言わせられない

07-21,2017

夏(50)
昨日のブログに、「言いたいことが言える関係」と、
「言いたいことが言えない関係」ということ、
書きましたけど、世の中で最も悪魔的な人間関係は、
相手に「言いたいこと」があっても、策略を用いて、
「言い出せないように」しちゃうことかなあ?
・・・なんて思いました。

あのう、相手を「圧迫して」言わせないという形態、
しかも、「力を持って」相手をねじ伏せてることが、
世間の目から「見える」場合には、私はですね、
それはひどいことには違いないんですけど、でも、
「悪魔的だ」とは考えません、暴力的ではありますが。

それで、「悪魔的」な場合というのは、そうですねえ、
昨日書きました米屋の主人と一人娘さおりの関係が、
たとえば次のようですと、父親は悪魔的だと思います。
ただし、最初におことわりしておきますが、私は、
「ひょっこ」を途中からしか見てませんで、それで、
米屋のことは、今週の放送で見たのが最初でして、
さおりと父親とのこれまでの関係については、
何も知らないんですけど、でも、
親が悪魔的に子どもに接する話を書くのに、
「○○のようだったら悪魔的だ」という話ですから、
ドラマ上の米屋の親子関係のことは知らなくても、
だいじょうぶだと思います。

さて、米屋の主人(父親)がですね、娘のさおりに、
「自分は非常に苦労をして」子どもを育てたんだと、
「言葉には出さず」、「そぶりで見せる」とかして、
子どもに「恩を売る」ようだったとした、それはもう、
悪魔のやり口だと思いますね。

あのう、父娘ということは、母はどうしたのかなあ?
私は途中からドラマを見た関係で、わかんないですが、
たとえば、「父親一人で」もう、「一生懸命」ですね、
一人娘のために「犠牲的に尽くしてきたんだ」って、
そういう態度を見せるとすれば、さらに悪魔的で、
なぜなら、さおりにしてみれば・・・ですね、
「私が居たために」父は私の犠牲になったのだと、
「罪悪感」を持たされることになるからなんです。

まあ、そんなわけで、親自身の幸せなんかは放棄して、
ただひたすら、子どものために奉仕してきたんだと、
そんなふうに偽装する親っていうのが、実は実は、
世の中に「います」ね、嫌な現実ですけど、そうです。

ところが、米屋の主人は、
そういうタイプでないですよね、なぜなら、娘に、
「言いたいこと」を言うのを許容してるからでして、
それでまた、今日、21日の「ひょっこ」では、
島谷純一郎の父親が登場しまして、父親の会社経営上、
純一郎の結婚話を進めると宣言するんですけど、さて、
今後の展開はどうなるでしょうか?

あの、純一郎の父は、
息子である純一郎の気持ちを大切にする親なのか、
親自身の都合を満たす為に息子を利用する気なのか、
私の関心は、そういうところにあるんですね。

また、もう一つの関心は、純一郎がですね、
「自分の気持ちを殺して」親の言いなりになるのか、
あるいは、自分の気持ちを大切にするのかってことで、
それは、幸せの道を歩むのか、それとも、
不幸への道に墜ちていくのかってことですから・・・


「好きな人と結婚したい」と言えない、純一郎の不幸。

気持ちが表現できる

07-20,2017

夏(49)
あのう、社会生活において、他の人々に対して、
「自分の気持ちが表現できる」という状況、それは、
すごく幸せな環境だと思う私です。

その反対に、「思ったことを口にできない」状況って、
その人にとって、限りなく不幸だと思うんですけど、
世の中には、「言いたいことが言えない」雰囲気って、
あったりするんですよね。

それで、昨日の私のブログに、
NHKドラマ「ひょっこ」から、
米屋の主人と一人娘の「さおり」の話、
書かせていただきまして、米屋の父娘関係というのは、
娘の「さおり」が、父に対して、
「言いたいことを言ってる」関係ですから、
不幸とは無縁ですね。

あのう、世間には、親に対して、
言いたいことが言える子と、
言いたいことが言えない子がいまして、親子間で、
「言いたいことが言える関係」は幸せですけど、
「言いたいことが言えない関係」になりますと、もう、
どうしようもなく不幸な状況になると思いまして、
「言いたいことが言えない関係」については、明日、
さらに考えてみたいと思います。


「言いたいこと」を「言わせてもらえる」のは、幸福。

結婚は当人の意思

07-19,2017

夏(47)
今日は、全く当然で、あたりまえの標題としました。
結婚は、二人の気持ちと意志で行うものであって、
他人は関与しないことなんですけど、でも、この社会、
当人の意思でないところで結婚が決まるってこと、
昔から、とっても多かったんですよねえ。

それで、今週月曜のNHK連続ドラマ「ひょっこ」、
良かったです、米屋のシーンがあったからです。

米屋の主人が、店員の三男に、おおよそ、
次のようなことを言うんですね。
「この店には(男の)跡取りがいない。だから、
 一人娘が婿をとって後を継ぐってことになる。
 ところが、肝心の娘が、全然愛想がない。
 つもりモテない!
 従って、親がなんとかしてやるしかない。
 だから、おめえ(三男のこと)を雇ったんだ!」
まあ、世の中、そういう考えとか心情の人って、
いっぱいいると考えられるからこそ、
ドラマもそういう筋書きなんでしょうね。

それに対して、一人娘のさおりが言います。
「冗談じゃない!何勝手なこと言ってんの?
 私は自分が好きになった男の人と結婚します。
 あんたが決めることじゃない!」
あの、そうなんです、世間には、
親が自分のことを左右しようとすることに対して、
反発する子どもって、いっぱいいると思いますね。

その後、一人娘さおりさんの実名は、
「さおり」ではないということがわかるんです。
米屋を営む父親が「さおりなんて名前じゃない」と、
つまり、「親が付けてやった名前を」
娘が変えちゃった・・・って言うんですね。
その「親が付けた名前」は、「米子」だそうで、
あのう、米屋の娘だから米子なんだそうです。

そんなふうに、父親に反抗しているさおり(米子)は、
次のように言います。
「とにかく私は、
 あんたに決められた人と結婚したりはしません!」
パチパチパチ ・ ・ ・ これは、私の拍手です。

しかしまた、次のようにも言います。
「ただ私が、自分で三男君を好きな場合は別。」

そうなんですね、さおりさんは、
父親に結婚相手を決められたからじゃなくって、
「さおりさん自身の心が」ですね、
三男君を好きだと思っているということでした。

いやあ、めでたしめでたし、良かったですねえ。

今日書きたかったことは、
「結婚は当人同士の意思」だってことでして、だから、
さおりさんのようにですね、「親の意見や意思」には、
「従わない」のがあたりまえもあたりまえ、当然で、
自分の名まえだって、親がつけた名が嫌なら、
別の名を名乗るなんてのも大いに結構、私は大賛成、
まあ、とにかく、「他人によって決められたこと」を、
自分自身としなければならないなんてことは、
不幸も不幸ですが、また、
「他人によって自分が決定される」なんてこと、
「あってはならないこと」ですからね、今日は、
そういうことが言いたかったです。

最後に、私は、親子対決を良しとしているのでは、
全くありませんってことを書き添えておきます。
ただし、親のほうが、親という立場を利用して、
自分の都合を子に強要することは絶対ダメで、
そういう場合、子どもは、親に対抗すべきです。


自分が自分の主人公ってこと、あまりにもあたりまえ。

親子共に不幸な道

07-18,2017

夏(46)
あのう、社会生活上では、人と人との対立もあるし、
相手を嫌い、また、憎しみ、闘争するなんてことも、
世の中には普通に見られますけど、でも、子どもは、
基本的に、親とか養育者に対して、「好意と愛情」を、
充分に持ってるんですよね、どんな子でも、みんな。

ところが・・・です、世間には、子どもを見ると、
嫌悪とか怒りの心情を発しちゃう親や養育者って、
いるわけでして、それはもう、実際に「います」。

あのう、そういう親や養育者自身が不幸なんですけど、
その不幸を「子どもにも押し付けちゃう」わけで、
ここに、「みんながますます不幸に陥る」構図が、
見えていると思います。

また、子どものほうもですね、
「親を不幸にすること」を一番嫌うし、
そういうことになる事態を避けようとしますからね、
「自分が犠牲になって」、自分の思いを殺しても、
「親を助けようとする」わけでして、親がですね、
親自身の不幸を子どもに拡散しようとす行為を、
子どものほうは、「親を助けたい一心で」引き受け、
結果、親と子どもと両方が、さらにさらに、ますます、
不幸の泥沼にはまっていくという構図が見られます。

結局ですね、不幸な親であるがゆえに、幸福ではなく、
「さらに不幸に陥る道」を選択するということは、
世間に良く見られることでして、突然別の話ですが、
TBSテレビのドラマ「ごめん、愛してる」の、
第1話と2話を見ました。

登場人物の一人に、
日向麗子というピアニストがいまして、豪邸に住み、
裕福であり、過去の名声が高かった人なんでけど、
ドラマの中では、幸福には見えませんでした。

ここでまた別の話ですが、インターネットで、
次のような標題の文を見ました。

「松たか子」
親から逃げたい娘の気持ちがよくわかる?

その文章の一部を紹介しますと、次のようです。

女優の松たか子が、映画
 「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」
の会見に出席した。

母親を演じるのが松たか子だ。
自身が演じた役について、こう語っている。
「私のセリフは、8割が
『なずな』としか言ってなくて、
ここ(記者発表)にいるのが申し訳ないんですけど。
こんな母親から逃げたかったんだろうな、
彼女が逃げるのも無理はない。
(見た人が)そう思っていただけたらいいな」

上記、引用しました中で、
「こんな母親から逃げたかった」という一文ですが、
世間には、「こういう親から逃げたい」と、
それこそ、必死になって願ってる子って、
いっぱいいるんじゃないかというのが私の感想で、
その場合、子どもはもちろん不幸なんですけど、
親のほうもまた、たとえようもなく不幸だと思います。

なお、「ごめん、愛してる」に登場する日向麗子と、
彼女の子どもの関係って、
「すごく不幸なんじゃないか?」って感じた私で、
まあ、ドラマのこれからの展開を見ていきたいです。


親は親、子は子で、それぞれの幸福を生きるのが良い。

ママが大好き

07-17,2017

夏(45)
「ウワサの保護者会」というテレビ番組なんですが、
わずかな時間でしたけど、見る機会がありまして、
「ママが大好き」な子どものようでしたけど、
次のようなシーンがありました。

その家で一番大きい男の子、「たくとくん」が、
ママと子ども3人分のふとんを、
和室に敷くシーンが写ったんです。
「たくとくん」は、ママの隣で寝たいわけで、
そのため、自分のふとんを、ママの隣に敷くのでした。
その後、「たくとくん」より下の二人の子が現れ、
自分たちのふとんを、兄のふとんと入れ替えました。
ところが、下の二人の子も、
「ママの隣で寝たい」と、争いになったようでしたね。
時間が過ぎて、下の二人の子が眠った後なんですけど、
「たくとくん」が現れ、体重31kgの弟を、
ママの隣のふとんから移しちゃうんですね、
弟の体を引っ張ったり転がしたりして。
それで結局、「たくとくん」が、
ママの隣を占めることができたようですけど・・・

あのう、今日書きたいのはそのことではありませんで、
世の中には、「たくとくん」兄弟とは正反対に、
親や養育者を嫌忌して、
「いっしょに居たくない」と思っている子どもが、
現実に「いる」んだということで、そういうのは、
ものすごい不幸なことだと私は思いまして、ですから、
「ママが大好き」っていう「たくとくん」兄弟は、
とっても恵まれているなあという感想の私でした。

そこで次の話ですけど、
子どもが親や養育者を嫌忌する場合、そうなる原因は、
「子どものほうに」ではなく、
「親や養育者の側にある」というのが私の考えで、
「親や養育者の心が健全でない」場合に、
そういうことが起こってくると思っていますから、
不幸の原因を考えてみるため、次回以降も、
「親の問題」と「子の苦しみ」について、
社会の問題や人間関係も話題にしながら、
書き進めてみたいです。

そして、そんなことを思いましたのは、以前から、
渋谷の駅前とか、まあ、渋谷に限らず日本全国で、
「家に居たくない」少年少女たちが、あてどなく、
夜の街を彷徨する姿などをテレビで見てまして、でも、
「よその子」のことだし、自分とは関係ない世界、
・ ・ ・ と、「心にかけようとはせず」、無意識に、
「他人の不幸」だから「関りたくない」気持ちで、
自分の心に蓋をしてましたね、私は。

でもねえ、幸福に関するブログを書いてる私としては、
そういう現実を考えてみることも必要かな・・・と。


相手を「好き」だと思えなければ、幸福は遠いですね。

超まじめという問題

07-16,2017

夏(44)
今、朝の6時前ですが、室温がすでに30度、
植え替えて時期がたってない植物には、
水やりをしてきたところでして、まあ、植物には、
暑さに耐えて欲しいですが、
今、太陽は拙宅の「北側」を照らしてまして、
その後は一日中、建物の「南側」を直射しますから、
私はたいへんですね、今日も・・・

さて、最初に、問題発言をします。
「超まじめ」というのは、生まれ持った性格ではなく、
世間を欺く「偽装である」・・・と言わせて下さい。

あのう、社会生活においてですね、「常識」を、
そうなんです、「常識を」わきまえている人だったら、
私の考えでは、「超まじめ」には「ならない」って、
それは実際、ほんとにそう思います。

あのう、現実の社会ではですね、
「超まじめ」でなければならない必要性なんて、
ほんとにほんと、「無い」んですよね。
見て下さい、各国のトップレベルをいく政治家でも、
別に、現在のことを言ってるわけでもなく、歴史的に、
国民に対して「超まじめに」行動してきましたか?
・・・そんなこと、あるはず無いですよね。

それどころか・・・ですよ、「超まじめ」って、
世間では「バカにされる」場面、多くないですか?

