)”」
で知られ、
「アジア最大の大学合格工場」
と呼ばれているそうですけど、
いやあ、
日本よりすごいなあと思いました。

センター試験のムーミン問題を、
数回にわたって書いてきましたが、
受験生が苦しむ状況っていうのを、
私は、いいと思いません。

まあ、こういう社会なんですけど、
あの、世の中、苦しい思いをさせ、
「必死にがんばらせる」仕組みは、
弊害が大きいと思う私です。

そして、自分がですね、
「苦しい思いをさせられた」場合、
人はどうしても、他人に対して、
寛容になれないってのが人情だし、
自分が苦しいと、人は、
他人を責めたくなると思いますし、
ですから、誰かを責めるとか、
攻撃しちゃうようになる原因は、
「自分が苦しめられた体験」にも、
求められるかなあと感じます。

そして思いますが、人は誰もが、
他人の期待を満たすとか、
他人の願いをかなえるために、
この世の中に生きてるのではない、
・ ・ ・ ということ、それが、
社会的に広く認識されることって、
とても重要なことだと思います。

それでですね、親が、
子どもの受験に必死になるあまり、
自分の子を、
「受験勉強マシーン」にするのは、
子どもはもちろん不幸ですけど、
そういう親もまた、とても不幸だと、
私は思います。

人は誰もが、「自分を生きる」、
つまり、
「自分自身の」人生を生きること、
そこに、幸福があると思いまして、
ですから、
「他人の言いなり」になる人生は、
幸福じゃないと思う私です。


厳苛管理される青春は不幸ですね。

クレームつけっこ

01-21,2018

寒の内(14)
センター試験のムーミン論争ですが、
私はそこに、不幸の原因の一つが、
実例として示されてると思います。

さて、ある批判なんですけど、
報道された記事を掲載します。
____________

「物語の舞台のムーミン谷は
架空の場所、
ビッケと仲間たちが住んでいる村も
ノルウェーとは明示されていない」
と指摘し
「フィンランドとノルウェーを
描いた根拠がなければ
解答不能になる」と危惧を表明した。

センターはムーミンの画像から
「低平で森林と湖沼が広がる
フィンランドが類推される」
とも説明する。
20日には、
地理や地学の教員らでつくる
「日本地球惑星科学連合」の有志が
「平地、樹木、湖沼は
ルウェーにも実在する」として
センターに説明を求める
要望書を送った。

さて、以下は私の考えですが、
「フィンランドと
ノルウェーを描いた根拠がなければ
解答不能になる」という指摘に対して、
私は、その指摘って、
「相手の傷口を狙って攻撃する」態度、
・ ・ ・ かなあって感じなんですが、
言論の自由が存在しますからね、私は、
「私として思うこと」を書くだけで、あの、
解答は選択肢から選ぶことになるので、
「フィンランドと
ノルウェーを描いた根拠がなければ
解答不能になる」って指摘については、
私は、気に入りませんね、なぜなら、
選択肢から選ぶしかない問題ですから、
「出題した根拠」が不明だった場合、
受験者は選択肢を選べないというなら、
受験者は選択肢を選ぶ前にですね、
「選択肢を設定した根拠」が、
妥当かどうかを「受験者自身が」、
判断しなければならないってことで、
あの、それ、「現実無視」ですよね。

じゃあそれで、「解答なし」って、
受験生が選択肢を選ばない場合、
「選択肢そのものが誤りだ」として、
どの選択肢も選ばなかった受験生、
その「選ばなかったこと」が正解だと、
「認めるんですか?」と言いたいです。

ですからねえ、
「根拠がなければ解答不能」って、
それは、
相手の傷口を狙って攻撃する態度、
・ ・ ・ ? みたいなのかなァって、
私は感じますけど、あの、解答って、
「選択肢から選ぶ」わけですからね。

それじゃあ、
「ムーミンの舞台はフィンランド」、
そう正解した受験生を無視して、
設問に問題があったという理由で、
全員正解にするとか、または、
それに類する処理をするならば、
出題の意図に即して正解した、
正答者の立場はどうなるの?

あの、私が書きたかったのは、
ムーミン出題の可否なんかではなく、
「クレームをつける心情」ってこと、
また、その不幸についてなんですが、
また明日 ・ ・ ・


相手を攻撃しちゃう心情は不幸です。

苦しみを救う

01-21,2018

寒の内(13)
社会というものは、当然ですけど、
「個人の意思」で左右できませんし、
もちろん、
個人的に社会を動かすなんてことを、
させてはいけませんね。

ところで、昨日に続いて、
「信越線立ち往生 バス提供辞退」
の話題なんですけど、
「JR東日本新潟支社の記者会見で、
(三条市の)消防が
マイクロバスを用意できる
という話があった。
全員の救出を考えていたので
マイクロバスでは困難と考え、
お断りした」
「大きなバスでの
全員救済にこだわり、
結果的に誤りだった。
自前でやろうとしすぎた」