今日、「超まじめ」を話題にしましたのは、昨日、
「融通がきかない」ことを書いたのが原因でして、
あの、「融通がきかない」のには悪い面も、それは、
「ある」んですけどね、現実社会では、たとえば、
公務員が「融通をきかせて」ですね、
担当公務員個人の判断によって、「良かれと思って」、
規則に反したことを行ったとしましたら、それって、
ここに書くまでもなく、「重大問題」であることは、
まあ、あたりまえすぎることですよね。

あの、公務員が規則に従って、「超まじめに」、
規則どおりに業務を執行するの当然なんですけど、
次に書きますことは、公務員の職務執行ではなく、
普通の社会生活における個人の行動なんですけど、
「個人が」ですね、
「自分の思い」に従って行動するということは、
公式に・・・というか、もっと言えば、日本国憲法上、
認められてるんでしょうか?

ええっと、文章の続き具合で、書きたかった内容とは、
方向性が違ってしまいましたので修正しますが、
「超まじめに」行動する人って、私の感想では、
「公に認められた行動」でなければひどいめにあう、
・・・みたいな恐怖があって、それが一番の理由で、
「自分が非難されない」行動をとるしかないという、
あの、そういうの、何って言うんでしょうか、
批判を避けるための無難な道、無難な道を選んで、
「自分を殺して」までも世間の基準に合わせる道を、
嫌だけれども「取らざるを得ない」って精神状況に、
もしかしたら、追い込まれてるのかなあ・・・って、
感じたことでした。

あの、それほど、「世間が恐かった」というか、
人間関係が恐怖という社会に生きてきたのかなあ?

とっても気の毒で、不幸この上ないと思いますが、
そうですねえ、やっぱり、心温かく、
優しい人との出会いや交流をとおして、
人に対する恐怖がやわらげられ、
和やかな人間関係の幸福感を得て欲しいものです。


暑さを乗り切るしかないでしょうね、幸福に支えられ。

さらに魔性の親

07-15,2017

夏(43)
今日は爽やかな感じです・・・と言いましても、現在、
室温33度、湿度57%なんですが、この程度では、
あまり「苦しくなく過ごせる」んでして、それは、
窓から「風が入ってくる」からなんですね。

さて、社会生活に関してですけど、
「Aを行うのが良い」と言われている状況があって、
「Aを行う」ことで報われるという結果となるなら、
平穏無事に、また、喜ばしく過ごせると思います。

ところが、「Aを行っても」報われず、かえって、
Aに反する行為をしなかったからダメだってことで、
叱責を受けるような事態になったらどうでしょう?
不満や不信は当然のこと、さらに、怒りでしょうね。

そこで今日の話ですけど、まずはじめに、
平川裕貴さんの文章だと思うんですが、
インターネット上で次のような文を見ましたので、
全体のごく一部分ですけど、紹介します。
_____

こういう父親は子どもが口答えしたら、
たいていまた怒鳴ります。だから、
子どもはいつも黙って聞くしかありませんが、
それをまた腹立たしく思うのがこういうタイプ。
どちらにしても気に入らないのです。
_____

あのう、子どもがですね、
親に「口ごたえすると叱られる」と体験してるので、
しかたなく、「黙っている」としましょう。
ところが、そうなりますと、
子どもが「黙っている」ことに対してですね、
ひどく怒りを発する親・・・ってところでしょうか。

それで次は、ある人の実例を書かせていただきます。
その人の親は、超厳しい親で、「親の言うこと」に、
「針の先ほども」反するような子どもは、
「許しておかない」親だったそうです。

そこで、その子は、自分がつらかろうが、また、
犠牲を払う必要があろうと、自分の気持ちを殺して、
一言一句、「親の言うとおり」に行動したそうです。

ところが親は、そういう子どもに対して、
次のように攻め立て、「ダメな子」だということを、
さんざんにひどく言ったことが再三ありましたとか、
その父親の言葉は、次のようだったということです。
「おまえは『融通がきかない』人間である。
 そういうことでは、世の中に生きていけない。」

あの、ここに書くまでもないことですけど、
もし仮にですね、その子が「自分の判断で」ですね、
「融通をきかせて」物事に対応したとしましたら、
「父親の言ったことを厳正に守らない」ってことで、
つまり、「親をないがしろにする」ってことですよね。

ですからその子は、自分がひどいめにあう状況でも、
また、自分が損する場合でも、「親の言ったとおり」、
「親の言葉」に「決して反しないよう」行動したと、
そういうことなんですよね。

あの、この事例の親もですけど、
子どもにAであることを厳格に守らせ、
子どもがAであることを守って行動するのを見ると、
怒りを発して子どもを攻撃する親だと思う私でして、
世間には、そういうタイプの親がいると思いますし、
職場にだってですね、そういう上司は、実際、います。

まあ、そういう話を書きましたので、今日の標題を、
「さらに魔性の親」としました。

そして、最後に書きますが、
「親の言うとおり」に行動して親に叱責された場合、
子どもの側は、それでも親に「反抗できない」ですね。
・ ・ ・ 世の中には、そういう事例っていうのが、
普通に数多く見られると思いますけど、私はそこに、
たとえようもない不幸を見ることです。


心が不健全な程度に比例して、幸福から遠のきますね。

もっと魔性の親

07-14,2017

夏(42)
昨日は、吝嗇で子どもに「物を与えられない」親の話、
ちょっと書きましたけど、「物」ばっかりじゃなくて、
子どもに必須の保護や愛情を「与えられない」親とか、
親以外にも、子どもの養育にあたる人って、世の中に、
いっぱい居るのが現状だと思う私で、そうしますと、
子どもの不幸は限りないと思いますからね、
不幸の原因も探ろうとするこのブログでは、
どうしても取り上げなければならない話題と思い、
陰惨だし気分が良くない話ではありますけど、
書くしかないかなあ・・・というところで、お許しを。

このブログで、以前も取り上げた話なんですが、
その人はもう老齢でして、小学生の時だと言いますが、
「子ども銀行」というのがありまして、決まった日に、
学校に小遣いを持参して、「子ども銀行」というのに、
貯金したんだそうです。

他の子どもたちは、なにしろ「小遣い銭」ですから、
小額だったそうですが、その人が貯金したのは、
子どもにすればまさに「まとまった大金」で、しかも、
「切りのいい金額」だったそうです。

・ ・ ・ ところが、ここからが問題なんですけど、
その金額は「小遣い」などではありませんで、
なにしろ、その人は、「小遣い」なんて、
一円たりとももらえないし、もらったこともない人で、
「子ども銀行」の日に渡されたのは、親がですね、
「子どもの為に、これほど高額の小遣いを与えている、
 裕福で慈愛に満ちた親」という「偽装の姿」を、
学校の先生やよその子に「見せつける」ためであり、
もちろん、貯金したその金を、子どもであるその人が、
「もらえるはずが無い」わけなんですねえ。

あのう、その人は、貯金した金は小遣いでもないし、
将来、自分がもらう金でもないことを「知っていて」、
それでもなお、子どもの自分に高額の貯金をさせる、
非常に尊い「親の恩」に深甚の感謝をしてましたと、
老年になってから語っています。

ああ、世間には、なんと狡猾にして魔性の親がいるか、
・・・って、私は思いましたけど、でも、この社会、
実は悪魔の心を持つ人が、至高至善の人みたいに、
自分を偽装している例って多いなあと、それはほんと、
そう思いましたね。

今日一番書きたかったことですが、今日話題にした人、
その人は、「自分は小遣いをもらえない人間」だし、
貯金させられた金は「自分がもらえる金でない」と、
完全に、充分に承知した上でですね、高額の貯金を、
自分に持たせた親に「感謝を捧げざるをえなかった」、
・・・という、自虐というか、何と言うんでしょう、
ひどくされているから、怒りを発するのが当然なのに、
「自分を虐待する相手」を「賛美するしかない」という、
極度にゆがみ、ゆがみきって言葉もないような、
「正邪逆転の世界」を、自分の世界とするしかない、
精神的に、まさに地獄の世界を、私は見るんですけど。

今日は非常に無惨な話題ですみませんでした。
まあ、でも、実際の世の中にあった話ですし、
その親は、子どもにひどいことをしている自覚なんて、
なかったと思いますけどね。

それで、子どもにひどいことをしている自覚無しに、
いいえ、かえってですね、
「子どものために良いことをしている」と思いつつ、
実は子どもを虐待している親っていうのは、
たくさんいると考える私でして、そういう世の中は、
子どもにとって、とても不幸な世界だと思いますから、
これからも折をみて書いていきたいです。

最後に、「子どものために良いことをしている」と、
勘違いしつつ、子どもを虐待している親の不幸は、
計り知れないと思います。


不幸な親は、子どもが思いどおりでも怒りを発します。

給料受領に行けない

07-13,2017

夏(41)
昨日は用事が多くって、
ブログを掲載するどころではありませんでしたから、
お休みしちゃいましたけど、今日もまた猛暑の中、
さわやかじゃない話題ですみませんけど、
昨日掲載する為に書いておいた文がありますから、
今日、載せたいと思います。

世の中には、蓄財一途のあまり、食べるものも食べず、
着るものも着ないでケチケチ生活を送り、ですから、
子どもにも金を使わないし、子どもに必要なものさえ、
買ってやらないし、小遣いもやらないという、
すごい親が実際にいまして、何しろ、医療費だって、
惜しくて出せないくらいですからね、その家庭の子は、
ものすごい適応ぶりを発揮しまして、もう幼少時から、
親に対して「買って欲しい」なんてことはもちろん、
金がかからないことに対してさえ、もう絶対にですね、
要求ごとをしないという「超良い子」に育ちまして、
親から見て「非のうちどころ」がない子でしたとか。

いやあ、世間には、子どもに非人情にあたる親なのに、
子どもはまるで観音様の生まれ変わりみたいだと、
・・・そういう表現はダメかもしれません、なぜなら、
観音様ってどういうのか、私自身、知らないからです。

でもやっぱり、その子は観音様ではないってことで、
あのう、その子が大人になってもですね、
「金を使う」のは「犯罪だ」って感覚が抜けないで、
「自分のことに金を使う」ってことさえ困難を極め、
そんなふうですから、友達と遊びに行くなんてことも、
金がかかるからできないことでして、でも、
社会生活は一人では成り立たないわけでして、
たとえば職場の人々が、いっしょに、
食事や酒を楽しみに行く場は「ことわれない」ので、
いっしょに行ったとしてもですね、他のみんなが、
こういう料理、ああいう料理と注文する場でもですね、
その人は、「この料理がいい」なんて言ったことが、
何と、「一度もない」というんですから驚きです。

あの、その人が育った家庭では、「要求する」なんて、
そりゃあ、「できなかった」でしょうけど、でも、
職場の同僚などは、その人の親じゃないわけでして、
みんながそれぞれ食べたいのを言い合って注文し、
出された料理はみんなで分け合って食べ、会計は、
全員で均等割りにする和気藹々の場なんだと、
「頭では理解できてる」・・・わけですけどね、
その人の「感情面」では、
「自分の思いを発言する」事態をになった場合、
恐怖の情動が自動的に発現するのかも知れないと、
私は想像したことでしたが、ほんとにそうかどうかは、
わかんないんですけどね。

まあ、でも、常識を外れた親に適応してきた対応法で、
世間一般の常識的な人に接しようとしても、
「うまくいかない」のは当然のことでして、ですから、
その人は、とっても気の毒なんですけどね、
私には「どうしたらいいか」って対策については、
見えてきません、全くのところ。

そして、その人の別の話なんですけど、
学びながらアルバイトをしてました時、
給料日の間近まで仕事をしてたんですけど、
雇用先の都合でアルバイトの人がいらなくなり、
いつもなら給料日にアルバイト料が支給されますが、
給料日がアルバイト終了の数日後ということで、
当然その人は、給料を取りに行くべきなんですが、
給料日になっても、その人、「どうしても」、あのう、
「どうしても」ですね、「当然もらえるべき給料」を、
受け取りにいけなかったというんですね。
そして、その後も、取りにいけなかったと言います。

あのう、その人って、子どもの頃からなんですけど、
自分の思いや願いを、親などに「言う」ってことは、
「厳禁」されてたようでして、その禁を破れば、
親の下で「生きていくことができなくなる」恐怖、
その恐怖からは、成人した後も、解放されなかったと、
そういうことのようでした。

そしてその人、当然受け取るべき権利のある給与さえ、
「要求すること」ができなかったんですね、感情的に。

さて、私が居る室内は、現在、33.4度、
湿度57%をデジタル室温計が示してまして、
不快ですけど、それよりもはるかに、
今日話題にした人って、精神的にですね、
とっても気の毒な状態を生きてると思いまして、
私が「今日は暑い」なんていうのとは桁外れの、
過酷な人生だったろうと思います。

私なんか、今日も午前中は、びっしょりの汗でしたが、
みんなと楽しく活動できまして、まあ、社会的に、
人と楽しく交流できるなんていうのは、もうほんとに、
幸福中の幸福かなあ・・・なんて思うことでして、
「人間関係が喜ばしい」っていうのは幸福の源だと、
心の底から思ったことでした。


他人から好意をもらえる喜びで、自分も他人に好意を。

自分が嫌いに

07-11,2017

夏(40)
今の自分が「喜ばしいなあ」って思えることは、
とっても幸せなことだと、私は思います。

それは、今の自分を「肯定的に」捉えられることで、
つまりは、自分が好きになれるってことですし、
自分が「良いものだ」と思えるということでして、
そういうふうだからこそ、社会生活の場でですね、
「他の人に対しても」好意を持つことができるって、
私は思います。

それに反対のことですが、昨日の続きを書きますけど、
親自身、人生が嫌になっちゃうような生き方をして、
その姿を子どもにさらしていたとしましょう。

そういう場合、子どもはですね、そのような親を嫌い、
反発したとしたら、現在でも不幸な親は、さらに、
不幸の淵に沈むんじゃないかと、無意識のうちに、
それはもう、ほんとに無意識だと思いますし、
「言葉によって」そういうふうに考えるんじゃなく、
非言語的にそういう思いを抱いちゃうと思いますが、
まあ、とにかく、親をこれ以上苦しめない為、
親が不機嫌にならないよう、精神的なケアをですね、
「自動的に」しちゃうんじゃないかなあと思います、
あの、「子どものほうが」、親の精神的ケアをです。

つまり、子どもは「自分が嫌な状態」でもガマンして、
自分のことは置いといて、もっと言えばですね、
子ども自身が自分のほんとうの気持ちを殺してでも、
子どものことで親が心理的パニックに陥らないよう、
平穏にいられるよう、非常に「気遣いをする」状態、
・・・いやあ、ほんとにそうなんであって、それ、
子どものほうが、親のめんどうを見てる状態ですが、
世の中には、そういう親子関係って、あると思います。

そして、それって、子どものほうがガマンして、
「ほんとの気持ちを出せない苦しい状態」を、
子ども自身が耐えてる状況ですからね、子どもは、
そういう自分の姿、自分の現状が、もう、
とてつもなく嫌なのであって、まあ、要するに、
自分が置かれている状況、自分がしている行為、
さらに、最終的には「自分自身」がですね、
「嫌なものである」、「嫌いだ」ということになって、
結局、「自己嫌悪」という言葉がありますけど、その、
「自己嫌悪」状態に陥るかなあと思いますし、
そういうのって、たとえようもなく不幸な状態で、
なんとも、言葉が無いくらいですけど、世間には、
そういう精神的状況の人も多いみたいで・・・


「置かれた状況」によって、自分を嫌ってしまう不幸。

都合の良い子

07-10,2017

電線の鳥たち
親がですね、
自分は「苦労して」世の中を生きているんだという、
そういう「生き方」を子どもに見せるってことは、
世間には、よくあることだと思います。

私は別に、そのことを批判するわけではないんですが、
そういう親の生き方って、子どもの心に「刻まれる」、
あの、ほんとうに「刻まれる」と思います。

それで、たとえばですね、
「爪に火をともして」蓄財に励む親がいたとして、
親自身が、食べるものも食べず、
着るものも着ないようにして生活を切り詰めてたら、
その家の子は・・・ですね、親に対して、
「おやつが食べたい」とか、
「かわいい洋服を買って欲しい」なんて、言えますか?
・・・ってことなんです。

もう、当然、「言えない」でしょう。

あのう、そこに、大きな問題があるんですけど、
その大問題の話には、今日は触れずにおきまして、
そういう子って、蓄財一途の親にとっては、
それはそれは「都合の良い子」だと思いませんか?

人は、社会に「適応できなければ」、
生きるのが困難になっちゃうことって、多いですけど、
子どもはもっとですね、親に対する「適応」が、
重大問題だと思いますし、親に適応できなければ、
子どもにとって「身の破滅」は必然だと思います。

だから子どもは、「どういう親や養育者であっても」、
必ず「適応する」ものだと、私は考えます。
それで、子どもが「楽しく過ごす」ような行為を、
絶対「認めない」親がいるとしたら、
そういう親に適応し、さらに、過剰に適応した子は、
「欲しいもの」あっても「欲しい」とは言えないし、
「楽しむこと」が犯罪のように見えるってこと、
あると思いますけど、続きはまた明日ということに。


悪い人間とか悪い環境に適応すると、かえって不幸に。

人間関係の法則

07-09,2017

夏(39)
おとといのこのブログに、私は、
次のように書きました。
____________

子どもに「与えられない」親というのは、
気持ちの根底に、子どもを「好きになれない」し、
「愛せない」ものがあるからではないかというのが、
私の想像なんですけどね。」

まあ、そんなふうに書きまして、昨日のブログでは、
爪に火を灯すようにして蓄財に励む人について、
そういう人がですね、金がかかったとしても、
「楽しく過ごす」ような行為を、
家族に対して「認める」ことは無いだろうという、
私の判断を書きました。

それで今日の標題を、
「人間関係の法則」としたんですけど、
おとといや昨日のブログに書いたことを考えながら、
私は、自分なりの気付きによる「法則性」について、
ちょっと書いてみたいと思います。

その法則とは、
「他の人を好きになれるし、愛せる人でなければ、
 自分の夫や妻、あるいは子どもを好きになったり、
 愛することはできない」という法則です。

そこからもう一つ言えることなんですが、
親密さということに関してもですね、
世の中の、一般の他の人と仲良くなれるし、また、
親密になれるっていう人でなければ、夫や妻、
あるいは自分の子と親密になることもできない、
・・・って法則なんですね。

ですから、社会の中で、
他の人と楽しく交流できないタイプの人であったら、
自分の夫や妻、また、子どもとも楽しく交流できない、
・・・って法則なんです。

あのう、世間の人間関係の諸相を見ますと、
そういう法則性が浮かび上がるんじゃないかと、
昨日、気付きましたので書いてみました。


もっと言えば、自分が好きだと、他人も好きになれる。

蓄財目的の非人間性

07-08,2017

太陽
あの、結論を先に書きますと、
今日私が言いたいことは、
心の中に沸いてくる金銭財産への激しい執着、
権力や栄誉などに対する狂おしいまでの渇望は、
実は、自分が「幻惑」されている状態なのだと知り、
幸福のためにはですね、そういう方向ではなく、
人を大切にできるし、人に好意が持てる自分である、
そういう自分が幸福であるという「実感が持てる」、
まあ、そういうのが一番かなあということなんです。

さて、ある人ですが、小学校入学前から、親に対して、
○○が欲しいとか、○○して欲しいといった欲求を、
一切・・・というか、もう「完全に」ですね、
「言ったことが無い」という人がいまして、その人、
当然のことに、不幸極まりない人なんですけど、
まあ、広い世間には、そういう人もいるものかと、
全くびっくりでありまして、でも、世の中には実際、
そういう人も「いるんだ」ということで、このブログ、
幸福への道を探る為には「不幸の探求も必要」で、
気が重い話題ですけど、幸福にいられる人でしたら、
暗い話題も耐えられるでしょうから、
書かせていただきます。

あのう、金銭財産を求める人って、この社会には、
あたりまえに、普通にいますけどね、私の想像では、
財力があれば、自分が惨めな状態に陥らなくて済む、
・・・という、「安心・安全」を求める気持ちが、
意識できない心の根底にあるのかなあと思います。

ですから、この社会が、安心して住める場所、
安全が確保できる場所だって思えるような人なら、
別にねえ、蓄財の必要は無いんじゃないかって、
まあ、それ、私個人の考え方ですけどね。

さて、話を進めてまいりますが、
爪に火を灯すようにして蓄財に励む人がいた場合、
その人は、家族に対して、金がかかったとしても、
「楽しく過ごす」ような行為を「認めるか?」
・・・ってことなんですけど、そうですねえ、
そういうことは無いんじゃないかと思いまして、
続きは、また次回に書くことにいたしますが、
世間には「金を貯める」ことが人生の目的って人、
いるってことは、いろんな実例を挙げるまでもなく、
間違いないですね。

あの、そういう人の中には、とにかく生活を切り詰め、
食べるものも食べず、着るものも着ないし、
「金がかかる」から人との交際もしないようにして、
まあ、それでも「金を貯める」こと一筋に生きて、
中には、莫大な現金を床下などに「隠し持ったまま」、
孤独死してるのが発見された・・・なんて人もいて、
いやあ、全く、すごい世界ですね、
そういう人の精神世界って。


財力、権力、栄誉などに幻惑されず、幸福を願うこと。

与えない親

07-07,2017

夏(38)
人と仲良くできるって、とっても幸せなことですけど、
改めてよく考えてみますと、仲良くできるのは、
相手のことが好きだとか、好意が持てるってことだと、
ようやく気がついた私でして、つまり、
「好意が持てるから仲良くできるんだ」という、
因果関係みたいなものには、今まで気付くことが無く、
そんなことを「意識して考える」ということも、
初めてですけど、それというのも、
「幸福に関するブログ」を日々書き続ける中で、
「不幸な人」っていうのは、結局ですね、
「相手が好きになれない」とか、「愛せない」という、
まあ、そこに大きな原因があるんじゃないかって、
だんだん、考えることができるようになったわけです。

自分としては、「無意識のうちに」楽しいなあって、
人と関っていたという、そのことは、根底にですね、
「相手が好ましいなあ」、「好きだなあ」って感情が、
「あった」からなんだということに気付いたわけで、
反対から言えば、相手に嫌悪感を感じていたら、
絶対「仲良くなれないなあ」と思いましたね、
自分のことを良く考えてみますと。

それで、今日の標題を「与えない親」としましたが、
次に続く言葉を、「要求しない子」としたいんです。
そしてまた、このブログの記述内容なんですが、
新しい段階に入った・・・という気がしています。

それは、幸福や不幸についてですね、これまでは、
「個人の問題」を中心に書いてきましたけど、
今後はその範囲を超えて、「相手とのと関係」により、
個人の幸不幸が影響を受ける、あるいはさらに、
左右されちゃうという仕組みについて、
もっと考えてみたいですし、「個人の問題」ばかりを、
いくら考究してもですね、
不幸の原因を追究するには限界がある・・・と、
感じたものですから。

あのう、「個人の」幸不幸といいましても、それは、
「個人が原因となって」引き起こされるというより、
人の「社会関係」によってですね、他の人との関係で、
他の人との「相互作用によって」、
幸せにもなれれば、不幸になるってことがありまして、
ですから、世の中の状況とか、
世の中に対する各人の対処の仕方がですね、
個人に幸せをもたらす場合もあり、また反対に、
不幸に陥る場合もあるんだと、私としましては、
そういう感じがしまして、ですから、
ただ単に「個人の心の問題」として捉えるのでは、
幸福への道を探ることにはならないと思いまして、
そんなわけで、世の中にはですね、
「つらく厳しい世間に対処する方策」として、
「自分自身の利益の確保と蓄財」によって、
ひどい世の中を渡っていく「安心感」を得ようと、
必死になる人もいると思うんですけど、次回は、
「蓄財」という目的のために幸福を犠牲にしちゃう、
そういうタイプについて書いてみたいと思いますが、
それが「与えない親」という標題の理由でして、でも、
今日は、話の前置きだけで終わりにしたいと思います。

最後に、子どもに対してですね、品物はもちろん、
援助したり手助けをするようなサービスも、
子どもの心を汲んであげるというような親切も、
「与えられない」親というのは、
気持ちの根底に、子どもを「好きになれない」し、
「愛せない」ものがあるからではないかというのが、
私の想像なんですけどね。


与えないことよりも、「与えられない気持ち」が不幸。

不幸の道連れ

07-06,2017





夏(37)
昨日に続いて、嫌な話を書きますけど、
社会というものは、明るい面ばかりではなくって、
暗い面もいっぱいあって、社会の「良くない」面は、
一人一人の個人にも大きく影響するんでありまして、
世の中の「暗い面」の影響をいっぱい受けたあげく、
「つらい」、「苦しい」生き方になっちゃった人って、
数限りなくいると想像する私です。

さて、今ここに、つらく、苦しい人生を送っている、
一人の人がいたとしまして、その人がですね、
子どもを持つことになったとして話を進めますけど、
そういう人っていうのは、
「自分の苦しみを何とかする」ことが先決問題で、
「子どもの幸せのため」、子どもにしてあげることは、
後回しになるというか、でも、
後回しであっても「できる」人はまだいいんですが、
それどころじゃなくって、自分の不幸と苦難を、
子どもにも押し付けちゃうし、そのことによって、
子どもを不幸の道連れにするようなことって、
多いんじゃないかと思いまして、実際、世間には、
そういう例が見られると思いますから書くんですが、
幸福をテーマとするこのブログでは、
相手をも不幸にしちゃうパターンについても、
考究したいと思いまして、陰惨な話ではありますが、
次回も続けて・・・


不幸な人は幸福を目指すべきで、不幸の道連れはダメ。

ある人の文章に

07-05,2017

夏(36)
当地は昨夜台風が過ぎ、今日は晴れて暑くなりました。
・・・と言いましても、
エアコン無しで今夏も乗り切るつもりの私には、
ちっとも苦しい暑さではありませんね、今のところ。

さて、次のような文章を見まして、またちょっと、
考えてしまいましたし、ああ、世の中には、
そういうわけで不幸な子もいるんだとわかりまして、
「自分の不幸を他人に拡散する」ってことの、
罪を思いました。(刑法上の罪でありませんけど。)

さて、その文章ですが、以下のようです。
「子供が親に反抗できるのは、
 自分が反抗しても「親は愛してくれる」という
 絶対的な自信があることと、
 子供が反抗しても、親は、
 幸せに生きられるという状態かどうかなのです。」

・・・ああ、そうかと、私は思いまして、
あの、社会生活では、一般的に言ってですね、
「相手に反抗しても」それでも愛してもらえるって、
そういうことは「無い」のが普通なんですけど、でも、
親子関係では、子どもは、
そんなふうに親に愛してもらえる・・・んですよね、
世間一般に、普通はです。

でも、そうじゃない家もありまして、
社会規範みたいなものが、普通の社会以上に、
「超厳しい」家族関係もあるんだってことを、
認識させられる家庭の姿ってのも、あるんですねえ。