その記事ではじめて、「消防」が、
マイクロバスを用意できるってこと、
私は知りまして、でも、知る前は、
JRがバスの提供を断った理由を、
「費用が発生する」からだろうと、
勘違いしてました。

なお、関連しまして、JRは、
乗客への補償については、
「今のところは検討していない」
という記者会見での回答でした。

まあ、とにかく、
「乗客には苦しい立場を強いて」も、
JR部外者には「関らせない」って、
そういう気持ちなんでしょうね。

そして、乗客に対しての補償は、
「無い」わけでして、まあ、つまり、
JR以外の人々や社会に対しては、
援助したいという好意すら退けて、
一晩中苦しめた乗客に対しては、
超然とした態度に出てるんですよね。

それで、私の勝手な想像ですが、
バスでの援助要請に応えるとか、
そういうのは「対社会的」行為で、
緊急時だからその場のJR社員が、
正規の指揮命令系統の範囲外で、
「判断を迫られる」ことになって、
その場合、「判断を間違う」と、
後で批判されたり罰を受けるという、
そういう危険性を回避したのでは?
・ ・ ・ というのが私の推測です。

まあ、とにかく、結果として、
JRとしては最低限の費用負担で、
また、最小限の手間で、
事態が収束することになりまして、
結局、事故の痛みを、
当事者のJRがかぶらずに、
乗客に押し付ける結果になったと、
私は思いますし、また当初から、
JRの方針はそうであったかも?
・ ・ ・ って、私は思いました。

人の苦しみを救うことが、
まず真っ先に大切という、
「人を大切にする気持ち」が、
世の中の常識というようであれば、
幸せで住みやすい社会ができると、
私は思うんですけどね。


人を大切にする社会が幸福な社会。

批判が怖い

01-20,2018

寒の内(12)
センター試験でのムーミンの話題、
後日、続けて書きたいと思いますが、
今日は、別の話です。

「信越線立ち往生
 JRが三条市の
 バス提供申し出を断る
 「全員を
 一度に救助できないと考えた」
・・・という見出しのニュースで、
私はねえ、なるほどなるほどって、
ほんと、「心情が納得できた」と、
まあ、勝手な解釈かも知れませんが。

あのう、センター試験の、
ムーミン事件もですね、結局は、
「批判を受ける」っていうことに、
関連するできごとだと思いますが、
「バス提供を断った」というのも、
私の独断による勝手な想像によれば、
「批判を恐れる」からだったろうと、
くどいですけど、それ、「空想」で、
事実ではありませんから、念のため。

それで、私のデタラメ空想によれば、
バスを提供してもらって救えるのは、
列車の乗客全員でなく「一部」です。
なしにろ、「全員を
一度に救助できないと考えた」って、
言ってるわけですからね。

そうしますと、バスに「誰が乗るか」、
そのことが問題になりますし、さらに、
「乗れなかった」乗客からは、
JRに対する不満の噴出が予想され、
その対策に頭を痛めることになるから、
それならば、「誰も救わない」ほうが、
乗客に対する「公平な扱い」となり、
JR側は批判を免れる道が開かれる、
・ ・ ・ というのが、私の推測で、
つまり、乗客の一部をバスに乗せると、
JRが「批判される」展開になるから、
そういう非難が避けられるのであれば、
救出しないほうがマシ ・ ・ ・ って、
そういう心理じゃなかったかなあと、
これ、ほんとに全く、邪推も邪推、
JR関係の皆様にお詫び、お詫びです。

さて、そういう推測は、
「一度に救助できない」という、
JR関係者の言葉に基づいた想像で、
でも、私は、「もう一つの理由」が、
もっと重要だったのではないか?
・ ・ ・ と考えるんですけど、
その「もう一つの理由」については、
また明日。

まあ、とにかく、
社会生活を営むということは、
「自分自身の思い」だけでは、
行動できないって面がありまして、
特に、「人を批判する」ことが、
普通に行われるような世の中では、
批判を受けることを避けるために、
「身を守る」行動に出やすいので、
そうなりますと、どうしても、
幸福な社会が実現できないことを、
おいおいと書いていきたいです。


批判を恐れる日々を暮らすのは不幸。

実りの無い努力

01-19,2018

寒の内(11)
センター試験のムーミン関連で、
昨日の続きを書きますけど、
私はセンター試験問題のうち、
地理Bってどういう問題なのか、
見てみまして、驚きました。

あの、あの、ほんとにびっくり、
そして驚愕、それ何?・・・って。
「試験問題」だってことを念頭に、
その問題文を読んでみましたら、
何と、各問の構成というのが、
物語構成とでも言ったらいいか、
「短編小説」みたいになっていて、
ムーミンの問いが登場する第5問、
その「短編小説」の主人公は、
「ヨシエさん」っていうんですけど、
私の第一の疑問は、あの、どうして、
試験問題に「ヨシエさん」の登場が、
必要なの?