まあ、そういう家庭環境でしたら、
親とか養育者の愛情無しには、
十全には育てないっていうのが、
子どもというものだと思いますから、
そういう家庭環境こそ「不幸の源」だと思いまして、
次回以降、もっと詳しく考えてみたいんですが、
まあ、何でしょう、「不幸な親」というものは、
子どもに「愛情を注げない」って状況がありまして、
それが原因となって、「親の不幸」をですね、
「子どもにまで拡散しているのではないか?」
・・・と、そんな気がしたものですから。


自分の幸不幸って、他人に影響を及ぼすと思いました。

ほんとは嫌悪だが

07-04,2017

夏(35)
人の文章を読むって、ほんとに「学び」になりますね。
次のような文に出会いまして、考えちゃいました。

「子どもが親を嫌うことができない状態」、
・・・という文なんです。

ああ、それは何という不幸だろうと思ったのですが、
それって、つまり、子どものほうがですね、
親のことを「心配してる」状況だと思いますけど、
実際、世の中には、そういうことって多いと思います。

さて、ここで、別のニュースを一つ紹介します。
標題は次のようです。
「高1女子とみだらな行為 
 母が借金か、65歳男を容疑で逮捕」

それで、記事の内容は、おおよそ、次のようでした。
「高校1年の女子生徒とみだらな行為をしたとして、
兵庫県警社署などは7日、児童福祉法違反の疑いで、
加東市岩屋の会社員(65)を逮捕した。
同署によると、女子生徒は
「母が容疑者に借金があるみたいだったので、
断れなかった」といい、昨年夏ごろから複数回、
そうした行為をさせられたと話しているという。
逮捕容疑は、今年5月30日、
容疑者の自宅で女子生徒が18歳未満と知りながら、
みだらな行為をした疑い。容疑を認めているという。

以上のような記事ですが、母が借金しているとしても、
だからといって、娘がですね、
その男の言いなりになるなんてことは、社会的に、
「あってはならない」って、当然なんですけどねえ。

でも、私が書きたかったのは、
母が負うべき責任なのに、「娘が自ら犠牲になった」、
娘のその気持ちのことなんですね。

そして、子どもというものは、親が苦境の時、
「助ける」んだとおもいますね、やっぱり。

あのう、「子を持って知る親の恩」なんてことわざ、
ありますけどね、そのことわざとは正反対に、
親が子どもをひどく扱い、そういう親に対してですね、
子どもが自分を犠牲にしてまで奉仕するって図式は、
実は、世間にいっぱいあると思う私でして、
まあ、そういう話、少しずつ書いていきたいですし、
そういう面からも、
不幸の原因を探っていきたいというのが、
私の意図です。


悪い親に奉仕して、両者共にますます不幸という図式。

思いを表現する

07-03,2017

夏(34)
先週土曜日のNHKドラマ「ひょっこ」ですけど、
自分の思い・・・というか、感情を表現するって場面、
ありましたね。

それで思ったんですけど、世の中には、
自分の思いや感情を「表現しない」人っていうのが、
実際に「いる」という現実がありまして、ドラマでは、
大学生の島谷純一郎が、なんか、「思いの表現」には、
「及び腰」みたいだなあ・・・って感じたことでした。

それで、社会的には「うらやましがられる」ような、
一見、恵まれた境遇にある人間だったとしてもですね、
島谷純一郎みたいに、「自由に表現できない」という、
厳しい制約下に置かれてる人って、もしかしたら、
多いのかもしれないと思ったことでしたが、でも、
これからのドラマの展開を知りませんし、
島谷純一郎も、どういう境遇の人かということは、
まだ、ドラマでは描かれてませんから、ドラマ展開上、
今の段階での私の想像です。

さて、まったく違う話ですが、
次のような文章を見まして、
いやあ、それ、ホントだろうと思いましたので、
引用させていただきます。

「パートナーが、
 自分を幸せにしてくれるワケではないのです。
 子どもや親が
 自分の人生を幸せにしてくれるのでもない。
 自分を幸せにできるのは、自分だけなのです。」

それで思いましたのは、世の中には、
パートナーに対して、自分を幸せにしてくれって、
あのう、自覚してないですけど、実は求めてるとか、
親がですね、自分の子どもに対して、
自分を幸せにしてくれることを求めているという例、
たくさんあるということです。

でも、社会通念上、
親が自分の子どもに対して、
自分を幸福にしてくれることを「求めてる」なんて、
「ありえない」としか思えないというのが、
実際のところではないでしょうか。

でも、でも、「ありえる」と思いますね、ホントに。

そして・・・です、子どもに対して、
「自分を幸せにしてくれ」と要求する親は、
もう、間違いなく、子どもを虐待してるんですね。

それで、また次の話ですけど、世間には、
子どもを完璧に支配している親というのがいまして、
「支配する」ということは、つまり、
子どもに「自由を許さない」ことで、
子ども自身の感覚とか感情、思いを持つことさえ、
絶対に許さない親もいますからね、そうしますと、
子どもは「自分の思いを表現する」なんて、
とてもできないことになるんですね。

では、なぜそれほどまでに子どもを「支配する」か、
私の考えでは、子どもを親のために利用する目的で、
子どもに自由を許さないと思うんですが、
そういうことはまた次回以降に・・・


自分の思いを表現できないのは、ものすごい不幸です。

暴行か偽善か

07-02,2017

夏(33)
昨日書いたことの続きですが、
子どもがですね、それも、たとえ乳幼児でもですけど、
自分に対して「機嫌よく」接してくれない場合、
怒り心頭、ドジ狂っちゃう親とか養育者っていうの、
世間には、ある程度の数、いると思う私です。

あの、そうしますと、子どもは、
親や養育者の機嫌をとり、喜ばせるという、いわば、
「たいこもち」と同じ役割を課せられるわけでして、
要するにそれ、「感情労働」なんですけど、
感情労働というものは、社会一般に、
賃金が高い場合もありますけど、その反対に、
職業をあまり選ぶことができない、
弱い立場の人々に押しつけられがちだってことも、
あるそうですね、現代の日本社会の実情では。

それで、感情労働の例をインターネットで見ましたら、
「CAは飛行機に搭乗するお客さまに、
 笑いたくなくても
 常に笑顔で接客をすることを求められます。
 また、クレームを言われても言い返すことなく耐え、
 お客さまにサービスをして、
 相手の自尊心を満たし
 満足させることを要求されます。」
・・・という文章を見つけましたが、さらに、
次のような職業例がありました。

「同じように
 相手の言うことに耐えるタイプの感情労働には、
 ウェイトレスやホステスなどの接客業、看護師、
 苦情対応専門部署、カスタマーセンターや
 コールセンターで働く
 オペレーターなどがあります。」
と書いてありました。

さて、世間には、精神的になんですけど、
「子どもに助けられて」、あるいは、
「子どもに保護されて」、それでやっと生きていける、
深い心の病を持つ親もいれば、養育者もいまして、
でも、そういう親や養育者というのは、
自分の「実態を隠す」必要がありますからね、
あるタイプは、子どもに対する暴君ぶりを発揮して、
子どもを虐待することで自分の優位性を認識し、
「自分は万能である」との虚像を抱くという、いわば、
「自己欺瞞」をするわけで、また、他のタイプですが、
世間体を考え、世の中の人からは、
自分が「立派な人間に見られたい」タイプでしたら、
いかにも慈愛あふれた善良な親のフリをするという、
まあ、それも、自己欺瞞であるとともに、
世の中の人をも騙すという二重の地獄絵図ですね。

エッ! そんなの、
全然、地獄絵図なんかじゃない・・・ってですか?

そうですねえ、どの程度なら地獄なのかっていうの、
基準や判断は、人によって違うだろうとは思います。
そして、かなり地獄的な環境で活躍してる人でしたら、
極度に悲惨じゃない場合は、
地獄には見えないかも知れませんね。


慈愛の親を装って、子や世間に「見せかける」不幸!

心を病む親など

07-01,2017

夏(32)
あのう、世の中には、子どもがですね、
「嫌だ」ってことを「言う」のはもちろん、
嫌がってるようなそぶりを示すことさえも、
厳禁する親や養育者がいるってこと、見聞きします。

そんなことを書きますのは、昨日のブログに、
自分は人から嫌われ、避けられるんだと、
確信してるような人のことを書きましたからで、
そういう人が親とか養育者になった場合なんですが、
子どもが「嫌がるそぶり」をしたというだけで、
その子は自分を嫌い、避けている「憎いやつだ」って、
まあ、そういう感覚になっちゃう人っていうのが、
世間には、やっぱり、現実に「いる」からでして、
そういうの、とっても不幸なことですから、
書いてみたいと思いました。

さて、そういうタイプの親や養育者にとっては、
「イヤイヤ」を言う子というのは、
自分に対する「反逆者」に見えるんですよね、
・・・って言いましても、それは、私の想像ですけど。

まあ、そうなりますと、悲惨なことになりまして、
それで、人間の歴史を社会と個人の関係から見ますと、
権力者というものは、相手がたとえ個人であっても、
反逆者というものを一番恐れるものなんですよね、
大昔から。

たとえば大逆罪に類するものは古代からありまして、
まあ、一番の重罪でしょうし、律令においても、
謀反は最大の犯罪なんでしょうが、まあ、要するに、
自分に立ち向かい、自分を敵視する相手というものを、
人は、一番嫌うという、それは、人の本性でしょう。

それで、親というものは、子どもにとって絶対者で、
人民に対する皇帝の地位よりも、もっと絶対権が強く、
子どもにとっては、まさに、「神のような存在」だと、
私は思います。

その、全知全能、神のような立場の親がですね、
精神的な問題を心に抱えてる例というのは多くて、
親や養育者に対して絶対の信頼と奉仕の心を持つ、
乳幼児や子どもの純粋な気持ちが信じられなくて、
子どもに何か不快なことがあって、それが理由となり、
子どもが不機嫌になった場合ですが、その不機嫌は、
親(養育者)の自分に対する非難の気持ちの表現で、
自分を「責める」ものであり、ひいては、それは正に、
自分に対する反逆である・・・と誤解する人って、
い・る・ん・で・す・よねェ、世間には。

あの、自分だけでは何もできない乳幼児が、
保護と助けを求めて、不快な状況を表現してるのに、
それは、親(養育者)に対する「敵意の表現」だと、
信じて疑わないような人がです。

まあ、今日は嫌な話題を書いてしまいましたけど、
「自分の心に問題がある」から、
「他人が悪いように見えてしまう」ってことが、
人間には実際にありまして、ほんとに不幸なことです。


心が明るくさわやかで、それで他人も良く見える幸福。

嫌われたという誤解

06-30,2017

夏(31)
27日にこのブログに書きましたことについて、
今日はその続きです。

それで、社会生活というものは、
人間関係ってことでもありまして、
隠遁者の気持ちなんかは理解の範囲外ですけど、
世の中で生きてる限りは、他の人からですね、
「好感をもって迎えられる」のがうれしいなあって、
それは私の感覚なんですが、おそらく他の人も、
同じ気持ちじゃないのかなあ・・・と推測します。

さて、バー「月時計」に、省吾とみね子がいましたが、
そこに元治と秀俊が現れるんですね。

すると省吾は、「みね子、帰ろう」と言いましたけど、
そう言った理由については、27日に書きました。
つまり、元治や秀俊と「楽しく過ごす」ことが、
その時は「不可能な」状況にあったからなんですね。

さて、たとえば今、歯が激痛に襲われたとします。
すぐに歯科治療に行こうとしている矢先、
友人が「おいしい」菓子を持参して現れ、
いっしょに食べようと、誘われたとしましょう。

その場合、誘いに応じられないのは当然で、
決して、その友人が「嫌いだから」ではないし、また、
その友人を「避けている」のでもないんですよね。

でも、世の中には、
「歯科治療に出向く」という相手の言葉が、
自分を嫌い、避けるための「口実」としか思えなくて、
自分は嫌われ、避けられたんだと「確信しちゃう」、
そういうタイプの人って、実際のところ、世間には、
少なくないんじゃないかと想像する私でして、現実に、
そういうタイプの人を知ってますから、そう思います。

あの、そういうの、不幸ですよね、ほんとに。
そして、ドラマ「ひょっこ」に登場する元治も秀俊も、
そういうタイプではありませんから、よかったです。
私の場合、見始めたのが遅かったドラマですから、
みね子がウェイトレスになる前の話は知りませんが、
すずふり亭で働くようになって以降、
みね子の周りには、心情が陰険だったり兇悪な人間が、
登場しないような気がしまして、
私としては安心して見ていられるドラマです。


嫌われてないのに「嫌われてる」という誤解は不幸。

悪に染まらない

06-29,2017

夏(30)
昨日、Yahoo Japan で、
「面従腹背」に官邸疑心=加計問題、
霞が関の不満影響か
・・・という題の、時事通信ニュースを見ましたが、
6/22(木)配信と書いてありました。
それで、記事の一部を紹介しますと、次のようです。
______________________

学校法人「加計学園」をめぐる
文部科学省の内部文書が
次々に明らかになった背景には、人事権を握り、
締め付けを強めてきた首相官邸に対する
中央官庁の不満もあるようだ。
「面従腹背」に見える霞が関の動きに
疑心を募らせる官邸は、
政府の内部文書管理の在り方を
見直す方針を打ち出したが、効果は見えない。
2014年の国家公務員制度改革関連法成立を受け、
安倍政権は官邸が中央省庁の幹部人事を
一元管理する内閣人事局を創設。
審議官級以上約600人の異動について、
菅義偉官房長官らが目を光らせてきた。
実際、政府関係者によると、
菅氏は官僚ごとに仕事や言動をチェック。
「独自の情報網から『あれは駄目、これも駄目』と
バツをつけてきた」という。
人事を握られ、官邸の意向に逆らえない風潮が強まり、

省庁からは「役所の権限で今までできていた仕事が
できなくなった」「官邸の監視の下で
びくびくしているのが現実」と嘆く声が漏れていた。
______________

それを読んで、私の感想ですけど、この社会、
立派な大人、それも、国民のリーダー的存在でも、
自分より「上の権威」に対しては、
「逆らえない」し、「びくびくしている」現状が、
実際にあるってことでして、ですからね、子どもは、
子どもにとっては「全知全能」である親や養育者が、
「子どもの教育」とか「しつけ」という大義名分で、
子どもの言動に「目を光らせ」、「チェックして」、
「あれは駄目、これも駄目」とバツをつけるならば、
子どもの心は「窒息してしまう」ということでして、
そういうの、世間によく見られる事態だと思うんです。

まあ、昨日はたまたまそんな記事を見ましたから、
今日もまた書く予定を変更しまして、
話がわき道に逸れましたけど、まあ、人はですね、
「あれもダメ、これもダメ」と自分を否定されると、
元気も出ませんし、意気消沈しますし、
自分を「悪いもの」と思うようになりますし、
いいことはありませんけど、でも、世の中、
そんなふうに自分を否定される体験をすることも、
多いんじゃないかと思います。

そこで思いますけど、相手を否定するってこと、
それは結局、相手にとっても自分にとっても、
不幸なことになりますからね、そうではなく、
「相手を尊重する」っていう態度、まあそれが、
幸福への道なんですけど、でも、問題がありまして、
相手が悪事を行ってる場合に相手を尊重したら、
それはとんでもないことになるのであって、
ですから、人間は、「悪に染まらない」ってこと、
まずそれは、幸福のために第一に大切なことだと、
心底、思ったことでした。


そんなわけで、善良で生きられるのは全く幸せですね。

心のトラブル

06-28,2017

夏(29)
今日のブログでは、昨日の続きを書くはずでしたけど、
今朝のNHKドラマ「ひょっこ」は、
ビートルズ来日の話題になりまして、
登場人物の一人が、Yesterday の歌詞について、
どういう内容を歌った歌詞なのか、
語る場面がありました。

その曲の歌詞なんて知らない私でしたから、
インターネットで歌詞の和訳を調べてみましたら、
次のようなのがありましたので、一部を紹介します。

「昨日はすべてのトラブルが遠く見えたのに、
 今ではここに居座っているよ。」

どうやら、大好きな女性が去っていってしまった、
男性の気持ちを歌ってるようですけど、
そうですねえ、その男性の話とは全く別のことですが、
世の中には、幼児期以来ずっと、
「大好き」な人なんて誰も「いなくて」ですね、
周囲の人(自分を育てた人も含めて)は皆、
恐怖の人、嫌忌する人ばっかりで、人生が、
ただひたすら苦しみに満ちていたっていう人が、
実際にいまして、ですからその人は、
「大好きな人が去ってしまった」どころではなく、
そもそも最初から、大好きで慕わしい人になど、
「出会った体験が無い」という人でして、
そういう人のことを思い出しました。

まあ、ほんとに、世間にはいろいろな人がいるもので、
ですから、大好きな女性が離れていっちゃった男性が、
「トラブルが居座る日々になってしまった」という、
その気持ちはわかる気がしますけど、それではですね、
生まれて以来、好きな人、慕わしい人、親密な人、
・・・そういう人々に出会ったことが無い人の場合、
「心のトラブル」はどれほどか・・・と思いました。

それで、このブログでは、やっぱりねえ、人間関係上、
人が生きる上で、好意を持つこと、親切であること、
親密であること・・・などは、ものすごく大切だって、
そのことを書きたいわけでして、そりゃあねえ、
社会を成り立たせるためには、経済も大切でしょう、
政治も国力も外交関係も大切でしょうけど、でも、
「人の心」をおろそかにしたり、無視したりでは、
幸福な社会を形成することができないと思います。


好意を持ち、人に親切にするのは、幸福の基本ですね。

辛苦モード

06-27,2017

夏(28)
25日のブログに書きましたこと、今日は、
その続きなんですけど、
「すずふり亭」の料理長、牧野省吾は、
ウェイトレスのみね子と、バー「月時計」に行きます。
そして省吾は、自分の「苦しい胸のうち」を、
みね子に聞いてもらいます。

あの、バーのその片隅は、要するに、
「辛苦モード」の場となっていたわけです。

さあ、そこに、すずふり亭のコックと見習いコックが、
すでに酔って上機嫌で現れますから、彼らはいわば、
「楽しみモード」真っ最中なんですよね。

それで、「辛苦モード」と「楽しみモード」では、
場の空気そのものが相容れず、相反するものですから、
それで省吾は、「みね子、帰ろう」と言ったわけで、
コックや見習いコックと「いっしょに居たくない」、
・・・なんてことは言ってないわけです。

たとえて言えば、通夜からの帰路、喪服姿で、
人々が歌って踊って楽しんでいる席に現れるという、
まあ、そういう行動を遠慮するってとこでしょうか。

それで、この続きは明日にしますけど、
喪服姿だとか、ダンス衣裳を身に着けてるとかならば、
その人が置かれている状況や雰囲気はわかりますが、
そうじゃなくって、「心のうちの状況」がどうなのか、
それは、「見ただけ」の外見上からは、他人からは、
「わからない」ことが多いというか、普通でしょう。

それでですね、社会生活では、
自分の心模様を表現する服装をしているわけでなく、
自分の「気持ち」をいつも表現してるわけでもなく、
世の中、「外見を見たから」といって、
相手の気持ちが推測できるわけではありませんよね。

そこで、「相手の気持ちを無視する」わけじゃなく、
相手の気持ちがどうかということには関りなく、
人間関係が進行していくってことは、社会では普通で、
たとえば制服姿の社員は、
自分の感情がどうであろうと、
「制服に見合った」態度で仕事をしてるわけでして、
自分の気持ちが「哀しみモード」であっても、
客には、にっこりと「いらっしゃいませ」をするとか、
まあ、世間はそんなふうであることって、多いですね。


感情というのは大切で、「感情の無視」は不幸ですね。

今日は土いじりで

06-26,2017

夏(27) 
昨日、最初に書きましたことは、
椿やムクゲの幼苗を移植したことでしたけど、
椿もムクゲも、それらの花は、
「茶花の王者」みたいなものですからね、
私としましては、
自分の庭から「好きな時に」調達できたらいいなあ、
・・・ってことなんですよね。

さて、ここのところ、
連日の園芸作業で疲れてますからね、
今日は休養しよう・・・と思ってましたのに、
何と、結果としましては、午前も午後も、
植物の根を掘って移動する作業をしたり、
除草作業で日を暮らしてしまいました。

でも、「土いじり」というものは、
精神的にとっても良いものですからね、
気分はいいし、ですから、昨日の続きで、
人の心の苦しい面とか嫌な面、
不幸な面を書くことは、気が乗りませんので、
そういうことはまた明日ということにしまして、
今日はこれでおしまいです。


除草してきれいになった敷地を眺める時は、幸せ感が。

何でも言い合える

06-25,2017

夏(26)
今日は梅雨時らしい雨の朝で、雨が止むのを見計らい、
椿やムクゲの植え替えなどしまして、昼近くには、
蒸し暑くなってきましたから作業をやめましたけど、
なんか、連日の除草作業や植え替え作業の影響で、
疲労感がでてきてしまいました。

さて、昨日放送のNHKドラマ「ひょっこ」に、
私にとっては興味深いシーンがありまして、
それで私は、昨日の「ブログの続き」を書くよりも、
そのシーンを話題にした話が書きたくなりまして、
ですから、急にその話です。

「ひょっこ」の主人公みね子を誘って、
料理長の牧野省吾は、
彼の幼なじみである邦子が経営するバーに行きます。

バーでの会話などは省略しまして、そのバーに、
「すずふり亭」のコック井川元治と、
見習いコックの前田秀俊が、
よそで飲んできたのでしょう、酔っ払って現れます。

そこで省吾は、
「オー、ちょうどよかった。みね子、帰ろう。」
と言います。
「そうですね」と、みね子。

すると、「じゃあ、私も」と言ったのが、
経営者の邦子です、あの、経営者が・・・です。

当然、元治は言います、「何だよそれ!
せっかく来たのに。じゃあ、俺も帰ろう。」

すると、元治が「帰ろう」と言った言葉を受けて、
省吾が言います、{残ろう。」
・・・いやあ、おもしろかったですね、そのやりとり。

まあ、その後は、「じゃ残ろう」、「僕も」、
「何飲む?」、「ハイボールで」・・・なんて具合で、
和やかに場面が続いていくんですけどね、
まず最初に私が言いたいのは、
上記のような会話に、「何の悪意も無い」ってことで、
そこがものすごく重要な点で、
あの、そのシーンのことなんですけど、
登場人物の全員が、つまり、みね子と省吾をはじめ、
経営者の邦子も、コックの元治と秀俊も、信頼関係、
・・・そうなんですね、信頼関係にあるってことは、
ほんとに明確でして、実は私、そのシーンから、
「幸福な人」と「不幸な人」の違いについて、
書きたいことがいっぱいありますから、また明日以降。


幸福か不幸かは、「その人自身の選択」によりますね。

意地悪すれば

06-24,2017


夏(25)
あのう、意地悪な人っていうのは、世の中に、
かなりの数、いるのかもしれませんね、なぜなら、
たとえば職場なんかで、嫌なことをされてるなんて話、
よく聞く話だからです。

でも、考えてみますと、人に意地悪をすれば、
相手から「嫌われる」っていうのは、当然でしょう。

ですから、意地悪をするためには、
自分がですね、「他者から嫌われてもいい」と、
腹を決めた上でなければ、できないことだと思います。

さて、社会生活上、相手に意地悪をしたり、
嫌な思いをさせたりする人って、いっぱいいますけど、
まあ、要するに、「自分は悪く思われてもいい」と、
覚悟の上でしてるわけでして、そこから判断しますと、
相手に嫌な思いを「させる」人というのは、
どんな態度や行為をしたとしても、自分は、
「相手から悪く思われる」であろうという、
たいへん不幸な自己像を抱えてるんじゃないか?
・・・って、私は想像したことでした。

あの、つまり、「自分が良く思われるはずない」って、
心の奥底では、思ってるのかも?

ところで、別の話ですけど、気分が良くってですね、
うれしいし、楽しいって状態の時、人は、
他人に意地悪しようとするであろうか?
・・・ってことなんですけど、まあ、おそらく、
そんなことはしないでしょうねえ。

ですから、意地悪する人っていうのは、結局、
自分のことが「良い」と思えないし、それどころか、
自分のことを「嫌っている」のかもしれませんね。
そして、もしそうだとすれば、何という不幸でしょう。

でも、世間には、そういう不幸を抱えている人も、
数多くいるんだと思いまして、そうですねえ、
自分のことを「良い」と思えない状態って、
不幸なんだ・・・という認識を得ただけでも、
「自分自身のことがわからない」状態に比べれば、
幸福への方向を目指しているということでしょうか。


「自分を知る」って、幸福の為には大切だと思います。

わざと「嫌われ」

06-23,2017

夏(24)
幸せの基本は、まず、自分自身がですね、
「いいなあ」と思えることで、それ、つまり、
「自分のこと」を、自分で「良いと思える」ことで、
社会的に、他の人に対しても、
他の人に「喜んでもらえる自分である」という認識、
あの、そういう認識は「無意識のうちに」であって、
自覚してることではないんですけど、でも、
そういう思い・・・というか、感覚は、
「必要」なんですよね、幸せ感が持てるためには。

それで、昨日は、すでに書く内容があったんですけど、
NHKドラマ「ひょっこ」のワンシーンを見まして、
印象深かったので、そのことを書くことにしまして、
でも、書き始める前に他の用事ができまして、
結局昨日は、「書けない」で終わりましたから、
このブログもお休みとなってしまいました。

それで、今日こそ、
「ひょっこ」のワンシーンのこと、
書くつもりでしたけど、今日の「ひょっこ」では、
そのシーンに続く場面がありましたから、
昨日と今日の「ひょっこ」を見て思いましたことを、
書いてみようと思います。

主人公が、ある用事を頼まれました。
喫茶店で待ってる人に封筒を渡す用事なんですけど、
封筒を受け取った相手は、支払いを主人公に押し付け、
店を出てしまう・・・というのが昨日のシーンで、
今日の放送でもまた、主人公は同じ用事を頼まれ、
今度こそ自分に支払いを押し付けられないようにと、
その心積もりだったのですが、相手にだまされ、
またもや、主人公が支払うハメになってしまいました。

そこで私の感想ですが、世の中には、
そういう人間っていうのは、いるものでありまして、
当然そういう人は、「誰からも嫌われる」んですけど、
でも、「嫌われる」のを「わかっていながら」ですね、
それでも、嫌われる行為をしちゃうわけです。

ところが、そういう人間って、
世間では「特殊か」・・・って言いましたら、
いいえ、いいえ、そんなことはありませんで、
程度の違いこそあれ、他人が嫌がることをして、
「自分が嫌われる」ようにもっていっちゃう人って、
実は、ずいぶん多いと思いまして、
そういうのってとても不幸なことですからね、
その心情について、考えてみようと思いまして、
続きはまた次回に ・ ・ ・


わざと嫌われる行動をするしかない不幸を思います。

幸せな空気

06-21,2017

夏(23)
今日は、親子の間とか、夫婦の間でですね、あの、
「家族間で」人間関係が結べない人っていうことを、
話題にしたいと思ったんですけど、その前にですね、
昨日のNHKドラマ「ひょっこ」の第68回に、
印象に残るシーンがありましたので、まずは、
そのことを書かせていただきます。

ある日、アパートの住人四人が、一人はご飯を提供、
一人はインスタントラーメンを提供、
一人はコーヒーを提供、そして、
食品を持つこともできない「哀れな」一人は、
自分の部屋を会食の場として提供するってことで、
つくった食事を四人で会食してるところにですね、
もう一人のアパートの住人が現れて言うんですね。
「この、満たされた、幸せな空気!」