今時「ヨシエさん」ってのは古風で、
18歳ならキラキラネームの人も、
多い可能性がありますからね、
だったら、星凛とかの名前にして、
ついでに、星凛を使って作問して、
「星凛」さんはどこの国の人か?
・ ・ ・ とか出題し、その答えは、
「スターリン」だから旧ソ連とか。

イヤイヤ、上記、冗談が過ぎまして、
すごくゴメンナサイ、ごめんなさい。
さて、おふざけはさておきまして、
ヨシエさんが主人公の短編小説風に、
第5問が構成されてるわけでして、
私の大疑問ですけど、どんな理由で、
試験問題を「物語構成」にするの?

あの、あの、物語構成にするために、
ムーミンやビッケを登場させるとか、
「苦しい工夫」が必要だったのかな?
・ ・ ・ って想像しちゃいました。

でもねえ、ムーミンもビッケも、
そして、ニルスは特にそうですけど、
そういったキャラクターは、
試験問題を解くのに何の関係もなく、
登場させる必然性なんて皆無だと、
絶対私はそう思いますね。
なにしろ、地理の知識とか能力、
そういうのを試すというのが、
センター試験の主旨なんでしょう?
ニルスなんて、ほんと、
ムーミンやビッケを登場させるため、
ダシに使われたとしか思えません。

でも、ムーミンやビッケを、
登場させるハメになったというのは、
想像しますに、試験問題の構成を、
「小説仕立てにする」みたいな、
まあ、言ってみれば、
「形式主義」があったのかなあと、
いやあ、そう推測するのはですね、
他の問題もまた、
「小説仕立て」になってるからで、
あの、どうしてどうして、
試験問題をですね、
「小説仕立て」にしようとするのか、
全く理解できないんですけど。

ですから私は、問題作成にあたり、
「小説仕立て」の問いにするため、
ずいぶん無理して、ムダな努力を、
重ねたんじゃないかと想像しました。

その上、試験の本筋とは無関係な、
「余計な」登場人物のためにですね、
出題者が「足をすくわれた」ような、
そんな感じでしてね、日本社会って、
実は、「本末転倒のこと」ってのが、
ずいぶん蔓延してる社会かなあと、
私は感じたことでして、でも、
世の中一般に、「主要でないこと」、
それも、「どうでもいいこと」に、
変に「こだわる人」というのが、
いっぱいいるように見えるんですね、
私の感想では ・ ・ ・


人と仲良くできるのが大切だし幸福。

心を休めること

01-18,2018

寒の内(10)
昨日は、朝からもう、
たいへん疲れていた私でして、
午前中の用事を二つ済ませましたら、
ブログを書くどころではなくなって、
お休みしてしまいましたが、今日も、
センター試験のムーミンについて、
あるニュースのことを書きます。

1月16日のニュースですが、
記事の概要は、以下のようです。

大阪大大学院の
スウェーデン語研究室は15日、
ムーミン谷がどこにあるかは
原作に明示されていないとして
「舞台がフィンランドとは
断定できない」
との見解を明らかにした。

古谷大輔准教授(北欧史)は
「スウェーデン語系
フィンランド人作家が、
スウェーデン語で書いた
一連の物語の舞台は、
架空の場所のムーミン谷とされる。
フィンランドが舞台だと
明示されていない」と指摘。
「ビッケもノルウェーが舞台とは
断言できない」とし、
研究室として、
舞台の国を特定した根拠の
説明を求める意見書を、
近く同センターに提出する。
「センター試験の
社会的信用を維持するためにも
根拠を示してほしい」
と話している。

まあ、上記のような記事でしたが、
私が書きたいことは、ムーミンや、
ビッケのことではありませんで、
「根拠の説明」ってことでして、
あの、都合により、明日にですね、
私の感想を書かせていただきます。

ところで、自分が社会的に、
「責められる」みたいな感じですと、
すごく苦痛だし、不幸だと思います。

まあ、世の中、
いろんなことがありますからね、
いつも自分が、
心おだやかにいられるなんてことは、
無いっていうのが現実でしょうけど、
でもねえ、
精神的にきついことばっかりでは、
ほんと、たまらないと思います。

それで、精神的に、
おだやかに暮らせるという環境なら、
ほんとに幸福だと思います。

さて、ムーミン公式サイトというの、
はじめて見てみまして、
ムーミンママについては、
こんなふうに書いてありました。

ムーミン屋敷がいつも家族や友だち、
お客さまにとって、安全で、
愛に満ちあふれた場所であるのは、
このムーミンママのおかげです。

「愛に満ちあふれた場所」
・ ・ ・ 何と幸せなことでしょう。


「愛のある場所」って幸せですね。

ムーミン責め

01-16,2018

寒の内(9)
今日は二つの会に出席しましたが、
ふたつめの会は私が労をとりまして、
皆様に喜んでいただけたとしたら、
うれしくて何の苦労もありません。

さて、昨日のニュース(テレ朝)に、
「異論噴出!
 センター試験で「ムーミンの舞台」
というのがありまして、私としては、
興味がありましたから、今日は、
書く予定を変更して、再びですね、
その話をさせていただきますが、
私なんかはほとんど知らなかった、
アニメのキャラクターが、
これほど社会的に話題になったのも、
びっくりでしたね。

それで、問題点とされているのは、
私なりに考えてみますと、たとえば、
「桃太郎は鬼が島に、
 鬼退治に行きましたが、
 鬼が島はどこにあるでしょう?」
・ ・ ・ と出題したようなもので、
①大八洲国、②百済国、③唐、
④天竺という4つの選択肢から、
正解を選ばせるみたいなものかと、
まあ、そんなふうに思いましたね。

ところが、桃太郎さんの話では、
鬼が島の地理的位置なんて、
明確にされてないんだろうと、
私は想像することです。

ところで、私が使ってるカップに、
ムーミンが描いてありますから、
見てみましたら、確かにですね、
MOOMIN VALLEY ってありました、
・ ・ ・ けど、それ、どこの国?
そのことについては不明でした。

関連しまして、産経新聞には、
「ムーミンは、スウェーデン系
フィンランド人の作家
トーベ・ヤンソンによって、
スウェーデン語で書かれた。
「フィンランドの作品」
として認知されているが、
「フィンランドが舞台」
かどうかは不明だ。
・ ・ ・ という記事があり、
そういうことかと思いました。

でも、世の中、人の心情として、
センター試験で、
解答を「間違えた人」でしたら、
文句も言いたくなるでしょうね。
だから、
出題を責めたくなる気持ちも、
わかることです。

それで、ムーミン谷について、
地理的位置が示されてない以上、
フィンランドだとは言えないって、
それは、当然の理屈だと思います。

それと同じで、鬼が島について、
どこの国にあるかと問うことには、
問題があるわけで、要するに、
「厳密さに欠ける」わけですよね。

さて、この事件で、
「厳密さを求める」心情ですが、
厳密に行うってことは、
悪いことではないんですね。

しかし、世間のおおかたのことは、
厳密さがさほど要求されないで、
それで円滑に行われてわけですが、
入学試験と言いますと、
合否に関わることですし、それは、
人生を左右されることにもなる、
緊張した必死の場面でもあって、
そうなりますと、
「あいまいさ」なんて、もう絶対、
「許せない」気持ちになることも、
当然ってことでしょうね。

それで、受験生にしてみれば、
自分は「必死に」ですね、
苦難に「耐えさせられてる」のに、
自分に苦難を与えるほうの人間が、
ゆるやかにいられるとしたら、
「許せない」気持ちになるのは、
当然の心情かとは思いますね。

ですから、ムーミンの出題を、
責めたくなる気持ちそのものは、
わかりますね、出題者には、
気の毒なことなんですけどね。

それで、私の感想は、
まだ続きがありまして、それはまた、
明日にしたいと思いますが、
今日書きたかったことは、
自分が厳しい状況に置かれた時は、
「のほほんとしてる人」が許せない、
というような気持ちになるってことで、
他人を責めたくもなりますからね、
ですからねえ、厳密に行うとか、
厳しくするってことも限度があって、
それで人を痛めつけるようですと、
弊害が大きいと思いました。


寛容にしてもらえて救われている私。

自分も他人も大切に

01-15,2018

寒の内(8)
12日、13日に書いたことの、
続きですけど、自分自身のことを、
「尊ばれる存在である」と、
自覚したり、考えることに対して、
怒りを感じたり、嫌悪する人って、
世の中には、
多くいるかもしれないというのが、
私の感想です。

理由ですけど、自分を尊ぶのは、
実に「尊大」で、身の程知らずで、
鼻持ちならないって考える人が、
多いかなあと想像されるからです。

でも、自分自身のことを、
「尊ばれる存在」だと思うことは、
他人を見下すこととは、全くもう、
完全に無関係のことなんですよね。

ところが、世間の人の感覚では、
「自分を尊く思う」人間だったら、
他人を「人間のクズ」とか、
「ダメ人間」のように貶めるって、
勝手な想像をする傾向があるかと、
私は思います。

それで、言いたいことはですね、
「自分を大切にできる人」が、
「他人も大切にできる」んだと、
私は、ほんとに確信しています。

さて、関連する話は、
明日また書きたいと思いますが、
今日も私は行事で出かけまして、
「喜んでもらえる」ような活動、
まあ、些細なことなんですけど、
ちょっと行いまして、あの、
「自分が」楽しく過ごせるって、
恵まれた条件にありますと、
「他の人にも」また、
喜んでもらいたい気持ちだって、
起こってくると思うんでして、
その反対にですね、今、自分が、
つらくて苦しくて、
不幸にさいなまれてるとか、
そんな状態だったら、とても、
「他の人に喜んでもいたい」、
・ ・ ・ なんて気持ち、
起こってこないと思いますね。


他の人に喜んでもらえるのは幸福。

ムーミンが登場

01-14,2018

ムーミン
今日の添付写真は、
花が主じゃないんです。
カップのほうをご覧下さい。
あの、ムーミンが描かれてます。
私が使ってるカップですけど、
親戚の家にあったものだそうで、
何かの事情でうちに来ましたが、
でも、誰も使いませんから、
私が使うようになったんですけど、
それまでの私は、ムーミンなんて、
全く知りませんで、実は今でも、
「ムーミン」という名まえだけ、
知ってるという程度なんです。