そうですそうです、私は、
「この、満たされた幸せな空気!」という発言ですが、
心に刻まれましたし、そのことを書きたかったのです。

そうですねえ、幸せな空気が、幸せな人間関係が、
そして、幸せな世界が、四人で食事をしてるその場に、
「あった」んですねえ。

あの、人の社会生活のホンのちょっとした場面にも、
「幸せ」な時というものは、いっぱい見つけられるし、
「つらい世間」なんて言いながらも、
幸福が感じられる時って、いろいろあると思うんです。

ところが、世の中には「常時不幸な人間関係」もまた、
あるんでして、その一つに・・・ですね、
「家族間で人間関係を結べない」っていう家庭が、
実際にあると思う私で、それは、家族間で、相手を、
「冷ややかに無視する」とか、わざと意地悪くする、
・・・みたいなことばっかリが日常であるという、
すごい家が、ほんとにあるからなんですね。

あの、話がひどいことになってしまいましたから、
続きはまた明日ということにしますけど、
最初は「見ず知らずの他人」だったアパートの住人、
そうなんです、もともと「赤の他人」だった人々が、
こうして、「食事を共にする」って喜びと、
それ以上に「仲良く過ごせる」時間を持てる幸せ、
・・・そういうの、「いいなあ」と思う私でして、
それにひき比べ、四六時中いっしょにいる家庭内で、
「敵対関係」って現実もありますからね、まあ、
明日以降、そういうことも書いていきます・・・


他人同士で幸せなのに、親族関係で不幸な現実はある。

ひょっこの良さ

06-20,2017

夏(22)
NHKテレビの「ひょっこ」を、私は、
先週から見始めたんですけど、数回見るうちに、
ある点で、「ひょっこ」はいいなあと思いました。

それは、それぞれの人の個性を認め、
良さを認めるドラマになってる、脚本家の態度です。

私は脚本家について知らないんですけど、登場人物が、
相手の気持ちや態度を「否定しない」という、
そんなドラマ展開になっていることを、
とっても好ましく思いましたけど、もしかしたら、
悪魔的で地獄的な人間の側面やおぞましい行為を、
知り尽くした上で書いてるドラマでは?・・・なんて、
勝手に想像したことでした。

とにかく、世の中には、「ひどいこと」がいっぱい、
特に、相手を無視する・・・どころか、
徹底的にやっつけるとか、搾取する、収奪するなんて、
歴史的に見ても、また、どこの国、どこの社会にも、
「普通に見られる」ことですし、またそれが、
人の不幸の原因になっているというのが、
私の見方でして、だからこそ、
「ひょっこ」に描かれている人間模様、また、
そこに登場する人々のやさしさとか、
人を大切にする態度というものの中に、
幸福のヒントが隠されていると思う私です。

それで明日は、
家族間で「人間関係が結べない」家っていうこと、
続けて書いてみたいと思います。


「人を認める」のと「自分を認める」のは、同じ幸せ。

リラックスできない

06-19,2017

夏(21)
インターネット上で、次のような文章を見ました。
「自身も親との関係に悩んできた吉田美希さんは
 『母と父が果たせなかったことを
 すべて私に託された感じで、自分のことを今でも
 人形なんじゃないかって思う』と告白。
 『家庭でリラックスしたことがなくて、
 結婚しても今私は
 リラックスしていいのだろうかって
 自分に問いかけてしまう』と話し、
 家庭がリラックスできる場所だという
 イメージがないと説明した。」

それで、その「吉田美希さん」というのは、
法律事務所クロリスの弁護士なんだそうですけど、
「リラックスできない」っていうのは、
すごくきついというか、厳しいことだし、しかも、
「家庭でリラックスできない」としたら、
たとえようもなく苦しく、つらいことだと思います。

今日、そんなことを書きましたのは、ある人がですね、
その人が育った家は地獄そのもので、
絶え間ない緊張を生きてくるしかなかったってこと、
言ってたからでして、そういうのってものすごく不幸、
・・・と思いましたから、話題として取り上げました。

あの、その人(男性)は「母を知らない」そうでして、
養育に当たったのは祖母で、父はその人と交流が無く、
・・・あの、「交流が無い」って表現はちょっと、
不適切かもしれませんけど、でも、
何と書いたらいいかわからりませんで、そうですねえ、
父はその人に対して、どういう態度だったのかを、
最初に書いたほうがいいかもしれないんですけど、
その人の話から推測するしかない部分も多いので、
正確な実話という保証はないんですけど、
世の中には、そういう家庭とか親子関係って、
たぶん、他にもあるだろうと思いますし、また、
「家族」というのも一つの社会なんですけど、
「いっしょに住んでいる」その小社会の中で、
何と何と、「人間関係が結べない」ってこと、
ほんとにあるんですねえ・・・っていう事例なので、
次回はその続きを書いてみたいと思います。


家族間で人間関係が結べないことがあり、不幸ですね。

人の振り見て

06-18,2017

夏(20)
世の中、納得できることわざというものはあるもので、
「人の振り見て我が振り直せ」って言葉、
とっても納得ですね。

さて、15日のブログに引用した文ですけど、
「美人に近寄ってくる人というのも
 美人の幸せに興味があるわけではない」って言葉、
男にはそういう面が・・・と思いました。

男は・・・ですね、美人の女性ですと、彼自身が、
「喜ばしい」ということであって、もちろんそれは、
「彼女の幸せを第一に考えるから」ではなくって、
「自分がうれしいから」という、
自己中心といえば自己中心の考え方だと思うんです。

世の中、同じようがことがいろいろありまして、
刻苦勉励、爪に火をともし、食べたいものを食べず、
着たいものを着ないケチケチ人生を極めに極めた上、
蓄財を果たした男性を、私は知ってますけど、
念願叶って、彼の周りには、人が集まるようになり、
そこまではめでたしめでたし・・・なのですが。

けれども、私の見るところ、彼のところに集まる友達、
そうですねえ、友達といってよいかどうか、
そこのところは疑問ですが、まあとにかく、
彼を「おだて上げる」自称友人たちが日々彼を訪ね、
彼の気分をよくさせて談笑し、男の友情みたいには、
見える・・・のかも知れませんけど、でも、ほんとは、
彼から「借りる金を引き出す」のが真の目的でして、
でも彼は、そうした「友人」の真意には、全くですね、
「気づいてない」と観察した私でした。

そしてまた、友達に「催促するのか」みたいに、
男の友情のようなものをちらつかせ、期限が過ぎても、
借りた金は「返さない」いろんな策略に長けていて、
結局は、「返さずじまい」でごまかしちゃいたいと。

それもこれも・・・ですね、その哀れな男性が、
「金を貯めて」ですね、「金の力」に頼ってしか、
自分の価値を社会的に他の人から認めてもらえない、
とっても悲惨な現実、そうですねえ、彼には、
自分が世間に存立する基盤を、「財力」以外には、
見出せない人だからだと思いますけど。

まあ、そんなわけで、世間には、自分に自信が無くて、
そのため、財力もですけど、権力とか、社会的地位、
名声といった「外面的な飾り」を求めちゃう人って、
いると思いまして、そういう人を見ながらですね、
「人の振り見て我が振り直せ」ってことだと、
私は思いましたし、人が幸福になれる道は、
昨日のブログで書きましたように、
相手の人の心が「なごめる」ように、また、
相手の人が「喜べる」ように願うことであり、また、
そうなるように「行動する」ことだと思います。


自分自身を自分で承認できず、不満なのは不幸ですね。

なごみ、喜び

06-17,2017

夏(19)
人は、他の人との関係で社会生活を営んでますが、
その場合、相手の人の心が「なごめる」ように、また、
相手の人が「喜べる」ようにということを願って、
自分が現実に「行動する」、その、「実際行動」こそ、
自分自身の幸福につながると、私は思います。

あのう、「幸福感」というのは、
「心で感じる」ものですけどね、だからといって、
「具体的行動」無しに、
「意識の世界」を何とかしたら得られるかと言えば、
全くそうではなくって、この現実の世の中で、自分が、
身体的な行動によって、具体的に何かを行うことで、
はじめてですね、心の世界で満足が得られると、
ほんとにそう思うことです。

それで、他人に対して、「相手の人」がなごめる、
また、「相手の人」が喜べるようにするってことは、
そのまま、「自分が」なごめるようにすること、
「自分が」喜べるようにすることと、
同じことなんですよね。


今日も幸福を享受し、喜ばしく一日を過ごしましょう。

ひよっこの主題歌

06-16,2017

夏(18)
昨日のニュースに、びっくりするのがありました。
NHKの上田会長が、定例会見で、
朝ドラ「ひよっこ」の主題歌について発言した中に、
次のような言葉があったみたいだからです。
_________

「歌詞は読み取りにくくてなかなか難しい。
 どういう歌詞か調べてもらったが、
 調べてもらっても
 なかなか意味不明なところがある」と語っていた。
_________

「ひよっこ」ですけど、私は、
今週から見はじめたばかりでして、
主題歌はほとんど聞き流してましたから、
今日は、注意して聞いてみました。

それで、歌詞の中に、
何か問題があるかという点ですけど、
私の感覚では、全く、全然、100パーセントですね、
「問題ない」と思いますけど・・・
あの、よく聞き取れない言葉があったとしてもですね。

さて、それで、次は全く「別の話」でして、
NHK会長とは無関係のことを書きますけど、
世の中には、自分の感覚が「絶対である」と、
固く信じ込んでる人がいると思います。

昨日のブログで、私は、「人間社会は複雑だし、
人の心もものすごく複雑で、
いつも思っている自分の判断が正しいなんてことは、
なかなか無いのかも知れませんね。」と書きました。

・・・そうなんです、ほんとに私はそう思ってまして、
たとえ自分が「確信している」ことであっても、
ほんとに正しいのかって言いましたら、
? ? ? だと、私は思います。

それで、社会的にですね、○○が正しいとか、
○○でなければならないと思われてることでも、
「異なる社会」では「とんでもないこと」ことだと、
そういう例は、山ほどありますよね。

明治になって開国した日本ですけど、
外国人には「信じられない」習俗が日本にあったり、
外国人の行動や習慣が受けいれられない日本人って、
たくさんいたんじゃないかと思いますけど、当時は。

またまた別の話を書きます。
「理路整然」、それは、良いこと?
あの、「場合によって」だと思いますけどね。

たとえば学術論文が理路整然で無かったら、あるいは、
社会規範が理路整然で無かったら、恐怖ですよね。

でも、文芸作品は、また別でしてね、意味明瞭とか、
厳密な論理展開なんて、もう、そもそも・・・ですね、
「求めらてない」んですよね。
あの、江戸時代に生まれ、明治時代にもてはやされ、
いまだに歌われ、踊られている「かっぽれ」なんて、
私も踊りますけど、あのう、歌詞は「意味不明」、
でもそこに、かっぽれのおもしろさや良さが・・・

今日書きたかったことは何だろう?
・・・と思いますと、世間の状況もですけど、
何よりも、人が、そして自分自身も、決して決して、
「理路整然と」したものではありえず、それどころか、
意識できない心の奥底なんてとこには、まあ、
何があるか、「意識できない」から当然なんですけど、
ほんと、何があるか「わからない」というのが実態で、
それで、
「首尾一貫、論理が通っている」なんてのは、
「書類の世界」にはありうることでして、
法律等の条文ですとか、官僚による公的文書には、
「整合性」が求められるのは当然なんですけど、でも、
それは、「文書の世界」特有のことでありまして、
世の中の実態は、理路整然から「ほど遠い」んですね。


「心模様の実態」を捉えないと、幸福は語れませんね。

心がボロボロ

06-15,2017

夏(17)
おとといのブログに、「社会的に地位もあり」、
「仏様のようにあがめられていたり」っていう男が、
家庭内では、娘に性的暴行を働いてるなんて話、
書きましたけどね、それで、たとえて言えば、
外見は「すらばしい豪邸」に見えるのに、実は、
シロアリ被害で構造材そのものがグズグズの家、
そうですねえ、世の中にはそういう家もありまして、
ものすごく不幸ですからね、そういうの、
ちょっと考えてみたいと思いました。

それで、「豪邸」にたとえられるのが、
「金持ち」であるとか「社会的な高い地位や肩書き」、
「名声」などというものではないかと思います。

そして人は、そういうものを「求めちゃう」わけで、
なぜ求めるかといいましたら、私の推測ですけど、
そういうものが得られたら「幸福になれる」という、
幻想も幻想、まぶしい幻想ではないかと推測します。

じゃあなぜ、そういう幻想を求めるのかと言いますと、
心が満たされてないからであり、だから、
おもしろくないってことであり、まあ、結局は、
現状の自分に満足できないんだろうと考えました。

そして、「自分自身がおもしろくない」というのは、
「シロアリに食い荒らされてる状況」に似てかな?
・・・と思いましたね、心がボロボロで。

そんなわけで、「心が満たされる」のが幸福の道で、
金銭財産、地位や肩書き、名声や賞賛を得たとしても、
そんなものでは、心がを満たされることにならないと、
私は思います。

さて、ある青年は、本気で思ったそうです。
「車があったら幸せ」って。
また、ある女性は、本気で思っているかもしれません。
「美人だったら幸せ」って。

でも、そういうことにはならないでしょう。
もしそれがほんとだとしたら、日本国中、
「幸せな青年」であふれてると思いますし、また私は、
次のような文に出くわして、考えてしまいました。

「美人に近寄ってくる人というのも
 美人の幸せに興味があるわけではないので
 美人になったからといって
 わかってもらえるわけでもないし
 愛されるわけでもないし
 幸せになるわけでもないのです。
 むしろ、美人になることで
 見た目に興奮して自分の都合しか考えない
 人を軽く扱う人を寄せ付けやすくなります。」