ところが、昨日のニュースで、
センター試験の地理の問題に、
ムーミンが出題されましたとか、
さらに、ビッケも主題された、
・ ・ ・ とかいう話題があり、
「何それ?」っていうわけで、
実際の問題用紙を撮影したのを、
インターネットで見てみました。

そうしましたら、問題を解くには、
アニメの主人公のことなど、
知る必要なんか全くありませんし、
フィンランド語やノルウェー語も、
知らなくて解けるように作られた、
易しい問題だって、わかりました。

あの、ノルウェー西海岸について、
地形的特色とバイキングとの関係、
また、ヨーロッパに位置しながら、
フィンランドやハンガリーは、
ヨーロッパ諸国の言語系統とは、
異なった言語の特色を持つことを、
ちょっと認識してれば解答できる、
単純な出題というわけなんですが、
でも、ムーミンとかビッケとか、
私なんかは知らないキャラクター、
しかも、アニメの主人公ですか?
そういうのが「出題された」って、
世間の目には映るんでしょうけど、
出題の本質は、ムーミンやビッケ、
また、フィンランド語の知識とは、
全く無縁、無関係なんですよね。

でも世の中、「見た目」というか、
ムーミンとかビッケ、さらには、
「いくらですか?」を、
フィンランド語で何というかって、
そういうびっくりすることがらが、
入試問題になったという具合に、
表層的に受け取られる面もまた、
あったかなあと思いますね。
まさに、出題の本質的な面でなく、
「見かけ」の面で、
意表をついていたからでしょうか。

まあ、人間社会、
「うわべだけ」見ていたのでは、
とんでもない誤解をすることが、
多々ありますから、注意、注意。

それで、明日は、社会的にですね、
誤解を受けやすいんですけど、
誤解されては困ることについて、
ちょっと書いてみたいと思います。
それは、昨日書いたことの続きで、
今日は突然、ムーミンのこと、
書いちゃいましたからね。


物事の本質を把握するのが大切。

尊ばれる自分

01-13,2018

寒の内(8)
昨日、
「児童は、人として尊ばれる」
・ ・ ・ ということについて、
ちょっと書かせていただきました。

ところで、昔の卒業式ですけど、
「仰げば尊し」が、
よく歌われていたように思います。

それで、
「仰げば尊し」に続く歌詞ですが、
「我が師の恩」っていうのが、
私としては、気に入りません。

あの、「子どもが」師を「仰ぎ」、
そして「恩を感じる」ことを、
美徳として奨励する意図を持って、
策略的に作られたような匂いを、
私は感じちゃうんですね。

その歌、メロディーもすばらしく、
とってもいい歌だと思いますけど、
その最初の歌詞をはじめとして、
私には好きになれない言葉が、
他にもでてきます。

それで、子どもが誰かを「仰ぎ」、
そして「尊ぶ」のであれば、
子供自身が「仰がれ」、そして、
「尊ばれる」ってことがあっても、
不思議じゃないどころか、
当然のことだと思う私です。

つまり、当事者の一方だけが、
相手から仰がれ、尊ばれる立場で、
他方は、相手を仰ぎ、尊ぶという、
片務関係になってると思いまして、
そこのところを、私は好みません。
社会生活は、とにかく、
片務的なこととか、
差別的なことがあったのでは、
うまく成り立たないと思います。

それで、今日私が書きたいのは、
児童は誰でも、
「そのように存在する」だけで、
「尊ばれる」ってことなんです。

・ ・ ・ ということは、
児童だけじゃなくって、大人でも、
「尊ばれる」ってことなんですね。

もっと言えば、「私という存在」、
それは、「尊ばれる存在」だと、
そういうことなんですね。

あの、
「私は尊ばれる存在である」って、
そんなふうに自分を感じることは、
尊大な態度ではないってことを、
まず、書いておきたいです。

それは、
自分が「尊ばれる存在」だと、
思うだけでとんでもないって、
そういう感覚の人も、世間には、
多いかなあと思うからなんです。

それで、
続きはまた明日ということに。


人と尊び、自分を尊ぶことの幸福。

尊んで扱われる

01-12,2018

寒の内(7)
昨日は、「人を大切に」ってこと、
書いたんですが、世の中には、
「他人」じゃなく「自分の子」を、
大切にしないどころか、
ひどく扱う親とか養育者ってのが、
いっぱいいるのが現実でして、
子どもにとっては、それ、
不幸の原因として重大ですから、
このブログでも、
取りあげてみたいと思います。

あの、激しく緊張していながら、
自分が緊張してるとは自覚できない、
それほどの極度の緊張状態を、
親から強いられてる子がいまして、
しかも、感情表現が厳禁されている、
超厳格な家庭環境ってことですと、
どうしようもなく痛ましい状況で、
言葉もありませんけど、社会では、
そういう境遇で育ってる子が、
「いい子」とほめられる面もあって、
まあ、何と言ったらいいでしょうか、
言葉を失います、私としては。

もう、「子どもらしい面」なんて、
ありませんよね、そういう子には。
・ ・ ・ というより、
親や養育者があまりにも恐怖のため、
子どもらしくなんてできないのだと、
私は推測することです。

さて、ある学校の先生が、自分は、
「キョーシ(教師)」じゃなくって、
「チョーキョーシ(調教師)だと、
冗談半分に言っていたという話、
聞いたことがありますけど、親が、
子どもを「調教する」ような家庭が、
実際、世間にはあると思う私です。

さて、そういう境遇で育つなら、
子どもは不幸体質になるほかなくて、
悲惨ですけど、問題を抱えてるのは、
親や養育者のほうですからね、
こういう構図、どうすればいいか、
私にはわかりませんで、ですから、
解決策なんて見いだせないんですが、
そういう現実があると認識すること、
まずは、それが必要かなあ・・・と。

「児童は、人として尊ばれる。」
そういう気持ちって、幸福の為には、
誰もが持たなければならないと、
私は思います。

そして人は、乳幼児の時から、
尊ばれて育たなければならないと、
私は確信するんです。

でも、世間には、
子どもを「尊ぶ」と、
悪い子に育っちゃうという恐怖を、
心の深いところに持ってるような人、
いるように思いますから、
明日はそんなことについて、
書ければいいんですけど。


子どもを尊べるなら、その親が幸福。

人を大切に

01-11,2018

寒の内(6)
昨日は、他人を利用するという、
嫌な話を書きましたけど、世の中、
そういうことって多いんですよね。

それで、
自分を「喜ばせろ」と、
相手に要求するような態度って、
ほんとにいやらしいと思いますね、
私は。

でも、そういう態度を、
「親が子どもに対して」とるっての、
世間にはよく見られると思います。

あの、親が子どもに対して、
成績優秀であることを期待するとか、
晴れの舞台で目立つように要求する、
また、親が自慢できる子であるよう、
子どもの行動をコントロールする、
・ ・ ・ なんてことは、
「子どもを利用して」、親が、
自分の欲望を満たすということで、
つまり、それって、親がですね、
「自分を喜ばせろ」と、
子どもに強要してるってことでして、
いやあ、とてもひどいことなんです。

あの、そういうことって、
社会的には「認められない」ことで、
でも、親子関係とか家族って、
一般社会から隔絶された密室なので、
「反社会的行為」であっても、
日常的に繰り返し行われることって、
あるんですよね、普通に。

あの、人権を守り、人を大切にする、
その態度こそ、みんなの幸福の為に、
最低限、絶対必要なんだって、
私は思いますね。


他人も自分も大切にできるのが幸福。

人を利用しない

01-10,2018

寒の内(5)
自分の都合を満たすために、
他の人を利用するなんて言ったら、
まあ、何とひどいことかと、
普通は思うでしょうね。

けど、世の中には、
「他人を利用する人」って、
いっぱいいまして、そのくせ、
相手を利用してるなんて自覚が、
全く無いという場合も多くて、
そもそも、相手に対して、
自分がひどいことをしてるなんて、
思ってもいないなんてこと、
よくある話なんですね。

それで、幸福なのは、
他人を利用して何かするとか、
そういう必要が無いってことで、
つまり、「他人を利用する」のは、
何か困ったことがあって、
自分だけでは処理できないため、
他人を巻き込んじゃうからなあと、
私は思うんですけどね。

まあ、ひどい話はいっぱいあって、
晴れ着のレンタル・販売会社
「はれのひ」が、成人式当日、
契約した新成人に
振り袖を届けなかった事件などは、
「だます」ことを自覚してますが、
社会には、「だます」意識なんて、
ほんとに「皆無のまま」にですが、
他人をだまし、
ひどいめにあわせてるってことが、
たくさんあるんですよね。

たとえば、
「子どもに努力を求める親」って、
普通にいますし、そういうの、
虐待とは思ってないでしょうけど、
あの、それ、虐待なんですよね、
ほんとは。

あの、
ひどい話になっちゃいましたけど、
子どもに努力を求めるのは、
親のほうに問題がありまして、
どこが問題かということは、
また明日にしたいと思いますが、
子どもの「そのままの姿」を、
喜び、認められる親っていうのが、
幸せな親だと思います。

それで、
「人を利用する」話ですけど、
子どもに努力を求める親は、
「自分の欲求」を満たすために、
子どもを利用し、
子どもに努力を強いてるんだと、
私は思います。


不満が心に無ければ幸福ですね。

ちゃんとしないが

01-09,2018

寒の内(4)
世の中、
「ちゃんとしなきゃダメ」とか、
言われることありませんか?
私なんかは、いろんな場面で、
そんなふうに言う人って、
多いと思いますけど。

まあ、それで、
私も社会の一員ですから、
集団の中で「ちゃんとしろ」とか、
言われたら「します」けどね、
でも正直、
ちゃんとするってのはきついし、
たいへんなんですよね。