人間社会は複雑だし、人の心もものすごく複雑で、
いつも思っている自分の判断が正しいなんてことは、
なかなか無いのかも知れませんね。


「心が満たされる感覚」って、とても幸せな瞬間だと。

サービストレイ

06-14,2017

夏(16)
NHK連続テレビ小説「ひよっこ」には、
興味関心がなかった私でしたけど、たまたま先週、
再放送が流れているのを見まして、それがきっかけで、
今週は月曜から見てますけど、今日の放送では、
ウェイトレスとして、初仕事のシーンがありました。

世の中、「見た目」と「実際にしてみた」のとでは、
すごく違うってこと、良くありますけど、
給仕の仕事もですね、実体験してみますと、ほんと、
それまで「想像もできなかった」困難さっていうの、
ありますね。

まあ、社会生活において、
他人の仕事を「見ている」だけでは、
「気づかない」ことってほんとに多いんだと、
ウェイトレスの仕事に限らず、そう思う私です。

さて、今朝のドラマでは、どのお客様に、
どの料理を提供すればよいのか、いや、ほんとにもう、
「わからなくなる」シーンがありましたけど、
私は自分の体験を思い出しまして、今日はそのこと、
思わず話題にしちゃいました。

その上・・・ですね、
サービストレイがステンレス丸盆などの、
金属製だったりしますと、グラスはもちろんのこと、
食器も「滑ります」から、トレイの持ち方が悪いと、
悲惨なことになりますねェ、私には失敗があります。
お客様に、グラスの中身をかけちゃったことが・・・

そんなことを思い出しましたから、
今日はこんな話題にしましたけど、いやいやその時、
お客様が寛容に対応して下さり、ほんとにありがたく、
全く感謝ですけど、世間には、ちょっとしたことでも、
「激怒する」人(お客様)って、いますからね、
そういうお客様だったらたら、
どうなっていたことだろうと。
・・・もしそうでしたら、心に傷が残ったろうなあと、
ほんとにそう思いますね。

最後に、茶の湯での懐石は、給仕盆が漆塗りの木製、
小間ではお客様の数が、二人から多くても五人程度と、
「落ち着いて」できますから、良い世界ですね。


心に余裕、そして寛容なのは、幸福だからそうなれる。
<

子に「求める」親

06-13,2017

夏(15)
気象庁が7日に、四国、中国、近畿、東海、
関東甲信地方が「梅雨入りしたとみられる」と、
発表しましたとき、私としては、
「ほんとかなあ?」って気持ちもあったのですが、
今日も曇って今は霧雨、やっぱり梅雨だなあって、
気温の低さを体感しながら思いますけど、今日は、
楽しくない、苦しい記事です。

ことわざに、「溺れる者はわらをもつかむ」っての、
ありますけど、世の中の現実を見ますと、それ、
ほんとだと思いますね。

それで、人は社会生活を営んでますから、
嫌でも応でも、「人とのつながり」がありまして、
今、「溺れる者」がいたとしてですね、
「溺れる者」と言いましても、今日は、
心の面・・・というか、心理的にですね、
健全に自立して、自分自身を主体的に生きられない人、
別の言葉で言えば、どうやって生きていったらいいか、
わからなくなっていて、心理的に立ち行かない人が、
その苦しさを紛らわせるために・・・ってことで、
実際、「わらをもつかむ」行為に出るというのは、
世間に良く見られることなんじゃないでしょうか。

たとえば、親が「溺れる者」の場合、
心理的に自分を助けて欲しいと、子どもに頼るし、
その子どもが、
「生まれたばかりの赤ちゃん」ってこともまた、
あると思います、私は。

・・・あの、それほど心が切羽詰って、誰かに、
もう、誰でもいいから「助けて欲しい」んですけど、
周囲に助けてくれる人がいない場合は、
「乳児だろうがなんだろうが」見境なく、
自分の救助、援助を求めちゃう・・・というのが、
人間というものじゃないんでしょうかね、世の中で、
心理的に窮状を抱え、どうしようもない人を見ますと。

それで、親が父親で、子が娘なんていう場合ですけど、
心理的にどうしようもなくなっている父親が、
小中学生から高校生くらいの娘に性的虐待を行う、
・・・なんてのは、そういう構図じゃないかって、
まあ、それ、私の勝手な見方なんですけど。

それをもっと言えば、心理的に立ち行かない兄が、
妹に性的虐待を行うなんてことも、まあ、心の面では、
「溺れる者はわらをもつかむ」気持ちなのかなあ、
・・・っていうのも、自分だけの狭量な推測ですけど。

いやいや今日は、人間のひどい面を書きましたけど、
心理的に窮状を抱えているということは、
その当人が不幸であるばかりでなく、
その人の周囲にも悪影響を及ぼすということで、
「心が健全である」ことの重要性を、ほんとにもう、
強烈に感じることですね、こういうことを考えますと。

さて、子どものときから性的虐待を受けてきた人の、
ある文章を紹介したいと思います。

「児童に対してそんな卑劣なことをする加害者は
 見た目も言動もおかしな人だから気付くはずだと
 思っていませんか?
 違うんです。
 社会的に地位もあり、 地域にも密着していて
 なんなら仏様のようにあがめられていたりと
 外面が良く誰もが疑いもしない加害者も
 たくさんいるんです。」

あのう、私、その言葉、特に、加害者がですね、
「社会的に地位もあり」と言っていること、また、
「仏様のようにあがめられていたり」って、
そういう人物像を語っているところに注目しまして、
ですから、世間の評判も良く、
「すばらしい人物」に「見える」ような人の心に、
魔性が宿っている場合って、いっぱいあるんだって、
う~ん、それでですね、
「外見は立派」で「心が魔性」という不幸について、
これから考えてみたいと思ったことでした。

話は変わりまして、今日も私は、
いろんな人からとっても良くしてもらうことができ、
感謝、感謝ですけど、そうですねえ、ダメな自分でも、
こんなに親切にしてもらえるし、好意がいただける、
そういう体験って、ほんとほんと、
「すばらしいものだ」って、心底、思うことです。

そしてまた、良く考えてみますと、私だって、
「他の人に喜んでもらえるように」という気持ちで、
いろんな機会にいろんな場所で行動してますけど、
それって、人に奉仕して「損する」って感覚の正反対、
まさに、心の喜びなんですからね、そう考えますと、
他の人からの好意や親切は、うれしくありがたく、
「受け取る」っていうことの幸福、そういうことを、
つくづくと思うことです。


心が健全であることは幸福の必須条件だと思います。

子をダシにする親

06-12,2017

夏(14)
昨日の続きなんですけど、ある文の標題に、
「母親より幸せになってはいけない」とありまして、
ああ、そういう親って、母親に限らず、
世間には同じような父親も多いんじゃないかと、
いろんな例から言えるって、私は思いました。

そして、ソプラノ歌手の宮澤那名子さんについて、
次のようなことが書いてありました。

「自分ができなかったことを
子どもにやらせようとする人で、
小さい頃からバレエやピアノを習っていた。
でも私がそれを職業にすると、
どこかで嫉妬心があるのか
私の仕事を仕事として認めてくれない」と説明。

幼い頃から
母親よりも幸せになってはいけないという
強迫観念があった宮澤さん。
「私はこんなに大変なのにいいわね、
って言われるから、遊びに行ってきても
”楽しかった”って言えない」と説明したうえで、
「母親に“満たされている自分”を見せたくなくて、
不幸なふりをする。
『お母さん、私もこんなに不幸だよ。
お母さんだけじゃないよ』って
幸せになろうとする自分をセーブするんです」
と話した。

上記の文を読んで思いましたけど、
全く世の中には、驚くような話があるんですね。
そして、そういうのは母親ばかりじゃなくって、
父親との関係でも、ある男性の例なんですが、
「全く同じ」パターンっていうのがありました。

結局ですね、社会的に「すばらしい子」だという、
世間の評判を得たいという親がいまして、ところが、
実際にその子が「優秀」に成長して、
ついに「親を超える存在」になっちゃいますと、
その子に対して怒り狂う親っていうのがいましてね、
そういうことから考えますと、
実は「親自身が」すばらしい存在なんだと、
世の中の人々から「思われたい」というのが本心で、
ですから、自分よりもですね、
子どものほうの評価が高くなったりしますと、
悔しくて、狂乱して「どじぐるう」状態になっちゃう、
まあ、そういうことなんでしょうかねェ。

そういう場合、子どもは、
親のダシに使われたということなんでしょうね。


親の心が健全だと、子どもにとっては一番の幸せだと。

他人の感情に依存

06-11,2017

夏(13)
あのう、世間一般に・・・ですけど、親というものは、
愛情でもその他なんでも、子どもに対しては、
「惜しみなく与え続けるものだ」っていう感覚が、
昔はあったし、また、今でもあるかなあと思います。

でも、でも、世の中には、その反対の親もいまして、
それが、子どもの不幸でもあるし、またそれ以前に、
そういう親自身、とっても不幸なんだと思う私です。

ところで、昨日のYahoo Japan のトップページで、
次のような標題の記事を見ました。
______________

「母親より幸せになってはいけない」
“毒親”の強すぎる愛と嫉妬  6/10(土) 11:00配信

子どもに干渉しすぎたり、
子どもの人格を否定したりと、
親の価値観を押し付けられて
精神的にまいってしまう子どもが増えている。

毒親との関係を赤裸々に綴った著書
「解縛」を出版しているタレント、エッセイストの
小島慶子さんは、自身の母親を
「子どもへの愛が強すぎる人。
自分の望む幸せが
娘の望む幸せに違いないっていう人」だと説明。
「あなたはどうしたいの?
何が好きなの? って言ってほしかったけど、
それが会話の中で成立しないのが一番辛かった」と
当時を振り返った。
______________

まあ、この続きはまた明日にしたいと思いますが、
上の文章を読んで、私が疑問に思いましたことは、
そういう母親が「望む幸せ」って、
いったいどんな幸せなの?
・・・っていうことでした。

たとえばですね、自分の子どもが、社会的に、
世間の人々から「うらやましがられる」ような、
優れた面を持つことを望む親って、いますけどね、
「世間の人」って、いったい、誰なんでしょう?

そしてまた、「うらやましがる」って、それは、
「誰に」うらやましがられたいんでしょうね。

さらにまた、
ほんとは「自分が」うらやましがられたいのに、
それが不可能だというので、自分の代理として、
子どもを利用してるんじゃないの?

ところが、それにもまして不思議なことは、
自分の子が「うらやましがられる」としましても、
うらやましがるのは「他人」であって、ですからね、
誰か他人が自分の子をうらやましがるという、
「他人の感情」によってですね、
その人は幸福が得られるというんでしょうか?

あの、そういう点がとても不思議で、もうとっても、
そういう心情が理解できない私なんですけど・・・


幸せって、私の心が自分の内側から幸せを感じること。

Win-Win じゃない関係

06-10,2017

夏(12)
昨日の続きを書きますけど、表面上はですね、
いかにも Win-Win の関係に見えて、実は実は、
Win-Win どころか、一方の人間が相手を食い物にする、
「主人と奴隷」よりもひどいような関係っていうのが、
世の中には見られまして、もう、そういうのは、
「不幸のもと」でして、もちろん、
「食い物にされる側」は不幸に決まってますけど、
相手を「食い物にする側」も、
幸福からはほど遠いですね。

ところが、社会的に見てですね、
「食い物にしている」とか、
「食い物にされている」なんていうふうには、
とても見えない例って、とてもたくさんあるだろうと、
私は思います。

あの、それどころか・・・ですね、世間の人からは、
「愛情のある親と幸せな子」みたいに見えていて、
でも、実際は、親が子を食い物にしている、あるいは、
親が吸血鬼で、子が生き血を吸われてるみたいな関係、
ほんとにあるんだと思いまして、
それ、とっても不幸な話ですから、
ちょっと考えてみたいと思ったまではいいんですが、
おどろおどろしい話で、気分爽快の反対ですからね、
今日はこのへんで。


信頼と愛情の関係で生きられることの幸せを思います。

ことの真相は

06-09,2017

夏(11)
昨日の続きですけど、Bさんは、
上司(男性)に「取り入ろう」と必死だったようで、
そのため、「自分は優秀」っていう姿を見せることに、
一生懸命だったようですけど、世の中には、
そういう女性って、いっぱいいるのかも知れません。

また、「男性の」上司は上司で、
そういう女子社員を優遇するってことも、社会一般に、
よくある話なのかも・・・

それで、Bさんは「めでたしめでたし」だったのか?
・・・と言いますと、今回、離職するということに。
いったい、何があったというのでしょう。

でも、話は実に単純だったようです。
結局、Bさんの目的は、「残業代稼ぎ」だったようで、
自分が残業する為には、「優秀な社員」で、しかも、
上司の気持ちを汲んで良く気がつく子である、
・・・という評価を上司から貰いたくて、それで、
男性上司に気に入られるようと、
しゃにむに努力したんだと、ついにわかったんです。

ところが、昨今の社会情勢ですが、
「残業をよしとする風潮」でもなくなりまして、
だいたいBさんは、「必要のない残業」を、わざと、
そうなんですね、不要のものをわざわざ作り出す、
まさにそのことに「いのちをかけて」、もう必死で、
「みんなでやる仕事」を「自分ひとりで抱え込み」、
他の人には仕事を回さず、自分だけに仕事を集中させ、
「残業の必要性」を意図的に作り出していたわけで、
でも、上司はですね、もっと上の人からの指令により、
不要の残業を削減する業務命令を受けたようでして、
とてもねえ、「お気に入り」の子をそばに置いて、
上司がすべき雑用を、他の社員が帰宅した後で、
その子にやってもらうことで「便利に」その子を使い、
自分は「楽をしよう」という方策が通じなくなった、
・・・というのが真相ということで、
たぶん間違いないだろうと思われます。