だから、他の人に対しては、
そんなふうに「言いたくない」し、
言わないで済ませられるのが、
幸福なことだと思います。

それで、
「ちゃんとしなさい」の代わりに、
「そうですねえ」って、
相手の正直な気持ちを、
察することができるようだったら、
私自身、気分がいいし、幸福かも。

まあ、私自身も、自分がですね、
「ちゃんとできなくても」、
自分を責めないようにしたいです。


人を責めないで済むなら幸福だと。

したいことをして

01-08,2018

寒の内(3)
今日もいろいろ用事があって、でも、
無事に夕刻を迎えることができまして、
幸せなことだと思うことです。

世の中、「安心していられる」のは、
全くすばらしいことだと思う私で、
社会環境が平穏だってことは、
外部のことを心配せずに、
「自分のしたいこと」を、
思う存分にできるっていうことで、
ありがたいことです。

まあ、子どもだって、
一番幸福なのは、
「安心して行動できる」ことかと、
私は思いますけど、大人だって、
「したいことができる」環境なら、
すごく恵まれていると思います。

もちろん、
「したいこと」と言いましても、
他の人(相手の人)も自分も、
共に、いっしょに喜べることで、
相手に犠牲や損失を与えながら、
自分だけ得することを考えるなら、
幸福行きの反対、地獄行きでして、
まあ、言うまでもないことですが。


自分も他人も楽しめることを考え。

皇后陛下のポーズ

01-07,2018

寒の内(2)
昨日の続きを書きますけど、
皇后陛下が喫煙してる再現ドラマ、
見て、一番最初の感想というのは、
「キセルが短い」ってことでした。

あの、番組で紹介されていた煙草盆と、
銀の延煙管は「携帯用」ですからね、
室内でゆっくりと煙草を楽しむ時は、
長ギセルを使ったらいいんじゃないか?
・ ・ ・ って思ったんですね、
私が茶の湯用に使っているキセルでも、
長さは40センチ以上あるんですけど、
再現ドラマのキセルは、
決して短いキセルじゃないんですが、
感覚的に短く感じたってことなんです。

あの、キセルって、長くなるほど、
煙が冷えるので味がマイルドになり、
ですから、
どうして長ギセルじゃないの?
って思ったわけなんですけど、
その後よくよく考えてみますと、
メンテナンスの問題かと思いました。

毎日毎日の掃除がたいへんですし、
宮殿に煙管掃除の係の人とか、
羅宇屋みたいな仕事をする人が、
いましたかどうか、いずれにしても、
火入の炭の取替えや煙管の掃除って、
誰かがやんなきゃなんないわけで、
手間がかかるんですよね。

そんなわけで、延煙管でしたら、
後始末や掃除が格段に簡単ですから、
女官でもできそうに思いましたので、
それで延煙管を使ったのかなあ?
・ ・ ・ なんて、想像に過ぎませんけど。

もっと興味深いのは、皇后陛下が、
どんなポーズで煙管を持たれたか、
まあ、男性の場合、昔は職業その他で、
いくつかの型に分かれますけどね、
再現ドラマ中の皇后陛下の持ち方は、
遊女なんかの持ち方に近いかと思います。
ほんとはどんなふうにしてたのかなあ?
私としては興味深いですけど、
「非公式に」楽しまれてたようなので、
資料なんかは残ってなさそうかなあと。

さて、今日は、どうでもいいような、
「こまごましたこと」を書きましたけど、
でも、そういうことの中に、
楽しいこととか喜びがあったりして、
だから、「ちょっとしたこと」でも、
大切なことって、あるんですよね。

たとえば、ちょっとした手の動き、
体のひねり、視線とか、そんなのが、
日本舞踊では、表現の深みに、
ものすごく大きく影響するなんてこと、
「ある」どころか、それこそ重要で、
ですから、「ちょっとしたこと」って、
おろそかにできない面があるんですね。

今日は話がまとまりませんが、
「まとまらない」ってのもいいことで、
「しっかりきちんとまとめる」ことは、
社会的には望まれるかも知れませんが、
個人の生活ではどうでもいいことで、
世の中、「きちんとすること」って、
「望まれる」ように見えましても、
きちんとしてる人が敬遠されることも、
あったりするのが世間でして、あの、
「きちんとする」のを「強いられる」、
そういうの、嫌ですよね、私なら・・・

ところで私は、
キセルでタバコを吸った体験も、
ちょっとだけありまして、
その体験から言いますと、
人差指を伸ばしてキセルにかけるの、
それは、自分の喫煙ポーズが、
「人に見られる」ということを前提に、
「見られて美しい」ようにするという、
たとえ無意識だとしてもですね、
その思いがあるからだと思います。

まあ、それは私の考えですから、
客観的にあたってるのか外れてるかは、
わかりませんけどね・・・


幸不幸の感覚って、些細なことの中にも。

タバコのポーズ

01-06,2018

yuna217.jpg
今日の添付写真、無断使用ゴメンナサイ、
https://blogs.yahoo.co.jp/yuna217
/34008090.html
から、勝手に使わせていただきました。
あの、昔、花魁はじめとする高級遊女が、
どんな格好でタバコを吸っていたか、
想像するのに参考になるかと思いまして。

また、もう一つ、浮世絵から、
タバコを吸う姿を、以下に紹介します。
浮世絵より

それで、タバコを吸う姿を気にする理由、
それは、「美子伝説」という番組で、
明治天皇の皇后がタバコを吸う様子が、
再現ドラマになっていたからなんです。

それを見ながら、私は、
いろいろ考えたことがあるんですけど、
そのことについては、また明日にでも。

まあ、世の中はすっかり変わりまして、
今時、キセルでタバコを吸う人なんて、
ずいぶん少数派だとは思いますけど、
茶の湯の世界では、
今でも莨盆や煙管、刻みタバコなど、
出しますからね、茶の湯の世界って、
社会の変化と関りなく、
昔の様式を守ってる面がありまして、
私はタバコを吸いませんけど、
茶の湯の関係で、
タバコ道具も持ってますし、
タバコを吸うしぐさについてもまた、
想像じゃなく「実際のこと」として、
関心を持ってるわけです。

そして、幸せとか不幸なんてこと、
大上段に振りかぶって考えるような、
すごいことにしなくたってですね、
日常の些末なことの中でとらえる
・ ・ ・ みたいなことも、
必要だと思ったことでした。


ちょっとしたことでも幸せってことが。

ヤニ下がる

01-05,2018

寒の内(1)
昨日、昭憲皇太后御遺物の煙草盆のこと、
ちょっと書きましたけど、
添えられていたのが銀の「延煙管」で、
両方とも、大名道具に勝るとも劣らない、
超すばらしい品だと思いました。

また、再現ドラマの中に、
皇后がタバコを吸うシーンがありまして、
そのことは、また明日書きたいですけど、
延煙管なんかで吸う時のポーズに関して、
「ヤニ下がる」という言葉がありまして、
ちょっと思い出すことがあるんです。

もうずいぶん前のことですけど、
家にあった古い国語辞典、
1981年に第3版という辞書ですが、
「ヤニ下がる」の意味を、
正確に知りたいと思って引いたのですが、
問題は言葉の意味に関することではなく、
言葉の「由来を解説した」部分なんです。

・ ・ ・ 何と何と、「脂(ヤニ)が
がん首の方へ下がるように、
がん首を前に下げて、
きせるをくわえるかっこうから」って、
全くア然とする解説が書いてありました。

全く世の中、ありえないようなことも、
しばしば起こりまして、たとえば、
大学入試センター試験の出題ミスとか、
ほんと、その他いろいろありますよね。

まあ、辞書のことですから、社会的に、
誰かがそのために危難に遭遇するとか、
そんな事態には至らないでしょうから、
多少誤解が世の中に広まったとしても、
厳密重視でない私ですからね。

そうですねえ、世間は、
ある程度緩やかなのもよいものでして、
「常に緊張」して「間違いをしない」、
・ ・ ・ なんてことでしたら、
タバコでも吸って緊張から逃れないと、
いやんなっちゃうって面もね。


緊張緩和対策が不要なのは幸福ですね。

幸不幸と人間関係

01-04,2018

新年(4)
時空超越ドラマ&ドキュメント
「美子伝説」という番組を見ました。

番組の中で、昭憲皇太后御遺物として、
「御煙草盆 煙管」と字幕で示され、
映像で紹介された品がありまして、
「携帯用」の煙草盆ということでした。

それで、明治天皇の皇后様ですが、
社会的な立場が心理的にたいへんなので、
タバコでホッとしていたのかなあ?
・ ・ ・ なんて想像したことでしたが、
世の中、庶民だって、会社や集団の中で、
心の面では容易でない環境にあることも、
多いわけですよね。

それで、人間関係っていうものは、
仲良く楽しくできますと幸せなんですが、
その反対に、
苦しみがもたらされることもありまして、
このブログで人間関係を書いてますのも、
そういうことがあるからなんですね。

さて、次回も、そのテレビを見ての話、
書ければなあと思いますが、
明日、その気になれば ・ ・ ・ ですね。


良い人間関係が保てる幸せを思います。

気持ちよい心境

01-03,2018

新年(3)
今日は少し雲がありますけど、
晴れて暖かくなり、うれしいです。

ただ、風は強いのですが、
午前中はちょっと、
枯れ草と枯木の整理ができまして、
それは、よかったです。
今のうちに、
枯れ草をなくしておきませんと、
春の芽吹き以降、繁茂して、
手が付けられなくなりますからね。

まあ、風が強いってことは、
「吹き払われる」ってことでもあり、
「心の中の気持ち悪いもの」が、
吹き払われるのは気分がよいことで、
そうですねえ、
極楽浄土の住人みたいな心境で、
人に接することができますと、
相手の人の心もまた、
極楽浄土の人と同じような場合、
直観的にわかっちゃうというか、
そういうことがありまして、
すばらしいことだと思います。


自分の心が爽やかに保てる幸福。