もっとも、Bさんを利用することによって、
自分もいいめをみてきた上司は、転勤で去りまして、
別の人が上司になったわけでして、そうなりますと、
上司としては「楽ができる」、
Bさんとしては「残業代が入る」という、
従来の「Win-Win」の関係が崩れたわけでして、
でも、よく考えてみますと、
元上司とBさんにとっては「Win-Win」であっても、
元上司とBさんを雇用する側にとっては、当然それ、
「損失」ななわけですから、まあ、社会的に、
そういう構図が長続きするとは思われませんね。

この場合、結局、憂き目をみたのはBさんであって、
転勤した上司にとっては、「やり得」だったでしょう。

でもねえ、「Win-Win」の関係に見えて、実は、
一方の人にだけ有利だってことは、
世間にはいっぱいありまして、まあ、そういうの、
不幸のもとですけどね、続きはまた次回に。


狐と狸の化かし合いは、結局不幸だと思う私です。

優秀さを演出する人

06-08,2017

夏(10)
世の中には、
自分が「すばらしい能力」の持ち主であることを、
宣伝せずには居られない人がいるわけでして、
昨日書きましたBさんは、
確かにそいうタイプとも思われたんですけど、実は、
他人に「そう思わせる」理由があったということが、
今になってやっとわかりました。

そのBさんなんですが、仕事の上で、
「自分の能力はすばらしい」ということを、
「見せつける」態度がアリアリだったそうでして、
同じ職種の同僚には仕事を「させない」ように、
率先して仕事を「我先に」取る・・・というか、奪い、
一人でその仕事を抱え込んでは、
バリバリ働いている姿を「上司に見せる」ことに、
汲々としていたんだそうです。

また、同僚のAさんが、ミスとも言えないほどの、
ちょっとした不具合をしたような場合は、Aさんが、
「重大な過ち」をしたように「わざと」言いふらし、
もちろん、「上司にも聞こえるように」工夫して、
Aさんと比べて自分の優秀さをアピールするという、
まあ、社会的には、鼻つまみ者が行うようなことを、
いつも行っていたというのですから、
彼女の精神状態は「どうなってるの?」って、
世間には、理解できない、不思議な人がいるものです。

最初私は、「偉ぶらなければいられない」人なのかと、
想像していたのですが、今になって、
そうでもないってことがわかってきたのですが、
そのことについてはまた明日に・・・


自分のありのままの姿を、そのままで生きられる幸せ。

すごい仕事ぶりの人

06-07,2017

夏(9)
毎日、することがいっぱいの私で、どんどん活動し、
それ以外にですね、「梅雨前に」・・・ということで、
庭の除草作業も、何日にも渡って続けてまして、
今日は昼食もせず、2時頃まで除草作業に励んだ結果、
午後遅くから、とっても疲れを感じちゃいましたけど、
さて、Aさんという人から、
同僚のBさんの話を、いつも聞かされてまして、
「そういう人がいるのか」とびっくりなんですけど、
世の中には、しゃかりきになって仕事をする人って、
いるんだなあと思っていたことでした。

でも、そのBさん、今度、仕事を退職するそうですが、
世間の、一般的な人の常識を超える働きぶりみたいで、
たとえば、社会的に「出世を目指す」とかですね、
職人気質で「いい仕事をしたい」なんて理由なら、
納得なんですけどね、そんなわけじゃありませんから、
理解できないんですけど、そのBさんの話、
続きを明日書きたいと思います。

あの、Bさんってですね、
「する必要の無い」奮励努力を夢中でしてまして、
はっちゃきに働きながら、不幸だなあと思いまして、
そこから、幸福と不幸について考えてみたいと、
まあ、そんなふうに思ったものですから。


今日梅雨入りみたいで、除草できない一休みの幸福を。

出たとこ勝負

06-06,2017

夏(8)
「出たとこ勝負」なんて言いますと、世間では、
「悪い意味」にとる人がほとんどかも知れませんが、
でもねえ、よく考えてみますと、この世の中、何でも、
あらかじめ準備し、用意しておけばいいでしょうけど、
現実には、「予定どおりに事が進展する」なんて、
無いのが普通かなあ・・・と思いますけど。

結局、予定外のこととか、突然のことっていうのは、
「あたりまえに起こる」と思っていたほうが、
現実に対処するには、好都合だと思うんですね。

今日も私は、「調子が良くない」ままに会合に出席し、
まあ、でも、不安な気持ちや心配を持つことなく、
役割は一応果たしたんですけど、今日のような場合、
「準備のしようが無い」って状況もありまして、
ですから、ほんとに「出たとこ勝負」だったんですが、
極端なことを言えば、人生ってすべて、
「出たとこ勝負」の面って、あるんだと思いました。

それで、準備ができなくても、十全にはできなくても、
不安や心配でうろたえることがない心境って、
大切だなあと思ったことでした。

そして、そういう心境になれるのは、自分にですね、
不十分なことや失敗があったとしても、
許容してもらえるんだという、
「人に対する信頼」があるからであって、
そういう感覚で人と接することができるという、
人間関係の幸せを思います。


日々に日々に、幸せを享受して生きましょう。

毎日たくさん

06-05,2017

夏(7)
昨日は、パソコンが使えない状況がありまして、
ブログを掲載できませんでしたけど、今日はまた、
いろんな用事がありましたから、今の時間になって、
やっとパソコンに向かうことができました。

まあ、今日もですね、いろんなことをたくさんしたと、
そういう感想でして、別にねえ、
社会的な活動は何もしなかった日でしたし、
世の中は平穏無事なんですけど、個人的には、
することがいっぱいありまして、でも、多くの中から、
ホンのちょっとだけ、今日はできたかなあ・・・と、
結局、「したいこと」が山ほどある自分なんだって、
自分のことを客観視しますと、そんな状況でして、
ずいぶん「いっぱい」活動したんですけど、それでも、
「いろいろ、したいことが山盛り」の中から、
ごく一部分だけできた・・・ってことですから、
今日の活動自体は満足なんですけど、
したいことがいっぱいある中で、
「できなかったこと」がその何十倍もありますから、
思うにまかせない・・・なんて、贅沢な不満でして。

まあ、そんな私ですから、
欲張りすぎて疲れちゃう面もあるかなあって、
そういう自戒・・・なんてことはありませんで、
世間には、「暇をもてあます」ことで苦しむ人もまた、
いるみたいですけど、私にとりましては、
理解できない気持ちであります。

あの、是非善悪、良し悪しを問題にするのではなく、
「私は」したいことがいっぱいで、でも、
存分に行う時間的な余裕が無いってことでして、
そういうのも「自分の特色」として、
客観的に見ました・・・ってことでしょうかね。


「自分の思い」を大切にすることも、幸せの一つだと。

愛する心が持てる

06-04,2017

夏(6)
昨日は「寛容」ということを書きましたけど、
社会的には、「寛容」には限界がありまして、
なぜなら、寛容の度合いが大きくなるほど、
それに比例して「きちんと」できなくなるからで、
ですから、公務員というものは、
「寛容」を排除するというのが仕事の基本かなあ、
・・・なんて気もしますけどね。

そんなわけで、世の中には、家庭においても、さらに、
子育ての場面でも、「寛容」を排除するような風潮が、
あるような気もするわけでして、子育てにおいても、
「きちんとしつけないと子どもがダメになる」、
・・・みたいな、誤った感覚を持つ親とか養育者が、
世の中にはたくさんいるかもしれないと思う私です。

あの、でも、寛容ってことはとても大切なことで、
それよりももっと重要なのは、愛情ってことでして、
何よりもかによりも、寛容とか、特に「愛情」って、
幸福のためには、必須だと思いますね。。


自分の存在が喜ばれ、愛されてるのはとても幸福だと。

悪い人でもいい

06-03,2017

夏(5)
昨日は、「良い人間」でいられることは幸福だって、
まあ、そういう意味のことを書いたつもりですけど、
それで・・・ですね、別にねえ、
自分が「悪い人」だったとしても、
「それではいけない」とは、言ってない私です。

あのう、私が言ったことは、自分が良い人間なら、
「幸福を感じる」っていうことでして、
自分は「良い人間でなければならない」とは、
言ってないですし、そういう考えも持っていません。

あの、世の中には、悪い人間もたくさんいますし、
私自身、よくない行動は、今までの人生で、実に実に、
たくさんたくさん、してきましたし、だからといって、
「悪い自分」を否定しているわけではありません。

ただ、そういうこともあったと、客観的に見るだけで、
この人間社会、良いことも悪いことも両方あるし、
人間だって、同じ人間が、良い行動もすれば、反対に、
悪い行動もしちゃうっていうのが、世の中の現実で、
徹頭徹尾良い人とか、悪ばっかりの人なんていうのは、
少ないんじゃないかと思いますけどね。

さて、今日の標題を、
「悪い人でもいい」としましたけど、それは、
自分が「悪人」であることを是認して、
平気で悪事をしよう・・・なんて気持ちではなくて、
自分には悪い面があったり、悪事をすることもあるが、
でも、そのために、自分で自分を断罪し、
自分で自分を否定してしまうというような、
極端な潔癖主義を排するってことなんですね。

もっとわかりやすく言いますと、
「悪い人」であることは、居心地が悪いし、
幸福でもないんですけど、でも、そのときの自分が、
よくないこともしちゃったというような場合、
不寛容で厳格な態度をもって自分を責めることに、
エネルギーを使うのでなく、人に対するときと同じく、
自分にも寛容な態度で自分の過った態度を許容し、
以後また、幸福でよい人間を目指していくという、
まあ、そんな感じですね。


人を攻撃せず自分も攻撃せず、幸福な態度を目指して。

ある言葉

06-02,2017

夏(4)
インターネット上のある Web ページで、
次のような言葉を見つけましたので、
そのことについて書いてみたいと思います。
_______

「子供という生き物は
「良い大人」と「悪い大人」を嗅ぎ付け、
残酷なほど懐く懐かないがハッキリしている。
娘も例外ではなく、
嫌いだと思った大人には一切笑顔を見せる事はない。
________

ああ、そうなんですか、そういうものですか、
・・・そうなんでしょうねえと、すごく納得、
世の中を生きていく上で、「とても大切なもの」が、
その言葉の中に含まれているなあと思いました。

それで、実際の社会では、「悪い人間」がですね、
「良い人のフリ」をするって現実が、世間には、
ほんとに掃いて捨てるほどあると感じている私です。

でも、その文章を読んで思いましたし、私もまた、
そのとおりだと思いますけど、子どもの感覚って、
ほんとに鋭いんじゃないでしょうか。

さて、私は、幸福に生きていくためには、
実質的に「良い人間」じゃないといけないって、
それはほんとにそう思いますね、たとえそのために、
世の中で「損をする」ことがあっても、
損害やダメージが軽微で済むなら・・・ですね。

まあ、そうは言いましても、「悪意を持つ人間」には、
屈しない態度が必要で、悪い行為を許容したり、
自分が犠牲になっちゃうようなことはダメですから、
そのことはおことわりしておきます。

あの、
相手に「悪意が無い」場合について言ってるわけで、
善意を持つこととか、良い人であるってことが、
幸福な世の中をつくっていく条件だと思うんですが。


自分が「良い人」でいられる環境って、幸福ですね。

人と触れあう喜び

06-01,2017

夏(3)
今日は、楽しい時間を過ごすことができまして、
幸福でしたけど、それもこれも、人との関係において、
「いっしょに楽しめる」ってことができたからで、
まあ、人間関係ですから、一見、
「社会的な」ことがらに見えますけど、私の感想では、
一人ひとりの個人的な態度とか気持ちの持ち方が、
大きく関係しているように思いました。

確かに世の中のこと、
個人的な気持ちだけでは対応できないことが多くて、
それは承知しているのですが、でも、
世間の動向みたいのとはまた別に、個人的にですね、
「人と仲良くすること」に価値を感じる人も多くて、
たとえばですね、その国の政策として、
ある国を敵視するように国民にしむけたとしても、
やっぱりそれでも、○○国の人だという理由で、
相手を憎むのはよくないと考える人もいるでしょう。

なんか、極端な話を書いてしまいましたが、
特にですね、人と「仲良く交流する」のがよいという、
幸福な価値観を共有するような活動をしてる人なら、
ただただ、「交流できる喜び」を楽しめばよいわけで、
まあ今日も、幸せな日を過ごすことができて感謝です。


人との楽しい交流って、ほんとに幸せだと思います。

ほんとは別の目的

05-31,2017

夏(2)
昨日は、自分の娘を鼓笛指揮者にしたい母親のことを、
ちょっと書きましたけど、私の考えでは、その母親、
娘を「鼓笛指揮者」にしたいというわけじゃなくて、
まあ、とにかく自分の子が目立ち、世間の人々から、
「うらやましがられる存在」にしたいわけで、
ですから、「鼓笛指揮者」には限りませんで、
このブログでは以前、各小学校が集まる音楽会で、
自分の子に歌の「ピアノ伴奏」係をさせたい親の話、
書きましたけど、その家庭では、
音楽会のピアノ伴奏が「よその子」だったために、
騒動になった話を書きましたけど、形態は違っても、
「同じ部類の話」だと思いますし、世の中には、
そういう話って、数限りなくあるように思います。

それで、結局のところ、現在の自分に対する不満を、
「子ども自慢」でごまかしちゃう・・・というか、
「自分自身のことを自慢」する種もないダメな自分、
・・・だからこそ、「自慢できる子」を仕立て上げ、
子どもが「自慢の種」になるように仕込むのでは?
って、私は推測するんですけどね。

要するに、そういう場合、子どもというのは、
親の願望を叶える「道具」として使役される奴隷、
・・・というところでしょうかね、私はそう思います。


自分自身の本心を、自分にごまかす不幸を思います。